ただし、殺そうとまで考え結果的に奴隷としてヨセフを売り飛ばした兄たちと、売られて苦しめられたヨセフの関係は微妙ですよね。兄たちは絶対に恨まれていると思っていたし、もう生きてさえいないのでは?とも思っていました。兄たちは非常に後悔し、その罪に胸を痛めてずっと苦しんできたのです。その再会においてヨセフは、兄たちと涙を流しながら抱擁します。そして悔いている兄たちに赦しのことばを伝えた場面が今日のみことばです。
創世記45章4-8節
4節 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
5節 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
6節 というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。
7節 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
8節 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
5節 神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
ヨセフは事実、確かに兄たちのイジワルで売り飛ばされ、エジプトに無理やり連れて来られたのです。しかし、今の彼は「そこに神のご計画があったのだ」と信じることができたからです。これは神様が救いのために私を遣わし、私を砕き訓練し備えられたことなのだとヨセフは受け入れることができたのです。兄たちを恨むのではなく、神のなさったこととして・・・。それで「神様が私をあなたがたより一足、二足先にエジプトに遣わし、いのちを救うようにしてくださった」のだと兄たちに告白しているのです。
8節でもこう繰り返します。
8節 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
ヨセフ自身の努力もすさまじいものがあったと思います。忍耐も半端ないものがあったと思います。でも彼は自分の力でこうなれたのだ!と言いませんでした。それが神とともに生きる者の姿です。
また、彼は非常に苦労しましたし、悔しい思いをし、孤独を味わいました。それでも恨むのでもなく怒りをぶつけるでもなく、「すべては神様のお計らいです!自分を責めないでください」と彼は言いました。神の計画に生きる者の姿がここにはあります。
それは環境の奴隷ではない生き方です。
人の支配から自由にされている生き方です。
神の良いご計画に生きる人生です。
実はしばらくしてヨセフらの父、ヤコブが亡くなります。その時、ヨセフの兄弟たちはある心配をします。「もしかしたら、父ヤコブが生きている間は、ヨセフが父を悲しませないようにと我々に復讐しなかったのかも知れない。でも父が世を去った今、我々は復讐されるかもしれない。」そんな不安です。
しかし、ヨセフは信仰に生きていました。神のご計画に目を留めているので「復讐心」にとらわれる必要がありませんでした。
50章19-20節
19節 ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。
20節 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
コロナの問題は私たちを悩ませ、苦しめています。でも、神様はその出来事さえも良いことのための計らいとなさるお方です。問題は、私たちがそれに気づくかないこと、そこに目を留めないことです。神様はもう新しい良いご計画を持って進めておられます。
自分の身に起こった不条理な悪い出来事さえも、神様のご配慮があると知るならば、物事の見方が変わります。まさに詩篇にあるように「苦しみにあったことは、私にとって幸いでした」と言えるのは、その苦しみの中に神の良いご計画があったと知るからです。
神の計画に目を向けられなかったお兄さんたちは、恐れと不安、罪悪感が満ちていました。しかし、彼らからひどい目にあわされたヨセフは、それも神様のお計らいだと受けとめ、かえって人々が生き延びるために必要かつ大切な導きであったと信じ、憎しみからも怒りからも解放されました。
私たちは選ぶことができます。
同じ出来事を体験するにしても、それがたまたま偶然だと理解するのか、自分はひたすら不幸な星のもとに生まれどうにもならないのだと諦めるのか、あるいは、こうして神様によって遣わされ、導かれこの日を迎えているのだと理解するのか。
私たちは神の良いご計画に目を向ける時、同じ出来事さえ景色が全く違って見えてきます。そこには憎しみや恨みからの解放と、神のすばらしい救いのご計画に目が開かれ、そこに協力していける喜びと、どんな境遇においても流されずに歩める確かさと自由とが約束されます。
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