東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ22章1-23節 「過ぎ越しの食事」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/01/11

ルカ22章1-23節 「過ぎ越しの食事」

*** 1/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

 緊急事態宣言が再び出されました。
 またまた皆さんとの食事の交わりが遠ざかったかと思うと、とても残念です。クリスマスの持ち寄りの食事も毎年楽しみにしていただけに、非常に残念でした。あれを目当てに来られる方もいらっしゃるんじゃないかと思えるほどです。
 でも、私たちは待たされた分だけ、再びできる時の喜びや感謝が爆発すると思うのです。今は感染を爆発させずに、忍耐の後に喜びと感謝を爆発させたいと思います。

それまでは主にあってともに忍耐をしましょう。そして今できることを主にあってなしていきましょう。ただし我慢ばかりでは参ってしまいますので、感染には気をつけながらですが、ぜひ楽しめることリラックスできることも主にあってしていただきたいと思うのです。

私も先週は非常に忙しかったのですが、あえてプラモデル作りをしました。なぜなら、私たちは気持ちに余裕がなくなるとギスギスしがちだからです。黙々と作っていると感染の危険もありませんし、3時間ほど集中して他の事には目もくれずに作り、達成感とリフレッシュ感を味わえました。あえて他愛のない事を楽しんでいただくと、ちょっと力が抜けて良いかと思います。

さて、今日は食事をみなさんで出来ない代わりに、イエス様と弟子たちの食事の様子から教えられたいと思います。特に聖餐式の起源となっている十字架の直前、最後の「過ぎ越しの食事」の場面から教えられて参ります。そこに示された主イエス様の愛と救いの恵みをともに味わって参りましょう。


妬み、金銭欲、殺意 V.S. 愛

 2-3節にこうあります。

2節  祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。

3 節 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。 

過越の祭りが近づいた頃、宗教指導者たちによるイエス様への殺意も強まっていました。イエス様への妬みが一番の理由でありました。妬みというものが、私たちが考える以上に恐ろしいものであることを聖書は示しています。実に、人類最初の殺人事件は、兄弟間の妬みから起こったものでした。アベルとカインという兄弟間で、カインがアベルに嫉妬し殺害してしまったのです。イエス様の人気や教えの豊かさに嫉妬する宗教指導者たちは、その苦々しい思いを殺意にまで発展させてしまいます。

ところが、彼らはある理由で実行できないでいました。2節にあるように「民を恐れていた」からです。結局、どこを向いて歩んでいるのかということです。

彼らが生けるまことの神を恐れているのならば、そのみことばを尊びますからイエス様を信じたでしょう。しかし、彼らは自分の立場が失われることを恐れ、それを脅かすイエス様に殺意を抱きました。彼らは人々の目を恐れ、表立ってイエス様と向き合えず、裏で暗殺を企てるようになりました。

私たちも恐れるべき方を正しく恐れたいと思うのです。 主なる神様を恐れて歩む者は、人の目ではなく主の前に正しい愛のわざを大切にしますよね。愛は不要な恐れを示しだします。

祭司長、律法学者たちのこの悪い企みと結びついたのがイスカリオテ・ユダというイエス様の弟子でした。イエス様から直々に教えを受けた者の中からこうした裏切りが起こる現実。背筋を伸ばされる思いです。3「ユダにサタンが入った」とありますが、サタンを心に招いたのはユダ自身であると言えるでしょう。金銭欲が強かったユダは、わずかなお金の誘惑に敗れ、イエス様を売り渡してしまうのです。

ただし、イエス様はこのことを知っておられたことが、21-22節のイエス様の発言から分かります。裏切ると分かっていてなお、食卓に招いておられる主の愛に心打たれます


主のおことばに従う信仰

 さて、そのような中でいよいよイエス様が逮捕される時が近づきました。7-8節。

7節 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。

8節 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。

 イエス様はここでペテロとヨハネを指名し準備をさせています。10節以下ではイエス様が彼らに具体的な指示を与えています。

10節 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。

11節 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。

12節 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」 

 どこの誰なのか名前さえ告げられず、ただ「都に入って水がめを運んでいる人に会うから、その人について行きなさい」と主は言われました。

 これらの情報だけでは不安でしょう。しかし、主のことばは足りないのでしょうか?主の手は短いのでしょうか?そうではありません。

 いつでも主は私たちに必要をすべてご存知で、十分なおことばをくださる方です。私たちのように「言葉足らず」とか「言いそびれた」ということはないのです。ですから、その弟子に求められることは、あれこれと尋ねることではなく「主よ、おことばですからお従いします。」と忠実に応答することでした。

 アブラハムも、75歳になって目的地を全然わかっていない中で、神様から生まれ故郷を離れ私の示す地へ行けとのおことばにただ従いました。先のことは人には分かりませんが、神様がご存知だからです。先が分からない中でも主のことばに信頼して従う。それが信仰の歩みです。このコロナ下にあっては益々信仰に燃える必要を覚えます。

かくしてペテロとヨハネはおことばに従い行ってみました。するとどうでしょう?

13節 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。 

「イエスが言われたとおりであった」私たちもこのように歩みたいのです。すべての道が整えられ、先に何があるか分かってその道を行くのに信仰はいりません。先が見えない、わからないけれども、主なる神様に信頼して従い一歩を踏み出すのが信仰です。

 クリスマスに、天使のことばを聞いた羊飼いたちがいました。彼らもよく分からない中でそれを信じて飼葉桶に寝ておられるイエス様を見つけました。彼らも「話のとおりだった」という経験をし、帰り道は神様をあがめ、賛美しながら戻ったのです

 自然と私たちの口から賛美が湧き出る。それは信じない者からは出ないことです。
 主を信じて従いその真実を経験するからこそ、ほめたたえずにはいられないのです。これほど嬉しいことはありません。それは信じて従う者だけが得られる恵みと言えるでしょう。

サタンに従ってしまったユダがいた一方で、主のおことばを信じてその通りだ!と経験したペテロとヨハネもいるのです。


弟子を最後の過越の食事に招かれた主

 そして15節にこうあります。

15節 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。 

イエス様の深い愛、強い願いがここに溢れています。

 イエス様は弟子たちと「最後の過越の食事」を持つことを心から願っていたのです。
切に願った理由は、これがまさに「最後の過ぎ越しの食事」になるためです。元々この過越しの食事とは出エジプト記の時代に由来します。出エジプトの折、子羊の血を家のかもいと門柱に塗った人々は、それが「しるし」となって災いである死を免れました。まさに神のさばきが頭上をPass Over=過ぎ越して、彼らはエジプトの支配から救われ安息の地へと旅立つことができたのです。

 それ以来、神の救いを覚えて、過ぎ越しの食事がなされてきたのです。ところが、過ぎ越しの食事は今、キリストによって新しい契約に更新されようとしていました

一般にこの食事は「最後の晩餐」と言われますが、何が最後なのでしょうか?

もうイエス様が十字架につけられるので最後なのでしょうか?
もっと深い意味では旧約時代から続けられてきたこの過越の晩餐が最後になるということです。イエス様の十字架の死と復活で完成するので新しくされるのです。少なくとも古い過ぎ越しの祭りは終わりを告げます。

イエス様は16節で「過越が神の国において成就するまで、(この地上で)わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」と触れています。それは次に持つ時は天国で、そして完全な形での喜びに溢れた愛餐会になることでしょう。

なぜなら、イエス様こそ、長年ささげられてきた過越の子羊の完成形だからです。

人々は罪のゆえに動物のささげ物を繰り返しささげてきました。しかし、もうそれは不要になるのです。完全なささげ物であるイエス様がご自身のいのちを十字架にささげるからです。これによって動物の犠牲は終わりを告げます。つまり、イエスをキリスト(救い主)として受け入れた者にとっては、この晩餐こそは本当の意味で「最後の過越の食事」となったのです。

それは本当に大きな恵みでした。人はどうしても自分の犯した罪を背負い続けます。赦されたのにまた思い出して自分を責めることがあります。人間の赦しの限界です。しかし、イエス・キリストによる罪の赦しは完全です!過去・現在・未来、すべてにおけるあらゆる罪に対する完全な赦しです。 

ですから私たちは「過ぎ越しの食事」を今はせず、イエス様によって新しく定められた聖餐式を行なうのです。それまでの過ぎ越しの子羊を食することから、神の子羊イエス様を覚えて救いの恵みを味わう食事に変わったのです。イエス様のからだを覚えるパンと、イエス様の十字架の血を覚えるぶどう酒です。そこにある救いのみわざとイエス様の深いご愛をしっかりと覚えましょう。

イエス様はこのように、十字架を目前にして、弟子たちをこの最後の過越の食事、同時に新しくされた聖餐式に心から招いていました。一つのパンを皆で食べ、一つの杯をともに飲むそれこそイエス様と弟子たちが一つとされる親しい交わりの時であり、イエス様の十字架の死と復活を覚える大切な交わりでした。イエス様は弟子たちを心から招き、ご自身の救いを深く受け入れられるようにこの食事を通して教えられたのです。

そして、裏切り者ユダまでもこの食卓に招いておられました。それどころかユダは主人であるイエス様のとなり、主賓(ゲスト)の席に招かれ最後まで主の愛を示されていました。しかし、ユダはここまでイエス様に愛を示されていながら、わずかな銀貨と引き換えにイエス様を捨ててしまいます。それは彼の意志であり、その意志をサタンに、殺意ある者に利用されたのです。結局、後悔の念にかられて彼は自害してしまいます。

一番悲しまれたのは彼を最後まで「友」と呼ばれたイエス様です。そして聖書は、誰ひとりユダのようにならないようにと、ユダの裏切りの記録を隠すことなく私たちに伝えてくれています

 ご自身の食卓に招かれたイエス様の愛に応えて、イエス様の十字架の死と復活とを信じましょう。先が見えない時でも、主のおことばに従っていこうではありませんか。従って行った先に、神への賛美が待っています。

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