*** 11/11(水)祈祷会 説教概略 ***
聖書の有名な格言として「主の山に備えあり(ヘブル語:アドナイ・イルエ)」というものがあります。
アブラハムはある時、せっかく与えられた約束の子イサクを神様にささげるよう命じられました。そのおことばに従って実際にささげようとした時、神様がそれを止められました。代わりに神様にささげるべき一匹の雄羊を用意されていたからです。
アブラハムは神様が良い方で、約束の子を殺すはずがない、仮に死なせることがあるならば、必ず復活させてくださると信頼していたのです。神様はその信頼に足りる方で、やはりイサクの命を奪うことは決してなさらず、代わりのささげ物を用意されていたのです。
それを出来事の時に「主の山に備えあり」とのことばが生まれました。
私たちも神学校で学ぼうとした時に十分な蓄えはありませんでした。仕事をやめて、無収入の中で主にゆだねて飛び込みました。しかし、主に導かれて信じて進んだ時、主の山には備えが確かにありました。一切の必要が守られながら卒業することができたのです。
本日のみことばからも「主の山に備えあり」というテーマで教えられて参ります。
主の備え(祈りの答え) ~遣わされたフシャイ~
息子アブサロムの反逆時に、ダビデは多くの仲間を失ったということをこれまで学んできました。そして側近で助言者であったアヒトフェルまでも敵方についたことが31節のところで知らされています。
それはフシャイがダビデの味方であり、ダビデの置かれた悲惨な状況を一緒に悲しみ嘆く仲間であることを示しています。ダビデにとってフシャイは友であり(37節)、自分の痛みを理解してかけつけてくれたこの友人の存在をどれほど嬉しく思ったことでしょうか。同時に、祈りに対する主の答えであると察したのではないでしょうか。
もう一つの備え
もう一つの出来事が続く16章1-4節に記されています。ここにも神様の備えがありました。山を下って行くと、メフィボシェテのしもべツィバがダビデ王を迎えました。メフィボシェテというのはサウル王の孫にあたります。ダビデの友であったヨナタンの息子です。彼はロバや食べ物を持ってそこで待っていたのです。何しに来たのでしょうか?2節にあります。
2節 王はツィバに言った。「これらは何のためか。」ツィバは言った。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏の果物は若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」
なんとロバや物資の差し入れでした。山の頂からは少し下っていますが、やはり「主の山には備えがあった」と言っていいでしょう。逃亡するダビデたちにとって食糧や飲み物の差し入れは大変ありがたいものだったでしょう。 ただし、ツィバ自身は主君のメフィボシェテについてウソの情報をダビデに語っています。3節のところです。
会堂建設の時は本当に祈らされました。でも、その分多くの神様からの不思議な備えを経験しました。当時、最初に買おうと総会で決議した物件がありましたが、なんと翌日に他者に買われてしまったのです。しかし、そこが取り上げられたからこそ、この会堂が与えられました。前の物件は狭く既に入りきれなかったでしょう。エレベーターもないので難しかったでしょう。ですから、最初に購入を決定した物件を他者に買わせたこともまた主の備えでした。「主の山に備えあり」を実感しました。
経済的にも常に足りない。届かない。そういう状況の中でひたすら祈り続けました。みんなで期待して、信じて祈りました。神様はベストタイミングですべてを満たし、さらにそれより多くのものを与えてくださって、今の会堂があります。
コロナのことは私たちには想定できません。しかし、コロナ下に置かれて尚いっそう主の備えの素晴らしさを実感しています。この会堂でなければ同じ時間に1階、2階に分かれて集まることはできなかったでしょう。確かに不便さもありますが、それでも同じ時間に50名もの人が集まることができているのは、この会堂が与えられたがゆえであって、先に買おうとした物件では不可能でした。
すべてを備えておられる主に信頼し、また期待して歩んでいきましょう。