東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記15章24-37節「主にゆだね、ゆっくりと待つ」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/11/04

Ⅱサムエル記15章24-37節「主にゆだね、ゆっくりと待つ」

*** 11/4(水) 祈祷会説教概略 ***
 私たちは思わぬトラブルに遭遇すると、状況を改善しようと慌ててしまいかえって混乱してしまうということがあるのではないでしょうか。しかし、本来はそのような時こそ信仰を働かせ、落ち着いて祈り、主の助けを待てたらいいですよね。

 追い込まれている時ほど落ち着くこと自体難しいわけですが、そこに主がおられると覚える時、私たちは「ゆだねて焦らず待つ」という選択肢を見ることができます。神様を信じていない場合、この選択肢自体が存在しないわけですが、信じる者には一つ多く選択肢が与えられているわけです。せっかくある選択肢を用いないのはもったいないですよね。
 みことばに心を開いて「主にゆだね、ゆっくり待つ」というテーマで教えられて参りましょう。

 主のみこころならば
 息子アブサロムが反旗を翻し、エルサレムに侵略しようとしていた頃、ダビデたちはエルサレムを後にして、まずは逃げることを考えました。その時祭司たちはどうしたのでしょうか。24節を見ると、祭司のツァドク、エブヤタルたちは神の契約の箱と一緒に脱出する準備をしていたことがわかります

 彼らはアブサロムにではなく、ダビデ王に従うことを決意していたのです。状況だけを見れば逃げて放浪するダビデよりも、エルサレムを占拠するであろうアブサロムの方が有利に見えたはずです。しかし、彼ら祭司もまたダビデに従うことが主のみこころであると信じていたのでしょう。ところが、ダビデは彼らに思わぬことを言いました。「神の箱を都に戻しなさい、戻りなさい」と言うのです。25-26節

25 王はツァドクに言った。「神の箱を都に戻しなさい。もし私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。

26 もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。」 

 覚悟を決め、神の箱がダビデ王とともにあるようにと祭司たちは準備していたのです。しかし、ダビデはそれを止めさせ、神の箱と祭司たちは都に留まるようにと言いました。神の箱が自分とともにあれば、人々もここに主がおられると目に見えて分かりやすく、ダビデがアブサロムと対峙する上ではアドバンテージがあったはずです。しかしダビデはそれを止めました。なぜでしょうか?

 それはダビデの信仰に基づく決断ゆえです。

 この25-26節でダビデは何を言っているのでしょう?

もし私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。

 「もし」ということばで始まる2つの可能性が語られています。「もし主のみこころなら、私は生きて戻れる。もし主のみこころでないなら、そうできないし、その場合は主のなさるままを受け入れます」と神様に完全に自分の末路をゆだねる信仰の姿勢です。

 それは自分の願いが叶えられることよりも、主のみこころがなりますようにとの姿勢です。自分の側にできるだけ有利になるようにではなく、また、王であり続けることに固執するのでもなく、主にゆだねる決断です。主が王でいさせようとなさるなら王であり続け、主が王位をお取りになるのならそれにお任せしますとの信仰。握りしめず、主の前に両手を明け渡す信仰です。

 ゆだねる決意があるからこそ、神の箱もエルサレムにあるままで良いとしたのでしょう。契約の箱が近くにあろうと、遠くであろうと、主はそれに支配されず、みこころならば私をまた神の箱のあるエルサレムに戻してくださるに違いないと信じたのです。 

 「神様に信頼してゆだねる」という信仰のあり方は、私たちの誰もが大切にしたい非常にシンプルなあり方です。ゆだねることができないので、力が入ってもがき、かえって苦しくなることがあります。



 主に信頼してゆだねるならば・・・
 さて、この追われて逃亡した時のダビデの信仰の姿勢が、詩篇3篇に告白されています。3:3-4のところ。

3:3 しかし 主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭(かしら)を上げる方。 
3:4 私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。 

 多くの仲間が裏切り敵に回ってしまいました。しかし、ダビデは気づいたのです。自分を囲んでいたのは敵だけではないと!自分の周囲には神様の盾が張り巡らされ、私を守っていてくださるのだと!下を向いている時に、主が私の頭を上に向かせてくださる主がおられる!この信頼によってダビデはドン底の中でも主にあって心が保たれています。

こうしてゆだねる信仰に立った時、どうなるのでしょうか?

Ⅱサムエル15:28 

28節  見なさい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原でゆっくり待とう。」 

 「ゆっくり待とう」ということばがとても印象的です。ダビデは神様にゆだねるからこそ「草原でゆっくり待とう」と言えたのです。もはや焦っても何も変わらない。すべてを主の手に任せて、主のなさることを待って受け入れて行くということです。

 さて、これらはシンプルに大切なことですが、決して簡単ではありませんね。事実、現実は甘いものではありませんでした。30節にあるように息子にいのちを狙われる悲劇、都を追われる悲しみは尋常なものではありませんでした。

30節 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。

 涙なしには受け止めきれない出来事でした。さらに31節では、ダビデに追い打ちの知らせが届きます。側近で良き助言者であったアヒトフェルがアブサロムに荷担しているとの知らせを聞きます。

31節  そのときダビデは、「アヒトフェルがアブサロムの謀反に荷担している」と知らされた。ダビデは言った。「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」

 「まさかお前が!」という悲しみと怒りが、ダビデを襲います。ダビデは深い悲しみ、喪失感の中で「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と主に祈るより他ありませんでした。この時の心境も詩篇55:12-15で示されています。

 そこではダビデの喪失感、怒り、憎しみ、悲しみが示されています。敵ならばまだしも、味方、親友であるお前がなぜ!! 複雑な感情が入り混じっていました。親しい人だからこそ、あまりにも悲しいということがあるでしょう。けれどダビデはその叫びを主のところに持っていったのです。

 そして、主イエス様を思う時、主イエス様こそ弟子から裏切られこの悲しみを背負われたことに気づきます。私たちのすべての悲しみを背負っておられる主がいらっしゃるのです。このイエス様に目を向ける時、私たちの下がった頭を上げてくださる主に目を注ぐ時、そしてゆだねる時!私たちは人の理解を超えた平安をいただくのです。

 それは開き直りなどでは決してありません。自分でも理解できない平安が主にあって与えられることがあります。

 もう一度詩篇3篇の方も味わってみましょう。3-5節です。

5節 私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

6節 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。 

 ゆっくりと眠ることができる。それはまさに主にゆだねた結果です。主に信頼したゆえに受け取ることができた恵みです。イエス様が嵐の中でも舟のともの方で眠っておられたように。神様にゆだねるものの揺るぎない安心感はなんと強いことでしょうか。


 ご一緒にみことばに教えられて参りました。主にゆだねるということについて、改めて教えられました。分かってはいるけれども難しい。私たちはあまりにも多くのものを手に持ちすぎているのかも知れません。失うものが多くあるほどに、ゆだねられないのかも知れません。でも、王という身分のダビデはもっと多くを持っていたでしょう。

 けれど、主以上のものはありません。この方のなさるままに最後は任せるしかありません。いや、このお方こそ私たちの痛みを担い、下を向く私たちの頭を上げてくださる方。この方が与え、この方が取られるのです

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と多くを失ったヨブは主の御名をたたえました。私たちも、もし、主のみこころなら生きていて、あれをさせていただこう!と歩んでいきましょう。

 この方にゆだねて、焦らず主のなさるみわざを、主の時を「ゆっくり」と安心して待ちましょう。


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