*** 1/13(水)祈祷会 説教概略 ***
イエス様を十字架にかけて殺したのは誰でしょうか?
色々な人を挙げることができます。
律法学者や祭司長などの宗教指導者たち。それからイエス様を裏切ったイスカリオテのユダ。あるいは、イエス様の中に罪は見当たらないと気づいたにも関わらず、結局はイエス様を助けなかったポンテオ・ピラト。
彼らは確かに中心に関わった人物でしょう。でも、その中で決定打を与えたのはもしかしたら、名も無き群衆であったと言えるかも知れません。
なぜなら、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れて踏み切れないでいた部分があったわけです。それにピラトも祭りの一環で犯罪者の一人を赦免できる折に、強盗殺人のバラバかイエス様のどちらかを解放するか?と群衆に問いかけたましたが、そこで「バラバを釈放せよ!イエスを十字架につけろ!」と叫んだのは群衆でした。
そして、この群衆の中には、少し前にはイエス様のエルサレム入場を大歓迎した者たちも多分にいたことでしょう。結局、群衆の多くは自分たちに有利な方についたということです。自分たちの益になることを計算し、流されて行ったのです。
その身勝手さが最終的にイエス様を十字架刑へと送り込んだとも言えるのではないでしょうか。
私たちはそのような身勝手な信仰ではなく、みことばに堅く立ち主にまっすぐにお従いする者となりましょう。
民の身勝手な姿
ダビデ軍がアブサロムの反乱を鎮めるのに成功した後、困った人々が大勢います。それはダビデを裏切ってアブサロムの方に加担した人々です。彼らは圧倒的有利と見て、アブサロムについたのでしょう。あるいは、アブサロムからそそのかされたと言う人もいるかも知れません。
いずれにせよ、真実を見抜けず、信念や信仰を貫くこともできず、保身や自己都合で流された者たちであったと言えます。
しかし、今や、アブサロムという自分たちが立てた王の後ろ盾を失い、形勢逆転の状態にありました。それで彼らは混乱し、内輪もめをしていました。
9節 イスラエルの全部族の間で、民はみなこう言って争っていた。「王が敵の手から、われわれを救い出してくださったのだ。われわれをペリシテ人の手から助け出してくださったのは王だ。ところが今、王はアブサロムのいるところから国外に逃げておられる。
10節 われわれが油を注いで王としたアブサロムは、戦いで死んでしまった。あなたがたは今、王を連れ戻すために、なぜ何もしないでいるのか。」
ここを読むと、イスラエルの民の身勝手さがよく見えてきます。
ほんの少し前までアブサロム王におもねっていたのに、急にダビデ王を支持するようなことを言うのです。「ダビデ王こそが敵から私たちを救い出して下さったのだ。ペリシテ人から助け出してくれたじゃないか!連れ戻す努力すべきだ」と言い始めます。変わり身の早さに唖然としてしまいます。
それでいて率直にダビデに頭を下げて「戻ってください」とお願いできる人物もいないのです。それで「早くなんとかしないと!」とお互いを責めているのです。責任転嫁、自己正当化という課題が見え隠れします。いつの時代も変わりませんね。
ダビデ王、帰還へ
さて、そのような状況を見て取ったダビデは、なんとか彼らとの関係を修復しようとします。ダビデは13節にあるように、これまで大将軍を務めてきたヨアブを退かせ、アブサロム軍の将軍であったアマサを軍団長に据えるという大胆な方法を取ります。
ヨアブは貢献してきた人でもありますが、王の命令を無視してアブサロムを殺してしまった人でもあります。冷徹すぎて難しい人物でもありましたので、ダビデもさすがに忍耐の限界を超えていたのかも知れません。
そして、アブサロム軍のリーダー格であるアマサを抜擢することで、アブサロムの側についていた人々と和解しようと考えたのでしょう。
それは効果を発揮し、14節のようになります。
14節 すべてのユダの人々は、あたかも一人の人のように心を動かされた。彼らは王のもとに人を遣わして、「あなたも家来たちもみな、お帰りください」と言った。
ここにあるように「あたかも一人の人のように心を動かされた」と、心が一つにされていく様子が語られています。ダビデの政治力、人心掌握術と言えるかも知れません。
誠実さを養っていただこう
さて、16節からは、シムイとツィバというこれまでに登場した二人の人物の様子にも触れられています。
16節 バフリム出身のベニヤミン人、ゲラの子シムイは、ダビデ王を迎えようと、急いでユダの人々と一緒に下って来た。
17節 彼は千人のベニヤミン人を連れていた。サウルの家のしもべツィバも、十五人の息子、二十人の召使いを連れて、王が見ている前でヨルダン川に駆けつけた。
ここだけ読むとまるでダビデ王を敬愛する「忠実なしもべ」たちのように見えます。
シムイはダビデ王を迎えようと急いでいますし、17節では1000人もの人々を引き連れて迎えています。ところが、このシムイという人をよく覚えている方も多いと思いますが、かつてダビデを口汚く呪って石まで投げた人物です(16章参照)。
散々呪いまくったひどい人物でありました。
ここでは彼はとことん下手に出て、ひれ伏して自分のしたことを赦して欲しいと訴えています。謝っているだけマシでしょうか?しかし、信頼できない人物だなと感じるのです。
19-20節
19節 王に言った。「わが君、どうか私の咎を罰しないでください。王様がエルサレムから出て行かれた日に、このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。王様、心に留めないでください。
20節 このしもべは、自分が罪を犯したことを知っています。ご覧ください。今日、ヨセフのすべての家に先立って、わが君、王様を迎えに下って参りました。」
手のひら返しの態度に見えますし、本当に悔い改めているのではなく、ダビデが勝利して立場が一気に危うくなったゆえにダビデ側に戻って来たのでしょう。
イソップ寓話にコウモリの日和見主義の話があります。
獣と鳥とで争っていた時のこと。コウモリは、獣の一族が有利になると「私は全身に毛が生えているから獣の仲間だ」と言いました。鳥の一族が有利になると「私は羽があるから、鳥の仲間だ」と言ったわけです。その後、鳥と獣が和解して終戦になると、寝返りを繰り返してきたコウモリは、どちらの側からも相手にされなくなります。それで居場所がなくなり、暗い洞窟に住み着くようになったという話です。
案外私たちの中にもこういう一面があるのではないでしょうか?
信頼できないと分かったのです。
シムイはむしろ一貫してダビデを嫌う態度でいた方が良かったのかもしれません。その方がまだ信念があって、そしてののしるにも命がけでやっているのだろうと思われたでしょう。それほどにサウル王家を愛していて、だからダビデを恨んでいたのであろうと。
でも、ダビデ優勢になるとすり寄って来たのです。
そのことでかえって、シムイの不誠実さが明るみに出たのです。
詩 37:3にこうあります。主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。
強い方にフラフラ流れていく処世術ではなく、主を堅く信じて善をなし、誠実を養う者となりましょう。
「あっちがいい」、「やっぱりこっちがいい」とフラフラ寄生するような歩みは、人からも信頼されません。
人にも信頼され、神様に喜ばれる者とならせていただきましょう。
時間がかかるものですが主の御前に誠実を養わせていただきましょう。