*** 12/2(水)祈祷会 説教概略 ***
15章に記されている窮地における「ダビデの祈り」を覚えていらっしゃるでしょうか。
危機的な状況の中で追い打ちをかけるようにして、腹心であり良き助言者であったアヒトフェルが反逆している息子アブサロムの側に寝返ったとの知らせが届いた時でした。
15章31節 「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」
そして、その時のダビデの心境は、詩篇55篇等からわかるように、本当に苦しく裏切られた悲しみ怒りに満ちていました。しかし、それでも幸いだったことはダビデが主に向かって行ったということです。神様にその叫びを訴え、祈りもがくうちに神様からの平安とその答えをいただくようになるのです。神様に祈り求める者は、この世が与えることのできない不思議な平安と主のすばらしいご計画を知ることになります。
アヒトフェルの助言とフシャイの助言
今日の17章では「その祈りの答え」が具体的に見えるかたちで実現しています。
5節 アブサロムは言った。「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」
この行動がアブサロムの行く末に大きな影響を与えます。
フシャイこそはダビデが送り込んだ人であり、神様がアヒトフェルの助言を無効化するために用いた人物だからです。
フシャイの助言は7-13節に記されていますが、要約するとこうです。
おそらくアヒトフェルの助言の通りになされていたらダビデは危険でした。
しかし、フシャイの妨害が効果を発揮します。アブサロムにとってフシャイの提案は「自分の名を知らしめる」という欲を満たす提案に見えたことでしょう。これが実に罠になったわけです。
例えばフシャイの提言の中で、9節の中には『アブサロムに従う兵たちのうちに、打たれた者が出た』と言うでしょうと触れています。アブサロムは見栄えを気にする人でしたから(それは劣等感から来ていますが・・・)、アヒトフェルに任せて「兵が打たれた」となれば、結局はアブサロムに従う者が打たれたというイメージになります。彼は自分の名前が悪い出来事の中に使われることを恐れたことでしょう。
ダビデに劣っていると思われたくない。ですから、手柄は自分のものにしたいし、マイナスの出来事は自分のせいにされたくない。それでアヒトフェルが1万2千の兵で挑んでも勝利できない場合、自分の名誉が傷つくと思ったのではないでしょうか。さらにイスラエル全軍を率いることこそ、王なる自分の勇姿を示すのにふさわしい!そう考えたことでしょう「奇襲」ではなく、王が先頭に立って堂々と威厳を見せつけながら勝ちたいという欲が出たのです。
これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。
ダビデは神の栄光を求め、神の助けを頼みとしましたが、アブサロムは自分の栄光を求めました。結局、罪の結果が自分に帰って来ています。神の前に、人の前に謙虚であればこうはならなかったでしょう。
神に逆らう者、神に従う者 その結末
ただ、フシャイから伝言を受け取ったヨナタンとアヒマアツはダビデのもとに急ぎますが、途中で若者に見つかりアブサロムに知らされてしまいます。すぐさまアブサロムの配下の兵が彼らを追うのですが、彼らを井戸に隠してかくまってくれる女性によって難を逃れ、無事にダビデのもとに行きました。
名もなき女性ですが、もしアブサロムに事実がバレれば命はなかったのではないでしょうか?命がけでダビデの配下の祭司たちを守ってくれたのです。ダビデには本当に色々な人が助力してくれていることが分かります。
それは神様がそのように多くの人をもって助けてくださっているということに他なりません。神様ほど顔の広い方はいらっしゃらないのですから!
それで23節にあるように、アヒトフェルは自ら首をくくって死んでしまったことが語られています。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダを想起させます。神様に敵対する者のは一見うまくいったように見える時があっても、自分で自分の首を絞めていくのだと気づかされます。
ダビデは確かに多くの人に見捨てられました。ただ、彼らは自分の都合でフラフラとなびく風に揺れる葦のような存在です。アヒトフェルがその例でしょう。しかし、ダビデにはいざという時に命がけでともに歩んでくれる仲間も与えられました。しかも、ユダヤ人だけでなく外国人たちまで協力してくれました。すべて神様が遣わしてくださり、危機にあっても守ってくださいました(15節以下でもギリギリ守られている)。あなたをも守ってくださる主です。