東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 女性クリスマス会説教概略「たましいの羊飼い」

聖書

見よ。わたしは新しいことをする。(イザヤ書43章19節)

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2020/12/08

女性クリスマス会説教概略「たましいの羊飼い」

 *** 12/8(火)女性クリスマス会 説教概略 *** Ⅰペテロ2章21-25節

 キャンドルサービスを皆さんで行いました。最初は一つの光で始まりますが、そこから光ひとりひとりへと広がっていき、暗いところが一つずつ照らされ、皆さん全体に光が行き届きました。私たちの願うことはこれです。

 闇の中にある人に光を、孤独に陥っている人に愛を、絶望している人に希望を、疲れている人に慰めを、勇気を失っている人に励ましをと願います。すべての人に光が届けられるといいなぁと願っています。


 羊のようにさまよう人々

 
 私は最近会議で千葉県の柏市の方に何度か車で行っております。
 しかし、慣れていない道なので帰りに高速道路で一つ入るところを間違えたら、反対方向に行ってしまい、無駄に高速料金はかかるわ、中々戻って来られないわでストレスを覚えたことがありました。

見知らぬ土地で迷子になると、不安ですしイライライしますし心細いですよね。私たちの人生においても道に迷い、出口やゴールがわからず苦しむことがあるのではないでしょうか。
 
 聖書のみことばⅠペテロ2章25節に「羊」について触れられています。

「あなたがたは羊のようにさまよっていた」

 羊については皆さんも聞いたことがあるかも知れません。非常に臆病で方向音痴で寂しがり屋な動物です。方向音痴ですので、まさに迷い出てしまうと自力で戻って来ることができないですし、外敵から身を守ることもできず、弱り果ててしまいます。以下の写真を見てください。


 こちらは数年間迷子になってしまった羊さんです。見るとわかるように、毛がすさまじいほど伸びており、実はもうほぼ動けない状態だったそうで、死に瀕していたとのことです。毛の重さは数十キログラム。伸び放題で、動けなくなり、さらに汚れに汚れてボロボロだったようです。それでも保護されて救われたわけですが・・・

 もしかしたら私たちも気が付かないうちにこのような状態になっているのかも知れません。外側はなんとか着飾って繕えても、心の中身はこんな風になっていることもあるかも知れませんね。「あなたがたは羊のようにさまよっていた」と語られているように、希望も見えず、孤独を感じ、右にフラフラ左にフラフラ、迷い子となっていることはないでしょうか?

 羊は不思議な動物で、羊飼いなど守ってくれる存在なしにはどうも健やかには生きていけない動物だそうです。聖書ではしばしば、人生の迷子になってしまった私たちをそのような「羊」になぞらえています。迷子になった羊のようにさまよい、弱り疲れ果て、ヨレヨレになってしまうことが私たちにも起こり得ます。

 このように羊飼いのもとにいない迷子の羊はこのように可哀そうに弱り果ててしまうので、神様はそれらの羊たち(私たち)を探し出そうと「良い羊飼い」をお遣わしになりました。

 それがクリスマスの主イエス・キリストです。

25節の続きにこうありますね。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。 この「たましいの牧者」こそイエス・キリストのことです。この牧者(羊飼い)のもとに帰る時、私たちは確かにその傷を癒され、たましいにやすらぎをいただくのだと言うのです。

 このたましいの牧者イエス・キリストはどういう方だとあるでしょうか?22-24

22節 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。

23節 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。 

24節 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

 ここからわかることは何でしょうか。


 罪を犯したことがない方


 22節にあるように「罪犯したことがなく、欺きや偽りが一切ない真実なお方」だということです。このように罪も汚れも一つもなく、深い愛をもって私たちを導いてくださる方です。 人を救う方は罪人であってはいけません。自分も罪深いならば自分のために償いをしないといけなからです。自分が溺れていたら、隣で溺ている人を助けることなどできません。借金まみれの人は隣で借金をしている人の肩代わりなどできません。イエス様は一つの罪もない聖なるお方であるゆえに、私たちを救い出すことができたのです。

 さらには、どんなにののしられ、傷つけられてもそれを甘んじてお引き受けになり、決してやり返したり復讐したりしないのです。また「脅すことをせず」とありますよね?

 カルト的な宗教ではよく「脅し」を使います。これを拝まないと家族が不幸になるとか、これだけお布施をしないと地獄に落ちるとか、災いや祟りが続くのは信仰していないからだ、献身していないからだと脅します。

 しかし、キリストは脅すことがお嫌いです。そうではなく、愛をもって人々のののしりや侮辱にさえ耐え、両手を広げて待っていてくださるのです。イエス様は強引にあなたの心の扉を開けるようなことをしません。あなたが自分から開くことを、心のトビラを優しくノックして待っていてくれるのです。何度その手を振り払っても強制するのでもなく、ただあなたに手を差し伸べ、声をかけ続け、私たちが自分の意志で踏み出すのを待っていてくださいます。

  傷つきながら、待っていてくださり、そして決してその手をひっこめないお方です。



 私たちの代わりに罪を負われた方

 

 24節にこうありました。

24節 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。

 皆さんも教会に来られてよく耳にする「罪」とは一体何なのでしょうか?

 実は「罪」ということば、聖書の原語のもともとの意味は「的外れ」という意味を持っています。「一番大切な外れてはいけない的」から外れて歩んでいることが、罪のもとにあるということです。私たちを尊い存在として、愛の光の中を歩める者としてデザインして下さった創造主なる神様の定めた的、基準から大きく外れてしまっているのです。

 羊飼いである神様の深い愛や守りから離れてしまっているので、人の心は満たされず、不安と恐れでいっぱいになるのです。イライラし、恐れに支配されるのです。神様の愛から離れているので、人から気に入られようと必至になり、価値ある人間にならなきゃ!とがんばり、比較の中で疲れ張れるのです。この「罪」が良い羊飼いである神様から私たちを引き離し、迷子の中でボロボロにさせてしまいます。イエス様はその羊たちを守るために、自らをギセイにして狼や野の獣から守ってくださるのです。命がけで羊を捜し求めます。


 

ヨハネ10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 イエス様の十字架の死は、私たちを罪の滅びから救い出すための身代わりの犠牲です。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。

 みことば24節にありますように「自ら」です。ご自分から望んで愛する羊たちを救うために、十字架の上で私たちの罪をその身に負ってくれたということなのです。 

 


 義に生きる者とされる、癒される

 たましいの牧者のもとへ

24節後半にこうあります 「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」 

 義とは的外れの反対です。正しい的に向かって生きていることを聖書は「義」と言います。それはイエス様があなたの代わりに罪のさばきを受けてくれたので、イエス様によって罪赦され、神様の前に無罪判決をいただいたということです。そして「キリストにある幸いな人生を歩み始めた」ということなのです。そこに「癒し」があります。良い羊飼いは、羊を安心させ緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに導いてくださるのです。

 そして・・・写真を見ると、イエス様が羊をかついでいますよね?
 迷子の弱り果てた羊を見つけた時に、イエス様は心から喜ばれます。
 
 もう歩けない時には、こうして背中にかついで、背負って導いてくれるのです。私たちが苦しい時、イエス様は背負ってさえくれます。 

 最後にもう一つの羊の特徴をご紹介します。

 羊は視力は決して良くないのですが、羊飼いの顔を覚える賢さを持っていること、また羊飼いの声を聞き分けられるそうです。

 私たちもその声を聞くならば、心を頑なにしないでぜひ羊飼いなる主イエス様の差し出された手をに握らせていただきましょう。

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