東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記19章26-37節 「聖であるとは?PartⅢ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/11/16

レビ記19章26-37節 「聖であるとは?PartⅢ」

*** 11/15(日)礼拝 説教概略 ***

レビ記1926-37節 「聖であるとは?PartⅢ」

 聖書は「救いは行いによるのではない」(エペソ2:8-9)とはっきりと語っています。一方で「行いのない信仰は死んでいるも同然である」とも語られています(ヤコブ2:17)。それで少し混乱される方がいらっしゃるかなと思うのです。しかし、こう整理することができます。

 「私たちは良い行いによっては救われない。しかし、恵みによって救われた者は、神の願う良い行いに生きるようになれる」と。自分なりに正しいと考える行いによって救われることはできない。しかし、神の恵みによって信じて救われたのなら、神様の望む良い行いを実行できる者へと変えられていく。そういうことです。それゆえ、信仰は結果的に良い行いを通して現されていきます。

そして、この変えられていくプロセスを「聖化」と言いまして、聖なる者へと変えられていく歩みなのだということです。それは瞬時に終わるものではなく、時間をかけてじっくりと内側から変えられていくものです。それは一朝一夕にはいきませんが、他の人から「変わりましたね」と言われた時、実感できた時は、本当に嬉しいものです。そうして変えられていくプロセスにはみことばが欠かせません。

ある人が足を骨折してお医者さんに行きました。その人はケガした時の状況や自分の痛み具合を詳しく医師に訴えました。さて、これだけでケガは良くなるでしょうか?これだけでは足りません。お医者さんの指示に従い治療を行い、リハビリを行って行くことで改善しますよね?私たちの魂のケアも同様です。一方的に自分の言い分を神様に述べるだけ(祈りっぱなし)では成長はありません。神様の声に聞き従っていく時に、聖霊が働かれ変えられていくのです。今日も御声を聞いて「聖であること」を学ばせていただきましょう。


 まじない、占い、霊媒、口寄せについての警告
 

今日のみことばの26節や31節を見ると「まじない、占い、霊媒、口寄せ」これらをしてはならないと教えられています。実にこれらは現代でもかなり流行っていますが、今から34千年前のイスラエル人たちの周辺でも大流行していたので何も新しいものではありません。

そして、神様はこれらの行為の背後に悪魔がいること。ゆえに多くの危険や汚れがあることを知っておられ警告をされているのです。26節の最初には「何でも血が付いたままで食べてはならない」とあり、そこだけ食事の話?と思われるかも知れませんが、おそらくこれもまじないや占いと関係している行為だろうと思います。当時は動物の臓器を使った占いというものがあったからです。31節でもこうあります。

31節 あなたがたは霊媒や口寄せを頼りにしてはならない。彼らに尋ね、彼らによって汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

霊媒・口寄せはイスラエルの初代の王サウルが、不安と恐れの中で手を出してしまった方法です。しかしそれは、悪霊の力を借りて物を尋ねる方法です。ここに「彼らによって汚されてはならない」とありますように、そうした物を求めれば、悪しき霊の汚れに触れることになります。悪魔やその配下に道を尋ねて、彼らが幸せにしてくれるはずがありませんよね。若い子の雑誌には「占い」などがかわいらしく書いてありますが、その奥には悪霊の存在があることを忘れてはいけません。特に風水や占いに固執すると、ある意味暗示にかけられてしまい、思わぬ事故や人間関係の破壊につながることがあります。まじめな方、弱い方ほどハマってしまい、大切な財産を失いかえって不幸になっていくケースがあります。そのような方々に、愛と真実に満ちた神様の道があることをお伝えしたいのです。


 老人に対する敬意
 

 さらに32節では老人に対する態度について神の聖さが示されています。

32節 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。  

 注目すべきことはすぐ後に「あなたの神を恐れなければならない」と加えられていることです。この一文があえてここに入れられていることに神様のみこころがあるのだと思うのです。
 
 新改訳聖書では「老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない」とされていますが、ここは「また」ではなく「そして」と訳した方がいいかなと思います。英語で言うところの「and」をどう訳すかという問題なのですが、「また」の場合は関連しない別々のことを並列するニュアンスが「そして」より強くなります。

 一方「そして」は元々「そうして」と同じ意味であり、AがあってそうしてBにつながるという流れを意識できることばです。ここでは明らかにこの二つの文を意識的に繋いでいます。ですから、「老人を敬い、そして(そうして)あなたの神を恐れなければならない」と。前の話から後ろの話へと繋がり展開していく一文です。

 つまり「白髪の老人の前で起立し敬うようにせよ!そうして、あなたの神を恐れよ」ということです。もっと言うならば、老人を敬う姿勢を持つならば、それは神を恐れることにつながりますよと言うことです。なぜなら、ご年配の方とは長く多く生きている方です。長く歩まれた方を敬う姿勢は、もっとずっと長く永遠に生きておられる神様をより敬うことになりますよね。年長者を敬うことは、主を恐れ敬うことにつながっているのです。

私たちの教会では来年度、「牧師になろうとしている研修生」を3か月ほど迎える予定になっています。私も神学校を卒業して研修生としてある教会でお世話になりました。非常に有益な研修でした。その研修先の先生に「お年寄りを大切にしなさい」と教えていただきました。その先生自身も先輩の先生からそう教わって心に留めていたと言われました。

当時の私は最初「なぜ、そんな当たり前のことをおっしゃるのだろうか?」と思ったのです。小学生が道徳で習うようなことを、あえて牧師研修でおっしゃるのはなぜかな?と思ったものです。でも今は、私も研修生にぜひお伝えしなければと思っています。なぜ、そんな当たり前のことをあえて伝えるべきなのでしょうか?

「大切な事なのに、できていないから」です。

私自身教わった時に「なんでそんな当たり前のことを?」と思ったということは、その大切さや実行し続けることの難しさを分かっていなかったということです。

主の聖さと愛に満ちた「この教え」を無視しての教会の祝福はありません。
今、次世代育成はどの教会でも課題です。でも、それをしたいならば、お年寄りを大切にしないといけません。なぜでしょう?

若い子もやがて年配者になるからです。若くて動けるうちは大事にされ、年をとったら大事にされない姿を見るならば、若者はそんな教会にずっと残りたい、そこでずっと仕えて行こうと思えるでしょうか。思えなくなりますよね。

できなくなってもここに居場所があるんだ!と思える群こそ、神様の聖さにあふれる群です。


 外国人、よそ者と呼ばれる人を愛すること

 もう一つ触れたいと思います。神様は在留異国人への愛を改めて教えておられます。

33節 あなたがたの国、あなたのところに寄留者が滞在しているなら、その人を虐げてはならない。 

34節 あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。  

 「外国人を虐げてはいけない」という教えとともに、34節では「自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない」とあります。それは彼らをいじめてはいけないという消極的教えに留まらず、積極的に仲間に加えてあげなさいという教えです。いじめはしないけれど、話しかけもしない・・・ではなく、同じ国に最初から生まれた仲間のように、親しくともに歩むようにということです。

そこには「その人を自分自身のように愛さなければならない」とまで加えられています。

 それは現代のキリスト教会に歩む私たちも問われることです。外国の方もいらっしゃいます。古くからいる者もいれば、あとからこの群に加わる人もいます。しかし、後から来た人を「よそ者」とせず、この教会で救われた者であるかのように仲間として歩むことができたらいいですよね。そして神様はただ命じられただけでなくて、より親身になって寄り添えるようにこう加えておられます。

あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。

 この一文は重要ですね。

 イスラエルの民も外国の地で肩身の狭い思いをした経験があります。その経験がここで生きるというわけです。あなたがたもかつてはそうだったでしょう?大変だったでしょう?苦しかったでしょう?だったら、その痛みがわかるよね?と言われているのです。

 私たちが苦しみを経験する理由の一つは、同じようにそのことで苦しむ人々を愛する者となるためです。痛みを通ったならば、そのことで苦しんだのならば、今同じ痛みや苦しみを通っている人に寄り添い、励まし手となるように召されているのです。自分は楽になった、あとはもう知らんぷりでは愛がありませんよね。

私たちの教会は経済的に厳しい時期を通りました。10年ぐらい前は「来月の家賃が払えない。どうしよう」という状況がありました。そういう苦しいところを通らされ、多くの方々の祈りと助けをいただきながら成長してくることができました。だからこそ、これから与える群としてより成長していきたいと願うのです。

その不安、その大変さがわかるからこそ、痛む教会を支援できる教会でありたいのです。そしてまた自分たちで終わらず、新しい群を生み出し支える教会となっていきたいと願うのです。神様がイスラエルをエジプトの支配下に置かれたのには、そうしたご計画もあったと言えます。苦しみを通る時、それが過ぎたら「ああ、よかった」で終わらない。その経験からしか生まれない優しさ、励ましがあるのです。あなたが苦しんだ分、隣人に寄り添って差し上げてください。


 神様のおっしゃる「聖であること」について学んで参りました。悪魔が背後で導くまじないや占いなどに惑わされずに歩みましょう。導きは愛と真実に満ちた神様がくださいます。白髪の老人に対して敬い大事にする心、外からそして後から入って来られた方々を迎え入れ、古株も新入りもなく共に歩む姿勢。痛みを通ったからこそ、寄り添う姿勢。これらをもって主への愛、隣人への愛をまっとうすることこそ、聖とされる歩みです。

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