東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ40章1-2節「慰めinクリスマス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/12/07

イザヤ40章1-2節「慰めinクリスマス」

 *** 12/6(日)アドベント第二 主日礼拝 説教概略 ***

 皆さんは「慰め」と聞いてどのような印象を持たれるでしょうか。私ぐらいの世代の男性はもしかしたら「慰められるなんて女々しい、情けない」という印象を持つ方がいらっしゃるかも知れません。「男は泣くな」と言われた世代ではないかと。
 
 ですから「慰められる」というのは弱い人間がされることであって、少し受け入れにくいかなという気もします。私の世代でそうならば、私より上の世代の方は余計そうかも知れませんね。しかし、聖書が語る「慰め」は私たちの持っている印象とは違っています。決して情けないものではなく、すべての人に必要なものであると分かります。その点も含めて、今日クリスマスにおける慰めについて教えられて参りたいと思います。


 慰めの意味

  この40章の「慰めよ」で始まるメッセージが語られたのは、キリストが生まれる700年以上も前のことです。歴史的にはまだエルサレムが滅んでいない時。ただ、現実的にはアッシリアからエルサレムが激しく攻撃されており、100年後にはバビロン捕囚が迫っていました。イザヤはその暗闇の時代に人々が決して絶望してしまわないように、神様からいただいたことばをあらかじめを語ったのです。それは、この国がひとたび滅びを経験してもそこからの回復があること、そしてさらにその先には救い主が来られ、真の慰めを得ることの預言でありました。1節。

40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──

 この箇所はヘンデルが作曲した「メサイア」という曲の歌い出しのみことばです。テノールの優しく美しい調べのうちに、「慰めよ 汝ら、慰めよ 汝ら、私の民たちよ」と歌われます。そして「慰めよ、わたしの民を」というテーマは、イザヤ書のこの40章から実に最後の66章までを貫くテーマとなっています。それぐらい神の慰めを受けることは重大な意味を持っていました

 では、この「慰めよ」とはどんな意味なのでしょうか? 

多くの英訳聖書でcomfortということばが用いられています。それは「慰める」の他に「楽にする」「元気を与える」といった意味にも訳せます。もしかしたら「ほっとさせる」と訳すことも可能かも知れません。私たちの教会の集会に「ほっとカフェ」がありますが、まさに癒され慰められるカフェと言っていいかもしれませんね。

そして聖書中で「慰め」ということばを調べていきますと、慰めということばと共に「喜び」、「楽しみ」、「感謝」ということばが登場していることに気づきます。慰めの結果として、喜び、楽しみ、感謝がもたらされているということです。

ですから聖書の言う「慰め」はマイナス感情を少し緩和するといった消極的なものではなく、単なる感情的なことでもないと分かります。深い嘆き悲しみがあったところに、神様からの確かな「慰め」が与えられると、そこには「楽しみ、喜び、感謝」が生まれるということだと分かるのです。「少し気が楽になった」という曖昧なものではなく、現にすべての罪が赦され永遠のいのちが与えられ、神との交わりに入ったことによる「中身のある慰め」なのです。 

それはイエス様ご自身が山上の説教で語られています。 

マタイ54節 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。 

初めて耳にすると不思議なことばに思えます。「悲しむ者は幸いだ」なんて普通思いません。でも「自ら悲しむ者になってでも神様からの慰めは受ける価値がある」ということなのです。

そして何を悲しむのかが大切で、実に自分の罪深さや愚かさを嘆き悲しむ者こそ幸いだという意味です。それは自分の罪深さを率直に受け止め涙する者のことです。その時に神の救いによる慰めを受け入れることができるからです。その人こそ罪の赦しと神との交わりの回復を確かにいただくので真の慰めを受けるということです。

そうであるならば、神が与える慰めを受けることは、決して女々しいことや情けないことではありません。むしろ自分の愚かさや過ちを率直に認めることなわけですから、それは積極的に受けるべき恵みなのです!
反対に自分の罪深さに涙できず、カンペキだと思い込んでいる人は慰めを必要とできず、当然に「神の慰め」を受けられないのは残念なことです。それゆえ神様は、「慰めよ!慰めよ!」と命令形でぜひ慰めを受けられるようにと強くおっしゃるのです。

聖書宣教会という神学校で学ばせていただきましたが、そこでことあるごとに皆でささげる合唱賛美がありました。伝統的に歌われて続けてきた曲でした。「慰め主(ぬし)なる主を」という曲で、歌い出しから「慰め主なる主を 歌をもてたたえよ」と始まります。個人的にこの合唱賛美に感銘を受け、あるいは実際に慰めを受けてきました。ああ、神様は色々な呼ばれ方をするけれども「慰め主(ぬし)なのだなと心に染みたのです。今、コロナ下で弱り、疲れ、気力を失っている方たちに「神様は慰め主なんですよ」とお伝えしたい。「慰めの方」ではなく「慰め」です。最高の慰めをくださる主であることを覚えましょう。


 慰め主の愛=キリストの十字架

 そして神様はそうやって罪深い民を指して、「わたしの民」とも呼ばれました。先週もお話しましたが、この民が国を失い苦しむことは自業自得でした。造り主である神様を離れ、罪に罪を重ねた結果でした。しかし、そうでありながら神様は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と彼らに親しく呼びかけます。

裏切り離れた民をなお「私の民」と呼び、ご自分のことも「あなたがたの神」と称してくださっています。私たちは自分がうまくいっている時はいいでしょう。けれど、大きな失敗をしてしまった時、誰かを傷つけてしまった時、罪を犯し罪悪感の中にある時に、「私はあなたの民です」とか「あなたは私の神でいらっしゃいます」と胸を張って言えるでしょうか。とても言う資格などないと感じてしまうこともあるでしょう。

しかし、神様はそんな状態の私たちであってもあなたは「わたしの民」「わたしはあなたの神」であると言ってくださるのです。むしろそういう時にこそ、神様はあなたを「わたしの民」だと言い、ご自身を「あなたの神」だと言ってくださるのです。神様の忍耐深い寛容すぎるほどの愛がここに現れていますよね。

この忍耐深く寛容すぎるほどの愛の実りがイエス・キリストの降誕です。慰めをもたらすために来られたのがイエス・キリストなのです。それはさばくためではなく、キリストを受け入れる者が真の慰めを得るためです。

                                        ヨハネ3:16-17
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 

神様は代わりのいない、ご自身にとって一番大切なひとり子イエス様を与えるほどに、世の人々を愛されたのです。それは人をさばくためではなく、信じる者が誰も滅びず、永遠のいのちを得るためです。真の慰めを得て平安のうちに今を、そしてとこしえまでも神様からの愛を受け取り続けて歩むためです。

2節を御覧ください。
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」 

「優しく語りかけよ」とのことばに慰められます。神様は優しいお方です。罪をさばく神、正義の神、怒る神と色々な神様の姿を思い浮かべるかも知れませんが、神様は誰一人滅びることも死ぬことも望まない方です。この方はどこまでも私たちに救いの手を差し伸べられる優しいお方です。「優しい」という漢字は「にんべん」と「憂(うれ)い」という字からなります。深い悲しみの中にある憂える人に誰かが寄り添う時に、それが「優しさ」となります。神様は栄光ある神でいらっしゃったけれども、人の罪深い汚れのただ中に人の姿となって来られ、隣人となられたのです。このような優しい神様の慰めのことばを多くの方に受け取って欲しいのです。

この2節で具体的に言われていることは「苦役は終わり、咎は償われている」ということです。もう「罪や咎で苦しまなくていい」。もうその苦しみから解放されていい。主イエス様のもとに来てすべて重荷を降ろして楽になりなさい!そういう招きです。

ここに赦しがあります。あなたの代わりに主イエス様が償ってくださったのです。それがイエス・キリストの十字架の役割です。イエス様が私たちすべての罪人に代わって、十字架の上で苦役を耐え忍ばれ、償いを成し遂げてくださったのです。そこには罪から解き放たれた自由、喜び、感謝、死への勝利があります。 

実にこのことを知った時、私がキリストを信じる前に友人や知人に提供してきた慰めは「何だったのか」と思わされた事があります。不安の中にいた友人に「きっと大丈夫だよ。なんとかなるよ」と伝えました。どこに何の根拠があるのでしょうか。

大きな罪責感に苦しむ人に「大丈夫ですよ。そのぐらい、みんなやっていることですよ。」と言えば慰めを与えることができるのでしょうか。そこには何の赦しも解決も与えてはいないのです。ただのことばです。

しかし、イエス・キリストにある慰めはどうでしょうか?不安の中にある者に、永遠のいのちと神の確かな助けや守りがあることを伝えられます。

大きな罪を犯して罪責感に悩む者にイエス様の十字架を信じれば「すべての罪は赦されます」と明言できます。

誰からも必要とされていない、誰からも愛されていないと自暴自棄になっている人に向かって、「イエス様はあなたのためにいのちをささげるほど愛してくれている!!そして、イエス様のその愛を受け取るならば、決して見捨てられることも見放されることもない!安心してください」と言えるとは何と嬉しいことでしょう。 


 神様のもとにある慰めにはすべて中身がある。根拠がある。真実がある。力があるのです。


 慰め主、救い主を受け入れよう

 
 最後に、新約時代になってこの慰めを待ち望んでいたシメオンという老人の話をします。

 彼はその目で救いを見るまでは死なないと神様から告げられていました。彼は聖書の約束を信じて、慰め主を待っていました。救い主を待っていました。

 そして、生まれて間もない幼子イエス様と出会いました。その腕に幼子イエス様を抱いて言いました。

 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 (ルカ2章25-32節をご参照ください)

 彼は腕に「慰めの主、救い主イエス様」をしっかりと抱いて平安に包まれました。私たちも彼のようにこの腕に、この心に慰め主をお迎えしたいのです。

 あなたもクリスマスに来られた慰め主イエス様をその腕に抱きませんか?

 その心にお迎えして、真の慰めを受けませんか? 

 自分の心の闇を認め、神の慰めなどいらないと意地を張らず、重荷を降ろして楽になりませんか。慰めを受け力を得ませんか?


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