東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 創世記45章4-8節「神のご計画に生きる~ヨセフ物語より~」 
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/11/24

創世記45章4-8節「神のご計画に生きる~ヨセフ物語より~」 

 *** 11/24(火)心のケアと人間関係シリーズ ***

 私たちの人生は、自分の計画通りに行かないことばかりです。その時に、思い通りに行かないということでイライラしたり、ストレスを感じて生きるならば、おそらくいつも不幸で満たされない日々になってしまいます。しかしながら、思い通りに行かない環境、妨げられる状況さえも、神様のご計画の中にあることを知って、神様のご計画の中に歩んで行けるならば世界は違った見え方をします。

 今日はヨセフという人物の歩みを通して、神のご計画に中に生きることを教えられて参りたいと思います。
 ヨセフの波乱万丈な人生
 
 ヨセフのいた時代は、今から3500年ほど前こと。パレスチナとエジプト地域の話です。ヨセフは当時12人兄弟の末っ子でした。しかも年を取ってからの子であり、異母兄弟という複雑な背景などもあり、彼は父親のヤコブから非常に愛され、特別扱いを受けていました。
 それに加え、ヨセフには神様から特別な力(賜物)が与えられており、夢の意味を説き明かすことができたのです。そしてある時、彼は夢を見てそれを兄たちに話しました。

 実はその内容は、ヨセフが支配者のようになり、親やお兄さんたちがみんな、彼を伏し拝むようになるというものでした。

 ただでさえお父さんの愛を独り占めしているのに、さらに権力まで握るようになると言うのですから、お兄さんたちはカンカンです。「思いあがるのもいい加減にしろ!一番下の弟のくせに!」そんな思いが兄たちの心に湧き起こったことでしょう。

 やがて兄たちは、彼への嫉妬心と怒りが積み重なり、父に内緒でヨセフを殺してしまおうと考えます。そして凶暴な野獣に食い殺されたことにでもしようと画策するのです。

 ただ、「さすがに殺人はやめよう、殺してはならない」と止める兄弟もあって、最終的にヨセフは奴隷として売られることになり、命までは奪われませんでした。結果的に彼はエジプトに奴隷として売られていきます。

 ヨセフはそれから非常に苦労します。忠実に仕えていたエジプトの侍従長の家でも、その家の奥さんから言い寄られ、断るものの、最後は彼女に暴行を働いたことにさせられてしまいます。それで牢に入れられ、その牢屋でも彼は忠実に歩むので徐々に信頼を得ていきますが、やはり不遇な扱いを受け、すぐには出られませんでした。 

 それでも神様の導きの中で、夢を説き明かす力が用いられ、ついに彼はエジプトで総理大臣の地位に着任します。家族から引き離され、頼る者もない中でしたが痛みを通って謙虚にされ、成長し、神様のお計らいの中で王の次に権力のある立場に置かれるのです。


 神のご計画に目を留めたヨセフ
 
 実は、ここにはすべて神様の救いのご計画があったのです。ヨセフがエジプトに連れて来られた事も、牢屋に入れられてしまったことも、あらゆる判断を任される大臣の地位に就いたことも、神のご計画でありました。

 実に大きな7年の大豊作の後、7年の大凶作、大飢饉が訪れるということをヨセフは夢の説き明かしで知ったのです。そのため彼は、賢く食料を保存して、この危機を乗り切りエジプトだけでなく、ヨセフの親、兄弟たちを救うことになったのです。ヨセフはエジプトで高い地位で、難局を乗り越えた立役者ですから、その家族たちも優遇されます。最終的に、ヨセフが若い頃に夢で見て兄弟に告げたこと、皆が彼を伏し拝むようになるとう話はその通りに実現したのです。

 ただし、殺そうとまで考え結果的に奴隷としてヨセフを売り飛ばした兄たちと、売られて苦しめられたヨセフの関係は微妙ですよね。兄たちは絶対に恨まれていると思っていたし、もう生きてさえいないのでは?とも思っていました。兄たちは非常に後悔し、その罪に胸を痛めてずっと苦しんできたのです。その再会においてヨセフは、兄たちと涙を流しながら抱擁します。そして悔いている兄たちに赦しのことばを伝えた場面が今日のみことばです。

創世記454-8節 

4節 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

5節 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました

6節 というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。 

7神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。 

8節 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました

 ここにあるように、ヨセフはもう恨んではいませんでした。
 なぜ、兄たちを恨むことなく、受け入れ、赦すことができたのでしょうか?
 5節でこう言っていますね。

 5節 神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

 ヨセフは事実、確かに兄たちのイジワルで売り飛ばされ、エジプトに無理やり連れて来られたのです。しかし、今の彼は「そこに神のご計画があったのだ」と信じることができたからです。これは神様が救いのために私を遣わし、私を砕き訓練し備えられたことなのだとヨセフは受け入れることができたのです。兄たちを恨むのではなく、神のなさったこととして・・・。それで「神様が私をあなたがたより一足、二足先にエジプトに遣わし、いのちを救うようにしてくださった」のだと兄たちに告白しているのです。

8節でもこう繰り返します。

8節 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

 ヨセフ自身の努力もすさまじいものがあったと思います。忍耐も半端ないものがあったと思います。でも彼は自分の力でこうなれたのだ!と言いませんでした。それが神とともに生きる者の姿です。

 また、彼は非常に苦労しましたし、悔しい思いをし、孤独を味わいました。それでも恨むのでもなく怒りをぶつけるでもなく、「すべては神様のお計らいです!自分を責めないでください」と彼は言いました。神の計画に生きる者の姿がここにはあります。

それは環境の奴隷ではない生き方です。

人の支配から自由にされている生き方です。

神の良いご計画に生きる人生です。


 人の謀る悪さえ、良い計らいとなさる神

実はしばらくしてヨセフらの父、ヤコブが亡くなります。その時、ヨセフの兄弟たちはある心配をします。「もしかしたら、父ヤコブが生きている間は、ヨセフが父を悲しませないようにと我々に復讐しなかったのかも知れない。でも父が世を去った今、我々は復讐されるかもしれない。」そんな不安です。

しかし、ヨセフは信仰に生きていました。神のご計画に目を留めているので「復讐心」にとらわれる必要がありませんでした。

5019-20 

19節 ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。 

20節 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。  

コロナの問題は私たちを悩ませ、苦しめています。でも、神様はその出来事さえも良いことのための計らいとなさるお方です。問題は、私たちがそれに気づくかないこと、そこに目を留めないことです。神様はもう新しい良いご計画を持って進めておられます。

 自分の身に起こった不条理な悪い出来事さえも、神様のご配慮があると知るならば、物事の見方が変わります。まさに詩篇にあるように「苦しみにあったことは、私にとって幸いでした」と言えるのは、その苦しみの中に神の良いご計画があったと知るからです。

神の計画に目を向けられなかったお兄さんたちは、恐れと不安、罪悪感が満ちていました。しかし、彼らからひどい目にあわされたヨセフは、それも神様のお計らいだと受けとめ、かえって人々が生き延びるために必要かつ大切な導きであったと信じ、憎しみからも怒りからも解放されました。

私たちは選ぶことができます。

 同じ出来事を体験するにしても、それがたまたま偶然だと理解するのか、自分はひたすら不幸な星のもとに生まれどうにもならないのだと諦めるのか、あるいは、こうして神様によって遣わされ、導かれこの日を迎えているのだと理解するのか。

 私たちは神の良いご計画に目を向ける時、同じ出来事さえ景色が全く違って見えてきます。そこには憎しみや恨みからの解放と、神のすばらしい救いのご計画に目が開かれ、そこに協力していける喜びと、どんな境遇においても流されずに歩める確かさと自由とが約束されます。

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