東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記15章32節-16章4節「主の山に備えあり」

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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/11/11

Ⅱサムエル記15章32節-16章4節「主の山に備えあり」

*** 11/11(水)祈祷会 説教概略 *** 

 聖書の有名な格言として「主の山に備えあり(ヘブル語:アドナイ・イルエ)」というものがあります。


 アブラハムはある時、せっかく与えられた約束の子イサクを神様にささげるよう命じられました。そのおことばに従って実際にささげようとした時、神様がそれを止められました。代わりに神様にささげるべき一匹の雄羊を用意されていたからです。

 アブラハムは神様が良い方で、約束の子を殺すはずがない、仮に死なせることがあるならば、必ず復活させてくださると信頼していたのです。神様はその信頼に足りる方で、やはりイサクの命を奪うことは決してなさらず、代わりのささげ物を用意されていたのです。

 それを出来事の時に「主の山に備えあり」とのことばが生まれました。

 私たちも神学校で学ぼうとした時に十分な蓄えはありませんでした。仕事をやめて、無収入の中で主にゆだねて飛び込みました。しかし、主に導かれて信じて進んだ時、主の山には備えが確かにありました。一切の必要が守られながら卒業することができたのです。

 本日のみことばからも「主の山に備えあり」というテーマで教えられて参ります。


 主の備え(祈りの答え) ~遣わされたフシャイ~
 息子アブサロムの反逆時に、ダビデは多くの仲間を失ったということをこれまで学んできました。そして側近で助言者であったアヒトフェルまでも敵方についたことが31節のところで知らされています。

 多くを失い傷ついていたダビデは「主よどうか、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と祈るしかできませんでした。しかし主なる神様はこの祈りの答えを既に用意されていたのです。32節

32節 ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来たとき、見よ、アルキ人フシャイが上着を引き裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。

 神を礼拝する場所とされていた「山の頂」に来たとき、アルキ人のフシャイという人がダビデに会いに来ました。まさに「主の山に備えあり」で、このフシャイがダビデの祈りへの答えであり、主の備えであったと言えるでしょう。

ここでフシャイは「上着を引き裂き、頭に土をかぶって会いに来た」とあります。

それはフシャイがダビデの味方であり、ダビデの置かれた悲惨な状況を一緒に悲しみ嘆く仲間であることを示しています。ダビデにとってフシャイは友であり(37節)、自分の痛みを理解してかけつけてくれたこの友人の存在をどれほど嬉しく思ったことでしょうか。同時に、祈りに対する主の答えであると察したのではないでしょうか。

33節 ダビデは彼に言った。「もしあなたが私と一緒に行くなら、あなたは私の重荷になる。34節 しかしもし、あなたが都に戻って、アブサロムに『王よ、私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります』と言うなら、あなたは私のためにアヒトフェルの助言を打ち破ることになる

 このダビデのことばにはちょっと驚きます。とんでもない事をさらっとフシャイに言っているように見えるのです。33節では「一緒に行くなら、あなたは私の重荷になる」と言っています。親しくなければ言えないでしょう。

 おそらくフシャイが戦いには向いておらず、逃亡しながら追ってと戦うようなことを想定するならば重荷になるということだったのでしょう。しかし、フシャイにはアヒトフェルのように「知恵」がありました。体力はなくても賢さがあったのです。そしてまた、信頼できる人でありました!

 それでダビデは一緒に行くならば戦乱に巻き込まれる危険もあり、「重荷」となるかも知れないが、あなたが都に残りアブサロムに仕えるのならば、その知恵でアヒトフェルの助言を防ぐことができると考えたのです。

 さらに、フシャイを通して情報を自分に流してもらう方法もダビデは思いつきました。

35節 あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたと一緒にいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げるのだ。

36節 見よ、あそこには、彼らの二人の息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンが彼らとともにいる。二人をよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。」

 これらのことを頼める人材は、賢く信頼できる人物に限られていました。ダビデにとってフシャイという人はそういう存在であったのだろうと思います。37

37節 ダビデの友フシャイは都に帰った。そのころ、アブサロムもエルサレムに着いた。

 フシャイが戻ると、時をあまりあけずしてアブサロムもエルサレムに着いたことがわかります。アブサロムが既にエルサレムにいて、そこにフシャイが到着するよりも、フシャイが先に待っていて「あなたをお待ちしていました」と言う方が、圧倒的にアブサロムから信頼されそうです。すべて神様がふさわしいタイミングで導いておられ、備えておられたことがわかります。私たちには先のことはわかりません。でも、祈り求めるならば、その答えを主が備えておいでであると発見することができるのです。


 もう一つの備え 
 もう一つの出来事が続く161-4節に記されています。ここにも神様の備えがありました。山を下って行くと、メフィボシェテのしもべツィバがダビデ王を迎えました。メフィボシェテというのはサウル王の孫にあたります。ダビデの友であったヨナタンの息子です。彼はロバや食べ物を持ってそこで待っていたのです。何しに来たのでしょうか?2節にあります。 
2節 王はツィバに言った。「これらは何のためか。」ツィバは言った。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏の果物は若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」  

 なんとロバや物資の差し入れでした。山の頂からは少し下っていますが、やはり「主の山には備えがあった」と言っていいでしょう。逃亡するダビデたちにとって食糧や飲み物の差し入れは大変ありがたいものだったでしょう。 ただし、ツィバ自身は主君のメフィボシェテについてウソの情報をダビデに語っています。3節のところです。

3節 王は言った。「あなたの主人の息子はどこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、エルサレムにとどまっております。あの方は、『今日、イスラエルの家は、父の王国を私に返してくれる』と言っておりました。」 

ダビデがエルサレムを追われたことを知って、メフィボシェテがサウル王家の復興を期待しているかのようにダビデに言っています。つまりフシャイに関してはダビデへの純粋な友情があったのですが、このツィバに関しては彼が自分の利益を考えて計略を巡らして行動しているもので、決して「きよい動機ではなかった」ことが分かります。

逆にこの事から分かることがあります。神様はまっすぐな思いの人も、企みのある人をも自在に用いて、神の人を助けることができるということです。神に従順で純粋な動機の人だけではなく、神に不忠実、不誠実な者たちさえも豊かにお用いになるということです。

 神様が備えをくださるとき、クリスチャンだけしか用いることができないという条件があれば、限定的なものになるでしょう。しかし、世界のすべての物、すべての人を用いることができるが全知全能の神様なのです。悪意ある人でさえ、主は良き備えのために用いることができるのです。

それを知る時、私たちは本当に心強いですよね。

 神様は今日も私たちに語っておられます。 主の山には備えがあるのだから、恐れずわたしに期待して歩めということです。ダビデは祈っていたからこそ、「主の備え」として二つの出来事を受け止めることができたのではないでしょうか。例えば祈ることなしに、フシャイと出会っていたならば、彼に重要な任務をお願いしようとは思わなかったかも知れません。来てくれてありがとうで終わったかも知れません。

私たちが諦めずに神様に祈って待つという事をする時、祈りの答えに対して目が開かれていきます。ですから、神様に祈ったのならば、祈りっぱなしで終わらないようにしたいのです。祈ったことについて、それがみこころであるならば主の答えがあります。

期待しながら、目を開いて主の備えを発見してみましょう。それは本当に励まされます。

会堂建設の時は本当に祈らされました。でも、その分多くの神様からの不思議な備えを経験しました。当時、最初に買おうと総会で決議した物件がありましたが、なんと翌日に他者に買われてしまったのです。しかし、そこが取り上げられたからこそ、この会堂が与えられました。前の物件は狭く既に入りきれなかったでしょう。エレベーターもないので難しかったでしょう。ですから、最初に購入を決定した物件を他者に買わせたこともまた主の備えでした。「主の山に備えあり」を実感しました。

経済的にも常に足りない。届かない。そういう状況の中でひたすら祈り続けました。みんなで期待して、信じて祈りました。神様はベストタイミングですべてを満たし、さらにそれより多くのものを与えてくださって、今の会堂があります。
コロナのことは私たちには想定できません。しかし、コロナ下に置かれて尚いっそう主の備えの素晴らしさを実感しています。この会堂でなければ同じ時間に1階、2階に分かれて集まることはできなかったでしょう。確かに不便さもありますが、それでも同じ時間に50名もの人が集まることができているのは、この会堂が与えられたがゆえであって、先に買おうとした物件では不可能でした。

すべてを備えておられる主に信頼し、また期待して歩んでいきましょう。



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