*** 2/10(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅱサムエル記21章1-22節「さばきとあわれみ」
この21~24章は、ダビデの生涯における補足的な位置を占めています。
ダビデ時代の代表的な出来事の記録集と言ったらいいでしょうか。
ここには6つの記事が収められています。そしてまた、これらの記事は以下のような同心円構造(キアスムス)を持っており、それぞれ同じアルファベットの部分がテーマにおいて対になっています。しばしば聖書で見られる修辞表現の一つで、印象的にメッセージを伝えるために技法です。
聖書は内容はもちろん、文学的な美しさをも持っている書であることがわかります。
弱いダビデを主は多くの家臣を用いて支え、助けてくださったことがBとB′で語られています。ダビデだけが強かったのではなく、主は多くのふさわしい助け手を備えてくださったので、王家が守られていたのだとわかります。ダビデの賛美はまさにこのようなあわれみ深い救い主である神をあがめたたえるものでした。
1. 3年間の飢饉、その理由
さて、本日は21章から語られて参ります。
21章1節
ダビデの時代に、三年間引き続いて飢饉が起こった。それで、ダビデは主の御顔を求めた。主は言われた。「サウルとその一族に、血の責任がある。彼がギブオン人たちを殺戮したからだ。」
3年間の飢饉が起こりました。ダビデがその状況を重く見て主の御顔を求めた時に示され、明らかになった理由は、1節にあるようにサウル王によるギブオン人に対する殺戮でありました。2節によれば、当時ギブオン人とイスラエルは盟約を結んでいたのに、サウル王はイスラエルとユダの人々への熱意のゆえに、ギブオン人たちを殺戮してしまったことが語られています。神様のみこころから離れた人間的な熱心さは時に大きな過ちへとつながってしまいます。
私たちもこのことを肝に銘じておきたいものです。
熱心なのは良いけれども、みことばに根差しているのか。愛とあわれみはそこにあるのか。動機は正しいのだろうかと問われる必要がありますね。
例えば、パウロもサウロという名前だった時、自分の正義に熱心なあまり、異なる考えを持つクリスチャンたちを次々と迫害してしまいましたね。この時のサウル王も自分のこだわりにおいて熱心でした。特に彼の心の底には、劣等感があって人々が離れて行ってしまうのではとの恐れから、イスラエルの人々の人気集めに心を奪われ、こうした過ちを犯し、神様の怒りにふれてしまい「3年の飢饉」を起こすことになったと言えるのではないでしょうか。主のみこころよりも人々の反応を気にした人の大きな過ちでしょう。
4-6節 にその答えがありますが、サウルの子孫7人を引き渡せというものでした。ダビデはこれに対して、彼らの言う通りにするしかありませんでした。元々は盟約を破ってギブオン人たちを殺してしまった罪が背景にあったのです。誰よりも神ご自身が、人々のいのちを平然と奪っておいて、イスラエルの民が幸せになるなどということをお許しになりませんでした。
しかし、7人が選ばれるプロセスであのサウルの息子ヨナタンの子孫が守られていることがわかります。なぜならヨナタンはサウル王から命を狙われる危険をおかしてまでも、神様のみこころを大事にして主に油注がれたダビデを守ったからでした。
21章7節
王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンの間で主に誓った誓いのためであった。
ダビデはサウルの息子ヨナタンとは親友であり、彼と交わした誓いがありました。彼の子孫を守るということです。それでヨナタンの子メフィボシェテに関してはダビデが彼を引き渡すことを惜しみ、そうしなかったのでした。どんな危機的な状況に置かれても、主のみこころを守って生きる者を神様はお見捨てにならないと教えられます。かたやサウルの横暴によってその子孫が命を奪われ、一方でヨナタンの信仰と忠実さゆえに、その子孫が守られているのです。特に、歴代誌などを読むと、メフィボシェテの子孫の繁栄も示されていますから、ダビデとヨナタンとの約束、友情は非常に重んじられていたのだとわかります。
なお、続く8節に紛らわしいことに「メフィボシェテ」という名前が登場していますが、ヨナタンの息子のメフィボシェテとは別人です。
2. 悲しむ母の姿から
こうして、8節にあるようにサウルの側室のリツパが産んだ2人の子、そしてサウルの娘の子(つまりサウルの孫)5人の合計7人が引き渡され処刑されてしまいます。
それは本当に悲惨なことでした。その時、さらし者にされた子どもたちの母親の一人であったサウルの側室のリツパの行動がその後の事態に影響を与えます。
やがて彼女のその姿がダビデの耳に入りました。ダビデはそのことで心を打たれたのでしょう。可哀そうなことをした。申し訳ないと思ったのでしょう。ダビデは行動を起こします。サウル王と息子ヨナタンの骨をヤベシュ・ギルアデから持って来て、さらにサウルの息子たちの骨も一緒に集め、サウルの父親キシュの墓に葬りました。
21章14節
彼らはサウルとその息子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。
盟約を破って殺戮するという大きな罪のゆえに、今こうしてサウル王の子孫が殺されるという残念な出来事が起こりました。その中で愛するわが子を失ったリツパやメラブは「かわいそう」としか言いようがありません。
それでも、彼女たちの子を思う愛のゆえに、ダビデをはじめ人々が心動かされ、手厚く葬ることができたことは神様のみこころにかなったのではないでしょうか。このことのゆえに、イスラエルの人々は皆で真剣に祈るようになったのでしょう。14節後半にあるように、この真剣な祈りのゆえに、神様が心を動かされたことが語られています。
「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」
悲しいことに私たちは本当に苦しまなければ、ここまで真剣に祈れないという現実をも示されます。神様が心を動かされるほどにみなで心を合わせて祈る。その姿勢に欠けて、自分のことばかり祈ってしまうことがあるのです。
私たちキリスト者は祈ることのできる特権を神様からいただいていると同時に、祈るべき責任をいただいているのです。なぜなら、神様を信じているゆえに、神様に祈ることができるからです。信じていない人は願うことはできても、神というお方に祈るということを知りません。しかし、私たちは主が祈りに聞かれ、真実なみこころに従って応えてくださる方であることを知っているのです。その私たちが祈らなくて、誰が祈るのでしょうか。
私たちは、こんな悲惨な状況になる前から、真剣に主に祈りたいと思います。祈れない人々の代わりに、彼らの分まで主に祈るべきです。
3. ダビデを支えた勇士たち
特にペリシテ人との戦いの記録ですが、ダビデのもとには有能な家臣がいて支えられたことがわかります。
15節の最後にダビデは「疲れていた」とあります。一人で奮闘すればやがて疲れ果てます。しかし、そのような時に彼を守り支えてくれる者たちがいたということなのです。
19節でゴリヤテという名前が登場しますが、彼はあの巨人ゴリヤテの兄弟だったようです。巨人ではあったようですがゴリヤテほど大きかったわけではなく、彼はダビデの家臣に打ち取られています。
このようにダビデは一人ではなく、多くの仲間に支えられていました。私たちも仲間の助けを得ることは決して恥などではないですから、助けていただいて歩むことを良しとしていきましょう。