ダビデの人生は波乱万丈です。特に姦淫の罪や殺人の罪を犯して後、しばらくは苦しい時期が続きました。息子たちの問題においても彼は決して良い父親として対応できませんでしたし、そのことで非常に苦しみました。
しかし、その後のダビデの信仰者としての歩みを見ると、本当に教えられることが多く、彼の信仰は私たちにとって良い模範、良いモデルであり、励まされるものであります。
それは、ダビデが心から罪を悔い改めて主に立ち返ったこと、そして身内に関係する深い痛みを通らされたことによって、神様によって深く取り扱われ大胆さや率直さだけでなく主の御前における謙遜を身に付けたゆえです。
しかし、年を経る中で、自身の罪深さと向き合わされる事件が続き、彼は主によって徹底的に砕かれ、へりくだる者とされて行ったのです。
私たちの信仰もまた、ずっと同じではありません。歩みの中で練られ砕かれ、勢いだけの信仰から主にゆだねて揺るがない落ち着いた信仰へと変えられていく面があるのではないでしょうか。
そして順風満帆な時ほど危ないのかも知れません。自分では気づかないうちに驕り高ぶり、上から目線で人や物事を見るようになってしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、神様は愛する者をこそ砕いて高慢の罪から守ってくださると言えます。それは神様の御手の中で、よりふさわしい器として造りかえられるためです。
7節 シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。
8節 主がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」
この内容はサウル王家の没落がダビデのせいであるといった主張が半分と、その報いが今息子アブサロムの反乱という形で起こっているのだということが半分でした。
とはいえ、サウル王家の没落は自分たちの不信仰が招いたことであって、的外れな主張だと言えます。しかしながら、ダビデには耳が痛い部分もありました。
「おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから」とのことばは、厳しく痛烈な呪いのことばです。サウル王家の問題は的外れかも知れませんが、「血まみれの男」という表現は彼の心に刺さったのではないでしょうか。
なぜならダビデは自分の罪を隠すために兵士ウリヤを殺してしまったのですから。また、息子同士の争いにおいても向き合うことができず、息子同士が殺し合ってしまったのですから。アブサロムの反乱もそれらの背景があってのことだと突き付けられたようで傷ついたことでしょう。
さて、ダビデの家臣もこれを聞いて黙ってはいませんでした。アビシャイというダビデの家臣はいきり立って「この男の首を撥ねさせてください」と申し出ます。王様になんて無礼なことか!との怒りの反応です。確かにこれだけ痛烈で、胸に痛いことを言われたら応戦したくなるものです。アビシャイの反応はごく当たり前のことだったでしょう。
10節 王は言った。「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」
11節 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。
きついことばで呪われ、しかも半分は的外れ。さらにダビデは王という立場です。もし私たちがダビデと同じ立場に置かれた時、果たしてこのように応じることができるでしょうか。この時ダビデはシムイを遣わされたのは主であると受け止めました。「主が彼に『ダビデを呪え』と言われた」のだと理解し、アビシャイを説得しているのです。
そして、私の息子でさえ私のいのちを狙うぐらいなのだから、王位を奪われた形になったベニヤミン族なら尚更のことだと言います。ここにはダビデの自責の念が現れているように感じます。いくつもの自分の罪の問題、息子への関わり方の問題含め、まさに言われて仕方がない「血まみれの男」なのだと受け止めていたのではないでしょうか。不当な言い分ではあるけれども、しかし決して正統性を訴えられるような正義が自分にもないと受け入れていたのです。それは苦しいことではありましたが、主の御前に実に謙遜な姿勢と言えます。
そして11節の最後でこう結論を言います。
「放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから」と。
シムイの態度、ののしり呪う姿勢、その背後にダビデは主のみ思いを見ているのです。もちろん神様が呪っているわけではありません。シムイの悪意の問題はシムイ自身に返っていきます。彼は報いを受けることになります。
しかし、その悪者のことばさえ用いて、主は私たちに語りかけておられるのだとダビデは信仰をもって受け止めたのです。「ののしられてもののしり返さず」と形容されるイエス様の姿に似ています。
そして、これらは私たちも経験することではないでしょうか。誰かから猛烈な批判を受けることがあるかも知れません。厳しいことば、ひどいことばを受けることがあるでしょう。しかも、決して正しくはない真実ではない批判であることも少なくありません。的外れであり、そんなに言われる筋合いはないということもあります。
けれども、そのことばの背後にも主がおられる、神様のメッセージがあるという視点に教えられます。仮に的外れであっても、私たちが真摯に受け止めることで謙虚にさせられ、気をつけなければと示されることがあります。そういう反応を招くことに、何かしら自分に課題があって、主が取り扱おうとされているのかも知れない。そう受け取れるとするならば、それは私たちにとって益になります。ダビデも謙虚にこれを受け止められたことは、彼の信仰の歩みにおいて大きな恵みとなったことでしょう。
12節 おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」
彼は自分でさばくことをやめました。復讐は神のなさることであるとのみことばがあります。
ローマ12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
ダビデは主の御手に任せ、主が私の心もすべてご存知であると言いました。それをご存知である以上、必ず呪いを良いことに代えてお返しくださるだろうと告白しました。この日の呪いに対して自分でやり返さないでいれば、主ご自身が良いことをもって報いてくださる・・・とても教えられますね。
私たちも正しくさばかれ、正しく取り扱ってくださる公正な主にゆだねる姿勢を持ってまいりましょう。自分で復讐するのではなく、最善をなさる主にゆだねようと決意していくのです。
「なぜあなたにそんなことを言われなければならないのか」と言い返したくなった事もそれぞれあると思います。
一度や二度ではないでしょう。
怒りや悔しさにとらわれ、やり返したい思いにとらわれそうになる。しかし、その時に主が語りかけ止めてくださいます!心を守ってくださいます!
そして代わりに祈りましょう。
すべてのことの背後におられる主を見上げましょう。
あらゆる出来事の中で主のみ思いを見る者とされたいと願います。
それが「キリスト者の見る景色」でありたいのです。