*** 11/22(日)主日礼拝 説教概略 ***
茶道をテーマにした映画で「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という作品を鑑賞したことがあります。樹木希林さんがお茶の先生を演じていらっしゃいました。その中で主人公の女の子のお父さんがある時、突然亡くなってしまいます。それは主人公が一人暮らしをするようになり、忙しい日々を過ごしていた時のことでした。
お父さんから「たまにはゆっくりご飯でも食べないか?」と誘われながらもいつも先延ばしをしていた時でした。珍しくお父さんから電話があり「用事があって近くまで来たんだ。ちょっとお前のマンションに寄ろうかと思ってな」と。
ところが主人公の女性は用事があって断ってしまいます。お父さんは「そうか。いいよ、いいよ。また会える」と言って電話を切ります。結局それがお父さんとの最後の会話になりました。
突然の死であったわけですが、人は必ず死を迎えるという意味では必然でもあり、普段からもう少しお父さんとの時間を大事にしていれば良かった。彼女はきっとそう思ったことでしょう。
今日のみことばにおいて、イエス様は「突然」ということばを繰り返して、世の終わりへの備えを語っておられます。終わりの日の正確な日時は誰も分からない。また、自分の生涯の終わりの日も分かりません。ある意味突然である。
しかし、その日は確かに必ず来るわけです!来ることは必然です。
だから「いつ来てもいいように信仰の目を覚ましていなさい」ということです。
信じて待っていれば「慌てて今から信じなきゃ!でも、全然聖書わからん!」となることもありません。「神様と普段から親しくしている」ならば、突然の再臨に動揺することなく、喜びをもって迎えることができるからです。
29-30節で主イエス様はたとえをもって終わりの時が近づいていることを見分けることについて話されました。
29節 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
30節 木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。
日本でも木々や草花の変化を見て、季節の移り変わりを味わうことができますよね。当時のユダヤ人たちも同様でした。しかし、これは植物や季節の移り変わりに関心を持たず目もくれない人にとっては、あまり意味がありません。
「最近芽が出て来ましたよね?」と言われても「へぇ」と無関心な反応で終わってしまう人もいますね。同じように、世の終わりについても、神様が語っておられるのに聞く耳を持たない人々にとっては「へえ、そうなの?私とは関係ないね」で終わってしまいます。
しかし、33節で主イエス様はこう言われています。
33 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この天地は消え去る時が来るのだと明言しています。形あるものは必ずいつか滅びる・・・それは私たちも経験の中で学んでいることではないでしょうか?それに対して主は教えてくださり、良い備えをしておけるようにと語りかけておられるのです。決して滅びず古びない永遠のことばをもって、語りかけておられるのです。
イエス様は言われています。聖書から終わりのしるしを学んでおき、見極められるようによく知っておきなさいと。
34節でイエス様はその理由をさらに具体的に語っておられます。
34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。
皆さん「罠」というのはどういうものでしょうか?
例えば魚を釣る場合、釣り針にエサをつけて「ご飯だよ~」と釣るのはまさに「罠」なわけですよね。その場合、魚が「ああ、針がある!罠だな!」と分かってしまうと引っかかりません。ですから、釣り針が隠れるようにエサをつけたり、できるだけ自然な動きになるようにします。つまり「罠」とは相手に気づかれないように隠すものです。
しかし、イエス様はここで再び帰って来るその日があなたがたにとって「罠にならないように」、「よく気をつけなさい」と警告しています。隠すどころか、警告してくれているのですから、イエス様は罠にしたいなどとは微塵も思っていないのです!
けれども、私たちが聞こうとしない、学ぼうとしない、信じようとしないならば「勝手に罠のようになってしまう」ということです。イエス様は誰ひとりそうなって欲しくないので、こうして世界のベストセラー・聖書を私たちに与えておられるのです。
主は35節でも念を押すように語られています。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。
全地の面に住むすべての人。つまり例外なく全人類に起こることです。ここでもイエス様は「突然」ということばをあえて用いています。 イエス様が「突然」と繰り返し言われる意味は、タイミングに関しては人には分からないということです。起こることは確かであり必然なのですが、時については人には突然と思われる。それは神様だからこそできることであって、誰も想定できない時、誰の推理もカンも当たらない時を選ばれているということ。なぜなら私たちが弱いので、神様が隠しておられるからです。
もし、何年何月何日に世界が終わると分かっていれば、その日の直前まで罪深い自堕落な生活を続けてしまいます。そして前日になってようやく信じて備えるか!なんてことを考える人が出ます。その場合、多くの時間を自堕落に過ごし無駄にしてしまいます。まだ大丈夫、明日があると。ですから、人が正確に知ることができないことにこそ、神様の愛の配慮があります。だからこそ、毎日を大切にしなければ、今日この瞬間を大事にしなければ、今伝えるべきことを伝えなければと示されるのです。
キリストの再臨は、本来は「王の帰還」であって、それは勝利の日であり、喜びの日であり、救いの完成の日です。それは、天の住まいの完成の日であり、世界中の人々に福音が伝えられた証拠であり、何よりも救いが完成を迎え、朽ちない永遠のからだをいただける時であり、神の国が成就する喜びの時です。しかし、しかし、ここにあるように放蕩生活、酒浸り生活、思い煩いばかりで神を神とも思わず生きる者にとっては、それが「罠」にさえなってしまう。それは、なんと残念で悲しいことでしょうか。
それゆえ、すべての人を愛し十字架刑の命までも投げ出されたイエス様は、こうおっしゃるのです。36節です。
36節 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
いつも目を覚まして祈っていなさい。「目を覚ます」とは肉体的な話ではなく、心の目を覚ます、霊的な目覚めです。それはイエス様を罪と滅びからの救い主として信じて、イエス様の語りかけである聖書に聴いて歩むこと。イエス様が語りかけているのに、一切聴かないのはまさに居眠りしているのと同じです。
そして「祈っていなさい」とありますが、「祈る」とは神様と語りかけること、お話しする事です。ですからイエス様に対して目を覚まして語りかけに聞き、私たち自身も祈りをもって語りかける。このイエス様との対話、親しい交わり、これこそ最高の備えであります。
特に、私たちはお祈りというものを大げさに形式的にし過ぎている面もあると思います。
お祈りというのはいつでも、どんな時でもできる恵みのわざです。「祈るように生きる」という表現がありますが、神様と親しい人はまさに毎日のあらゆる瞬間が祈りの瞬間です。
朝起きては神様に語りかけ、道を歩いていては安全を主に祈り、電車の中で静かに語らい、会議中に知恵をくださいと祈り、お風呂に入りながら「神様、今日はガンバリすぎて疲れました」と祈る。食事の祈りや開会の祈りなど習慣で祈るだけでなく、友人に語るように、家族と話すように、小さなことから大きなことまで神様に祈りながら親しく生きるのです。
さらに、ここには大事なことばとして「いつも」ということばが加えられています。それは毎日の生活の中で、いつでもということです。そのように毎日親しく語っているならば、いつ来ても大丈夫ですよね。
でも、挨拶したこともない、話したこともないのに、イエス様が地上に来られて「私たち友達ですよね」と言い分を述べても、「わたしはあなたを知らない」とイエス様に言われてしまいます。普段から親しく時を過ごし、神様との時間を楽しみに過ごしているなら、いつも目を覚まして祈りっているということになるのではないでしょうか?
神様は私たちに問いかけておられます。「あなたに明日のことは分かりますか?」と。答えはNOです。私たちには数分後に何が起こるかさえ分かりません。それなのに当然のように明日が来ると思い込んでいます。それは「高慢」です。
あなたがたには明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、
どのようなものでしょうか。 (ヤコブ4:14)
明日を知る方は唯一、全知全能の神様のみです。だから、この方に対して目を覚まし、その声に聞き、私たちの思い煩いもすべて知っていただき、このお方に今日生かされていることを感謝して、今を生きましょう。