羊については皆さんも聞いたことがあるかも知れません。非常に臆病で方向音痴で寂しがり屋な動物です。方向音痴ですので、まさに迷い出てしまうと自力で戻って来ることができないですし、外敵から身を守ることもできず、弱り果ててしまいます。以下の写真を見てください。
こちらは数年間迷子になってしまった羊さんです。見るとわかるように、毛がすさまじいほど伸びており、実はもうほぼ動けない状態だったそうで、死に瀕していたとのことです。毛の重さは数十キログラム。伸び放題で、動けなくなり、さらに汚れに汚れてボロボロだったようです。それでも保護されて救われたわけですが・・・
このように羊飼いのもとにいない迷子の羊はこのように可哀そうに弱り果ててしまうので、神様はそれらの羊たち(私たち)を探し出そうと「良い羊飼い」をお遣わしになりました。
それがクリスマスの主イエス・キリストです。
25節の続きにこうありますね。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。 この「たましいの牧者」こそイエス・キリストのことです。この牧者(羊飼い)のもとに帰る時、私たちは確かにその傷を癒され、たましいにやすらぎをいただくのだと言うのです。
このたましいの牧者イエス・キリストはどういう方だとあるでしょうか?22-24節
22節 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23節 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24節 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
ここからわかることは何でしょうか。
さらには、どんなにののしられ、傷つけられてもそれを甘んじてお引き受けになり、決してやり返したり復讐したりしないのです。また「脅すことをせず」とありますよね?
カルト的な宗教ではよく「脅し」を使います。これを拝まないと家族が不幸になるとか、これだけお布施をしないと地獄に落ちるとか、災いや祟りが続くのは信仰していないからだ、献身していないからだと脅します。
しかし、キリストは脅すことがお嫌いです。そうではなく、愛をもって人々のののしりや侮辱にさえ耐え、両手を広げて待っていてくださるのです。イエス様は強引にあなたの心の扉を開けるようなことをしません。あなたが自分から開くことを、心のトビラを優しくノックして待っていてくれるのです。何度その手を振り払っても強制するのでもなく、ただあなたに手を差し伸べ、声をかけ続け、私たちが自分の意志で踏み出すのを待っていてくださいます。
傷つきながら、待っていてくださり、そして決してその手をひっこめないお方です。
24節にこうありました。
24節 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
皆さんも教会に来られてよく耳にする「罪」とは一体何なのでしょうか?
実は「罪」ということば、聖書の原語のもともとの意味は「的外れ」という意味を持っています。「一番大切な外れてはいけない的」から外れて歩んでいることが、罪のもとにあるということです。私たちを尊い存在として、愛の光の中を歩める者としてデザインして下さった創造主なる神様の定めた的、基準から大きく外れてしまっているのです。
羊飼いである神様の深い愛や守りから離れてしまっているので、人の心は満たされず、不安と恐れでいっぱいになるのです。イライラし、恐れに支配されるのです。神様の愛から離れているので、人から気に入られようと必至になり、価値ある人間にならなきゃ!とがんばり、比較の中で疲れ張れるのです。この「罪」が良い羊飼いである神様から私たちを引き離し、迷子の中でボロボロにさせてしまいます。イエス様はその羊たちを守るために、自らをギセイにして狼や野の獣から守ってくださるのです。命がけで羊を捜し求めます。
ヨハネ10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
イエス様の十字架の死は、私たちを罪の滅びから救い出すための身代わりの犠牲です。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
みことば24節にありますように「自ら」です。ご自分から望んで愛する羊たちを救うために、十字架の上で私たちの罪をその身に負ってくれたということなのです。
24節後半にこうあります 「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」
義とは的外れの反対です。正しい的に向かって生きていることを聖書は「義」と言います。それはイエス様があなたの代わりに罪のさばきを受けてくれたので、イエス様によって罪赦され、神様の前に無罪判決をいただいたということです。そして「キリストにある幸いな人生を歩み始めた」ということなのです。そこに「癒し」があります。良い羊飼いは、羊を安心させ緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに導いてくださるのです。