*** 12/9(水)祈祷会 説教概略 ***
先週はダビデの祈りへの神様からの答えがありました。特に、その中で神様はダビデを守ってくださり、色々な助け手を与えてくださっていることもお話ししました。
今日の箇所の直前、17:27-29を見てもダビデに物資や食料を届けてくれる外国人がいたことが記されています。
彼らは歴史の中でしばしばイスラエルに敵対するアンモン人たちです。神様はそのような人々をもダビデに遣わし、助けてくださっていることがここでも分かります。このような主の守りと支えがありますから、ダビデは一見不利で弱い状況にあっても、神様の強力な守りと支援があるわけです。
有名な詩篇23篇5節にこうあります。
「私の敵をよそに(顧みることなく、ほったらかしで) あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます」と。
以前の訳では「私の敵の前で」と訳されていました。敵が目の前に迫っていようと、そんなことはお構いなしに神様が信じる者の必要な糧を与えて養ってくださるという真実が歌われています。まさにこの通りのことがここに起こっているのです。神様が味方であるとは、なんと心強いことでしょうか。
将軍に抜擢されたガテ人
さて、18章です。ついにダビデ軍とアブサロム軍が戦うことになります。2節を見るとダビデは全兵力を3分割して、それぞれに将軍を立てている事がわかります。ダビデの下には以前は「ダビデ3勇士」と呼ばれるような3兄弟の戦士がいました。ヨアブ、アビシャイ、アサエルという3兄弟でした。ところが、その中のアサエルは以前の戦いでアブネルという人に殺されてしまい今は2人となっていました。
ですから今回軍を3分割する際、2つの軍の将軍は3勇士の生き残りであるヨアブとアビシャイでした。しかし、もう一人が誰になったのでしょうか??
・・・2節の後半に出て来ます。「ガテ人イタイ」でありました。
このガテ人イタイ、覚えておられるでしょうか?15章19-22節を開いて確認しましょう。
ダビデがエルサレムを追われた時、ダビデは亡命者であるガテ人イタイに対して、あなたがたがついて来る義理はない。巻き込みたくはないから帰りなさいと言ったのです。ところがこのガテ人イタイは「主は生きておられます」との信仰の告白を示し、ダビデ王様がおられるところに生きるためでも死ぬためでも必ずそこにお供しますと言ったのです。さらに彼の部下全員、子どもたちも含む家族全員もダビデについて行くことになります。ガテ人イタイが、神様が選んだダビデ王にいのちをあずけて仕える決心をしていたことがとてもよく分かります。
そのような忠誠を示したイタイにダビデは信頼を置き、なんと将軍の一人に大抜擢していると分かります。以前お話ししたようにガテ人とはあのペリシテ人の街ガテの人たちですので、ユダヤ人からすると最も因縁のある敵国です。しかし、そのような出身のイタイであっても、ダビデは隅っこに追いやるのではなく、非常に重要な将軍の地位に抜擢していることに驚きを覚えます。
色々な背景の者を偏見なしにその賜物や信仰を見て登用するダビデの懐の広さが分かります。
でも、これが本来の教会のあり方だなと気づかされます。教会こそは本当に多種多様な人が自由に集う事ができる場です。世代もバラバラ、性別も国籍も仕事も所属も異なり、導かれた経緯も違います。そのような異なる背景の者たちがともに集まるのですから、普通に考えたらうまく機能するはずがありません。ところが、そこではキリストの名のもとに一致が与えられ、全く異なる者たちが補い合い助け合い、それぞれに生かされていくのです。
たとえ、この世において軽んじられたり、疎まれたりすることがあっても、神の国においては、非常にすばらしく用いられ得るのです。
昨日の女性クリスマス会では「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三さんについての朗読がありました。9歳の時に脳性麻痺を患って以来、目と耳の機能以外のほとんどを失ったということです。それは普通に考えれば、この社会で普通の活躍は見込めない状態です。
しかし、水野さんは本当に神様に存分に用いられたのだなと教えられました。牧師として歩む私などよりずっと、水野さんの方が宣教の働きに用いられたのでは?と。彼の生み出す詩、賛美がどれほど多くの人に感動をもたらし、神様の救いの素晴らしさを伝えることができたことかと思います。彼は初めの頃は自分の不自由さを呪い、神様を憎んだそうです。でも、神様と出会い、その愛の深さを知りました。イエス・キリストを十字架につけたのは自分の心にある罪なのだと知りました。水野さんは罪を認め、悔い改めのうちにキリストを受け入れ、神の子とされました。それからの水野さんは神様との出会いの喜び、感謝、嬉しさにあふれていました。何も癒されていないのに、彼の心には深い喜びが与えられたのです。
神の国はそのような何もできないと思える人が、一番用いられてしまうような不思議な神様のみわざが起こる場なのです。ダビデも色々なタイプの人たちを登用し、そこで主にあって「生かされる場」を提供したのです。私たちもそういう者でありたい。
主の愛で結び合わされている群
さて、2節の最後にダビデのこんなことばがあります。「私自身も、あなたがたと一緒に出陣する。」 ダビデは隠れるのではなく、自らこの戦いの中に出て行く気であったことが分かります。ただ、アブサロムと違って名誉を求めて先頭に立つということではないでしょう。外国人であったイタイたちのことまで気遣うダビデでしたから、自分のせいで起こっているこの戦いに、自分が出て行くことなしにというのは「申し訳ない」と思っていたことでしょう。
12節 その男はヨアブに言った。「たとえ、私の手に銀千枚をいただいても、王のご子息に手は下せません。王が私たちが聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイに、『私のために若者アブサロムを守ってくれ』と言って、お命じになったからです。
13節 もし、私が偽って彼のいのちに対して事を起こしていたとしても、王には何も隠すことはできません。あなたは素知らぬ顔をなさるでしょうが。」
ダビデのもとには一癖ある者や、外国人や、色々な人が集まりましたが、ダビデは偏見を持たず、それぞれの賜物を生かしゆだねていました。互いに思いやり、気遣い合い、助け合っている絆がありました。この共同体の豊かさ、強さがあります。