東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記19章9-18節 「聖であるとは?PartⅡ」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/11/02

レビ記19章9-18節 「聖であるとは?PartⅡ」

*** 11/1(日)主日礼拝 説教概略 ***

レビ記19章9-18節 「聖であるとは?PartⅡ」

 有名な絵画でミレーの描いた「落穂拾い」という作品があります。美術の教科書に載っていたので、子どもの頃から知ってはいる絵画でした。しかし、その意味はよくわからず、落ち着いた少し暗い絵だなと思っていました。

 ところがクリスチャンになり、その意味を知った時に、そこにフォーカスしたミレーという人は一体どんな思いで描いたのだろうかと思うようになりました。まさに今日のみことばはミレーの「落穂拾い」を理解する上で欠かせないみことばです。しかしミレーの「落穂拾い」の絵と今日のテーマ「聖であること」とは、どのような関係があるのでしょうか?それは後程触れて参ります。


 今お話したように、先々週に引き続き「聖であるとは」「聖さ」とはどういうことか。具体的に教えられていきたいと思っています。この19章の最初にはレビ記全体のテーマ「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」と語られていました。神のかたちに造られた人間は、神の聖さにあずかる者となるよう招かれています。自分を見れば、聖さのかけらもない私たちです。しかし、だからこそ神の聖さを知り、その聖さに触れて「聖めていただきたい」と願うのです。特に今日は「隣人との関係に関わり方における聖さ」について教えられて参ります。


 落穂拾いの背後にあるもの

9  あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。 

 ここがミレーの絵画「落穂ひろい」の起源です。しかし、内容はと言うと「はて何のことだろう?」と思うかも知れません。なぜに収穫時に隅々まで刈り尽くし、散らばった穂を拾い集めてはいけないと神様は言われたのでしょう?

 ここで久しぶりの3択クイズです。なぜ麦の穂を隅々まで刈り尽くし拾い集めてはいけないのか?
①隅々まで刈るのは大変で腰が痛くなるから 
②ちょっと散らかってるぐらいが自然でいいから 
③貧しい人のために残しておくため 正解は?実は10節に答えが出ています。

10節 また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

正解は③の貧しい人のために残しておくためでした。

 寄留者というのは在留外国人でやはり弱い立場の人が多かったのです。
 同様に申命記24章でも収穫の束の1つを忘れてきたら、あえて取りに戻るなとか、オリーブの実も残しておきなさい等と語られています。これらはみんな、孤児とか未亡人とか在留外国人などの弱い人、貧しい人のために残しておいたのです。

 逆に言うと「落穂拾い」という絵が生まれるためには、あるいは「落穂拾いができる」と言うことは、それらをあえて残しておいてくれた人がいるということになります。

 がめつくすべてを拾い尽してしまうのではなく、貧しい者に心を留めよ、この愛の姿勢を忘れるなと主は言われているのです。

 そして、この姿勢こそが主が喜ばれる「聖さ(聖なること)なのだと言うのです。
聖さとは、人が思い浮かべる染み一つない「きよらかさ」のようなものではなく、貧しい者、弱い者への優しさに溢れる姿勢であったと分かります。

 逆に言うと、自分の事ばかりしか考えないエゴこそ、神様の悲しまれる「汚れた心」なのだと知るのです。例え道徳的にどんなに立派にふるまえていようとも、困っているひとりの人に手を差し伸べられないならば、神の前に聖であるとは言えないということです。

 収穫が多い時だけでなく不作の時でさえ、これは守るべき教えでした。苦しい時には一緒に苦しみながらも生きていけるように。分かち合えば助かるいのちがあります。しかし、分かち合わないために死んでいく人がいるのです。そうした世界の中で、ミレーの「落穂ひろい」の絵は大切なメッセージを発しているように思います。   

 かつて私の中の「聖い」というイメージは「厳しさや冷たさ」が強かったです。確かに神の聖さを覚えると恐れを感じさせるほどの圧倒的なものです。しかし、同時にそこに「愛」や「あわれみ」があることに気づかされます。優しさがあるのです。だからこそ「聖い者」になりたいと改めて思わされます。自己中心の汚れから、愛の聖さへと神様によって内側から造りかえていただきたいのです。  



 神様が悲しまれるようなことをしない

 さて、11-13では、盗み、欺き、偽りなどの問題も語られています。写真も防犯カメラもボイスレコーダーもない時代ですね。ウソをつきダマしてもバレないと思う誘惑は今以上に大きかったことでしょう。

 でも、彼らには神の教えがありました。罪を犯せばすべてをご存知のまことの主が悲しまれるという信仰です。神様の聖なるみ教えこそが最大の防犯であり、犯罪抑止の力を持っていたのです。ですから、私たちも人が見ているから、防犯カメラがあるからではなく、そして神様が見張っているからでもなく、神様が悲しまれるから罪を離れる者でありたいのです。 

 続く14節ではこうあります。 

14節 あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である。 

 まさに聞こえない方、見えない方を軽んじるのは、「どうせ聞こえないから、どうせ見えないから」という発想です。聞かれていない、見られていないから。そうではなく、私のために御子のいのちまでくださった主を悲しませない歩みをしたいのです。

 目の見えない方の前には、つまずく物を置いてはいけないと語られています。この世界には本当に多くの宗教がありますが、このような教えを明言している宗教はどれぐらいあるだろうかと思います。人が作るならば、こんな細やかな教えを備えられるだろうか?と疑問です。私が作るなら思い付きすらしないのではないかと。


 さらに16節のみことばを味わいたいと思います。 

16節 あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。 

 これは現代社会に特に覚えておきたいみことばだと思わされます。民の中で人を中傷(非難)して回って、「隣人のいのちを危険にさらす」ことはいけないという教えです。民の中で中傷して回ることが、「隣人のいのちを危険にさらす」ことと結びつけられているのです。不特定多数の人に「〇〇さんは、こんなひどいことをしていますよ」と触れ回る行為が神様が嫌われる行為だとわかります

 これは現代のネット社会で顕著ですね。叩かれ、風評被害で追い詰められ苦しむ人がいます。人間は社会の中でこそ生きられる存在です。ですから、社会から捨てられ追い詰められるような事が起こると、本当に行き場を失ってしまいます。たとえ、その人が罪を犯し悪いことをしたとしても、逃げ場がないほどに追い詰めてはならないのです。

「逃げ道」「やり直しの道」を残しておくべきではないでしょうか。

 神様のみこころは、人を滅ぼすことではなく悔い改め、主の救いの恵みに立ち帰らせることだからです。神様は過失で人を死なせてしまった人などには「逃れの町」を用意され、完全に人が追い込まれ、逃げ場を失い社会的に抹殺されることがないようにと主はいつでも手を差し伸べておられます。



 愛と聖さ

 それは17-18節でより明らかです。憎み恨む動機で人をさばいてはなりません。立ち帰らせるために戒めるのだと。そしてすべての結論、集約として「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」と締めくくられています。

 実に正義を振りかざして人を断罪する(さばく)行為は「聖さ」とは反対側にあるのだと教えられます。 
 「聖さ」は「愛」が伴わなければ既に「聖さ」ではなくなるのです。むしろ愛のない「聖さらしきもの」は、神様の求める「聖さ」ではなく、かえって害悪にさえなりえるのです。

 つまり、愛の動機なしで立派な振る舞いだけをしても、そこに聖さはないのです。ですから、私たちは絶えず「愛に満ちた聖さ」を求めていきたいのです。

「神様のさばきが怖いから教えの通りにする」という動機は、愛から出ていないので聖いとは言えません。人からほめられたいので良い行いをする。それもまた自己中心なので、行いは立派でも聖なるものではない。

 昨日次男が私と妻に缶コーヒーを買って来てくれました。お小遣いからです。流行りのキャラクターの缶コーヒーです。半ば遊び心もあったのでしょう。でも、親に媚を売らないといけない何かがあるのでもなく、強いられてでもなく、何の記念日でもありません。本人は深く考えていないことでしょうけれど、親としては頼んで買ってきてもらった時とは比べ物にならないほど嬉しいものです。

 私たちと神様との関係も同様です。律法にあるから仕方なく守るのではありません

律法にある以上に互いを愛することこそ、主イエス様が説き明かされたことでした。イエス様は人から理解されなくてさえ、最後まで愛に歩み、自身を殺そうとする者のためにさえとりなしの祈りをしました。父の神のみこころをご自分の心とされて歩みました。それこそ本当の意味で聖なる歩みなのです。
 

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