東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書21章5-19節 「終わりの時への備え」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/11/09

ルカの福音書21章5-19節 「終わりの時への備え」

*** 11/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

 大学生の時アメリカに3週間ほど行きました。その時にある宣教師がホワイトボードに端から端まで線を引きました。そして「これが神の永遠を表すとしたら、私たちの人生はどう表せる?」と。彼はごく小さな点を打ちました。100年生きられても永遠の中ではこの小さな見えないような点に過ぎないと彼は言いました。

「この小さな点のようなむなしく消え去る人生ではなく、線の人生、永遠に残る尊いもののために生きて欲しい」と言われました。私にはとてもインパクトがあり、点で終わらない歩みができたら、今を生きる意味が見い出せると感じました。こうした出会いが私の価値観を変えてくれました。また、別のとある宣教師は人が感動するのは「永遠のものに触れた時」だと言われました。その代表的なものは無償の愛、本物の愛でしょう。

しかし、イエス様の目の前で話し合っていた人々は、目に見える朽ちる物に心を奪われていたようです。

 惑わされないよう、みことばを信じて!

5節 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。
6節 「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」 

 ヨセフスという人が書いた「ユダヤ戦記」には、当時の神殿の外観が本当にきらびやかで、人々の心を奪うのに十分だったと記録されています。金でおおわれ、朝日が照らすとまばやく輝き、直視できないほどであったようです。それでこれの人々もその外観の美しさに心を奪われていたようで、イエス様はそれを聞いてこう言われたのです。

 これらの石は皆やがて崩れ去ってしまうのだということでした。事実、この荘厳な神殿は、イエス様の発言の約40年後、A.D.70年に壊されてしまいます。イエス様はどんなに立派な神殿もやがて朽ちる物であるので、朽ちて行く物に執着せず、いつまでも残るもののために生きて欲しいとの思いでこれを語られたのではないでしょうか。

そのイエス様のことばに彼らは敏感に反応しました。7節。

7節 そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」 

目の前の光景がいつまでも当たり前にあるだろうと思っていた彼ら。特にこの美しい神殿が崩れる時が来るなど、想像できなかったのでしょう。神殿が壊されるような大事件は、かなり大規模な戦争などかも知れない。そしてやはり興味関心がわくのは、いつ?どのようなしるしがあるのか?そうしたことでした。

そこでイエス様は、まず「惑われされないこと」が大切であると示しました。
つまりデマや噂に流されないようにです。

8節 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。 

キリストを名乗る者が1人や2人ではなく、大勢現れ「私がキリストだ」「時は来た」と言うのです。そういう人々が出現しても慌てる必要など一切ありません。イエス様のおことばが成就しただけ、預言通りだと受け止めればいいだけです。そして、こういう人たちはニセモノで、まだ終わりじゃないということdす。だからついて行ってはいけませんと言われたのです。

 本物は「私こそキリストです!」などと一生懸命アピールする必要がないのです。誰でもわかるように来られるからです。「え?本当にキリストさん?それっぽくも見えるが、それっぽくない感じも?」なんて迷う時点でニセモノです。なぜなら誰もがわかるように来られるからです。別の個所でこうあります。

マタイ2429-31節。

29節 そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。 30節 そのとき、人の子(キリスト)のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子(キリスト)が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。 31節 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。  

 これだけ特殊な事が伴うのですから、わからないはずがありません!さらに30節では「地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ」とあります。これはキリストを信じなかった人々のことです。本物のキリストだと誰もが分かるからこそ「ああ、なぜ信じなかったのか」と胸をたたいて悲しみます。信じていない人でもハッキリわかるのです。

 そういう意味でも終わりの時の備えとして、まずは、なんとか小さな信仰でもいいのでイエス様を信じて歩み始めて欲しいと思います。辛うじてでも信じていれば、少なくとも「胸をたたいて悲しむ」ことは不用です。「ああ、曲がりなりにでも信じていて良かった」とほっとするでしょう。

 このように本当の事(本物)を知っていれば、見分けるのは簡単です。騙されなくて済みますよね。さらに9節で主イエス様は言われます。

9節 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」  

 戦争や暴動のことを聞くとすぐ人は世も末だ!と反応しがちです。しかし必要以上に恐れてはいけません。恐怖心は私たちから冷静さを奪うからです。悲しいですが、恐怖心を利用して人を扇動したり、騙したりということが起こってしまいます。しかし、イエス様は「恐れるな」と言ってくださいます。それらは必ず起こることで、神様がご存知だからです。恐れにとらわれ冷静さを失わないようにと予め、教えておられるのです。

 実際に20世紀の二つの世界大戦時は、世の終わりではないかと思う人が少なからずいたことと思います。しかし事実はどうでしょう?世界は終わりませんでした。ですから、慌てずみことばに堅く立ちましょう。 10-11節でも、民族同士、国同士の敵対が起こり、大きな地震や飢饉が起こり、疫病が起こるとあります。さらに、12節によれば、これらの終末の時代にはキリスト者が大きな迫害を通ることも語られています。 



 終わりの時は、証しのチャンスである

 しかし、これらも恐れないで受け止めていきたいのです。なぜなら、13節で主はこう語っておられるからです。 

13節 それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。 
 
 困難と思われる迫害の時代、それは救いの知らせを証しする機会なのだと。神を信じる者にとっていつでも「ピンチはチャンス」になりえるのです。 

 妻の祖父はまさに第二次世界大戦の直前、日本軍の警察=憲兵の曹長でした。その役目はなんとクリスチャンの行動を調べ監視することでした。つまり迫害する側です。ところが中国の南京にあったキリスト教会を監視している時に、クリスチャンたちの姿に触れ改心してクリスチャンになったのです。監視する側の人が、監視されているキリスト者の証しに感動し、救われていった実例と言えるでしょう。

 やがて祖父は自分の部下たちを教会に誘い始めました。ところが、その事実が軍部に知られると、1941年開戦後ほどなくして首になり日本に帰国したのです。その後牧師になるわけですが、今度は自分が周囲から迫害を受ける側になりました。憲兵をクビになってまでクリスチャンとして生きるなんて、周囲の人々には理解できないことだったのです

 それで奥さん(つまり妻の祖母ですが)をはじめ、親族たち、地域の方々からも猛烈なバッシング、攻撃を受けたそうです。それは16-17節で語られていることと通じています。身内からも憎まれることがあります。 けれども、妻の祖父は、むなしく消える富や名誉のためではなく、いつまでも残り永遠のいのちに至るもののために生きていく決意をされたのです。

 迫害の中でも信仰を捨てず証しを続けました。それで信じる人が次々と起こされました。そこから牧師になる方が起こされました。やがて祖母も信仰を持ち牧師夫人となりました。祖母はそれから子どもたちや孫の救いのために祈る者となりました。

 苦しみのあったところに、救いが生まれ、孫やひ孫の世代にまで救いの喜びが広がっているのです。なんという幸いでしょうか。イエス様が言われた通り、迫害が証しの機会、大きな祝福と恵みをもたらす機会となったのです。

 

 いつまでも残るもののために
 

18節にはこんなに力強いことばが語られます。

18節 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。 

 実に終わりの時とは、慌てふためく時でもなく、絶望すべき時でもありません。人は試練に会うからこそ己の心や生き方を顧みるのです。それは神に立ち帰る機会にもなるのです。そして、信じる者への確かな守りを主は約束されています。永遠のいのちを獲得した者には、誰もそのいのちに手出しができないのです。天国というゴールが確約されているのです。その中で、私たちは限られた期間を忍耐深く歩むよう教えられているのです。


 これらの備えができる時、私たちは刹那的な生き方や拝金主義や物に固執する生き方から自由にされます。すぐに消え去るこの世の物に固執せず、永遠に残るもののために、あなたの大切な時間や思いをささげていきませんか?

 キリストとともに生きる時、そういう選択肢がすべての瞬間にあるのです。

 新会堂を建設をする時、すぐその隣にサタンもいると言われます。その建物自体を神にしてしまう誘惑があるからです。だから私たちは「献堂式」を行なうのです。それは単に会堂が建ったことを喜ぶ会ではありません。5節に出て来たように会堂の立派さを称える会でもありません。

「教会堂を神におささげする式」です。

 この世的なむなしく消え去る使い方にならず、いつまでも残る信仰、希望、愛のために用いるためです。神様のご用のため、人の救いのためにおささげするのです。木造建築ですから頑張っても数十年です。さらに大災害等があれば一瞬で消え去ることも十分あり得ます。それは小さな点の用い方です。でも、この教会があるおかげで救われた人のいのちは永遠です。点ではなく線になります。終わりのない線。ここでなされた神のみわざは、時を超えて人に感動を与えます

 すべての物には終わりがあります。しかし、終わりを超える「永遠」を神様は与えてくださいます。終わりの時への備えとは、キリストをしっかりと信じてみことばに堅く立って歩むことです。目に見える物に固執せず、恐れず惑わされず、今日という日に神の救いを証しする歩みです。
 あなたの人生を、あなたの才能を、あなたの時間を、すぐに消え去る物のために浪費せず、いつまでも残るものにささげていきませんか?


 

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