それまでは主にあってともに忍耐をしましょう。そして今できることを主にあってなしていきましょう。ただし我慢ばかりでは参ってしまいますので、感染には気をつけながらですが、ぜひ楽しめることリラックスできることも主にあってしていただきたいと思うのです。
私も先週は非常に忙しかったのですが、あえてプラモデル作りをしました。なぜなら、私たちは気持ちに余裕がなくなるとギスギスしがちだからです。黙々と作っていると感染の危険もありませんし、3時間ほど集中して他の事には目もくれずに作り、達成感とリフレッシュ感を味わえました。あえて他愛のない事を楽しんでいただくと、ちょっと力が抜けて良いかと思います。
さて、今日は食事をみなさんで出来ない代わりに、イエス様と弟子たちの食事の様子から教えられたいと思います。特に聖餐式の起源となっている十字架の直前、最後の「過ぎ越しの食事」の場面から教えられて参ります。そこに示された主イエス様の愛と救いの恵みをともに味わって参りましょう。
2-3節にこうあります。
さて、そのような中でいよいよイエス様が逮捕される時が近づきました。7-8節。
7節 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
8節 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
イエス様はここでペテロとヨハネを指名し準備をさせています。10節以下ではイエス様が彼らに具体的な指示を与えています。
10節 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
11節 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
12節 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
どこの誰なのか名前さえ告げられず、ただ「都に入って水がめを運んでいる人に会うから、その人について行きなさい」と主は言われました。
これらの情報だけでは不安でしょう。しかし、主のことばは足りないのでしょうか?主の手は短いのでしょうか?そうではありません。
いつでも主は私たちに必要をすべてご存知で、十分なおことばをくださる方です。私たちのように「言葉足らず」とか「言いそびれた」ということはないのです。ですから、その弟子に求められることは、あれこれと尋ねることではなく「主よ、おことばですからお従いします。」と忠実に応答することでした。
アブラハムも、75歳になって目的地を全然わかっていない中で、神様から生まれ故郷を離れ私の示す地へ行けとのおことばにただ従いました。先のことは人には分かりませんが、神様がご存知だからです。先が分からない中でも主のことばに信頼して従う。それが信仰の歩みです。このコロナ下にあっては益々信仰に燃える必要を覚えます。
かくしてペテロとヨハネはおことばに従い行ってみました。するとどうでしょう?
13節 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
そして15節にこうあります。
15節 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
一般にこの食事は「最後の晩餐」と言われますが、何が最後なのでしょうか?
なぜなら、イエス様こそ、長年ささげられてきた過越の子羊の完成形だからです。
人々は罪のゆえに動物のささげ物を繰り返しささげてきました。しかし、もうそれは不要になるのです。完全なささげ物であるイエス様がご自身のいのちを十字架にささげるからです。これによって動物の犠牲は終わりを告げます。つまり、イエスをキリスト(救い主)として受け入れた者にとっては、この晩餐こそは本当の意味で「最後の過越の食事」となったのです。
それは本当に大きな恵みでした。人はどうしても自分の犯した罪を背負い続けます。赦されたのにまた思い出して自分を責めることがあります。人間の赦しの限界です。しかし、イエス・キリストによる罪の赦しは完全です!過去・現在・未来、すべてにおけるあらゆる罪に対する完全な赦しです。
ですから私たちは「過ぎ越しの食事」を今はせず、イエス様によって新しく定められた聖餐式を行なうのです。それまでの過ぎ越しの子羊を食することから、神の子羊イエス様を覚えて救いの恵みを味わう食事に変わったのです。イエス様のからだを覚えるパンと、イエス様の十字架の血を覚えるぶどう酒です。そこにある救いのみわざとイエス様の深いご愛をしっかりと覚えましょう。
イエス様はこのように、十字架を目前にして、弟子たちをこの最後の過越の食事、同時に新しくされた聖餐式に心から招いていました。一つのパンを皆で食べ、一つの杯をともに飲む。それこそイエス様と弟子たちが一つとされる親しい交わりの時であり、イエス様の十字架の死と復活を覚える大切な交わりでした。イエス様は弟子たちを心から招き、ご自身の救いを深く受け入れられるようにこの食事を通して教えられたのです。
そして、裏切り者ユダまでもこの食卓に招いておられました。それどころかユダは主人であるイエス様のとなり、主賓(ゲスト)の席に招かれ最後まで主の愛を示されていました。しかし、ユダはここまでイエス様に愛を示されていながら、わずかな銀貨と引き換えにイエス様を捨ててしまいます。それは彼の意志であり、その意志をサタンに、殺意ある者に利用されたのです。結局、後悔の念にかられて彼は自害してしまいます。
一番悲しまれたのは彼を最後まで「友」と呼ばれたイエス様です。そして聖書は、誰ひとりユダのようにならないようにと、ユダの裏切りの記録を隠すことなく私たちに伝えてくれています。