*** 2/9 ほっとカフェ 講演 ***
心のケアと人間関係
試練を通して練られていく
私たちがしばしば心に抱く問いかけは、様々な試練や苦しみにあったときに・・・
「なぜ神様はこのようなことを許しておられるのですか?」というものです。
この問いはあって良いものだと思いますし、ぜひ神様に祈り求めて聞いていただきたいと思うのです。そして、答えはどこにあるのか?と言うと、空から降ってくる・・・わけではなく、聖書の中にあります。
神様に祈り求めて聖書を読み進めていくならば、必要な答えが示されて参ります。
ふっと、空から声が聞こえるというものよりも、文字として書かれている聖書を神様が用いられるのには理由があります。
それは、何度でも確認できるからです。私たちの記憶に依存する方法だと、空耳だったのでは?記憶違いでは?と自分でも疑わしくなります。しかし、聖書に帰れば常に同じ答えがある。不変の真理なのです。だから神様は私たちに語る方法として「聖書」を選ばれたのです。これを求めて何度も味わっていくならば、神様の意図が見えるようになって参ります。
それによって試練や苦しみの背後にある「神様の意図」に気づくとき、私たちはもう半分は試練や苦しみを乗り越えたと言えるかもしれません。
試練を通して人格が練られていく喜び、恵みをご一緒に教えられたいと思います。
1. 神様の意図を知る
哀歌3章32-33節
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
33節で「意味もなく」と訳されているところは「心から」とも訳せます。神様は私たちに対して心から苦しめ悩ませようなどとは一切考えておられないということです。本来ならば、愛する者が苦しむ姿を見ることは辛いことです。
しかし、愛するからこそ、その相手が道を間違えているのならば時に厳しくムチを打つ必要があります。幸せになって欲しいからこそ苦しみを通して育ててくださるのです。
この神様の意図を知ることこそ、皆さんがここに来られる意義ではないでしょうか。
この意図を知っている人とそうでない人では大きな違いが生まれます。
子どもが親に叱られた時に、お父さんとお母さんは自分のことが嫌いなんだ。憎くて仕方がないんだと思い込むなら、何も良い物が生まれないでしょう。そこから顔を背け、逃げてしまうでしょう。でも、叱られた時はつらくても、そこにある親の愛を受け取れるならば、そのことから多くを学び成長することができます。神様は決して意味のないことをなさいません。あなたが苦しみ悩むことがあるなら、そこには必ず得られるものがあります。神様には悪意はゼロで、善意しかありませんから。
2. 「すべて」ということの意味
ローマ8章28節
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
私たちがもし、苦しみを一切与えない神を願い求めるとするならば、このみことばを無意味にしてしまうことになります。「すべてのこと」の中には、良いと思われることだけでなく、苦しい経験やしんどい試練も含まれるからです。傷や痛みも含まれるのです。
神様が良いことしか用いることができない小さな方だと思い込むなら、とても不幸になることでしょう。良いことが自分の益になるのはある意味当たり前のことです。しかし、「すべてのことがともに働いて」には、むしろ悪いと思われることが含まれるからこそ、意義深いわけです。神様は全知全能なる方なので、良いと思われる出来事だけでなく、私たちが経験する悪い出来事も含めて「すべての出来事」を用いて益とされるのです。
ここにも「すべて」とのことがが語られています。
私たちは年齢とともに、様々な試練や責任や重荷が与えられます。例えば、現在の私が神様からいただいている責任や現在通らされている様々な試練や重荷は、10年前の私ならば間違いなく受け入れられず、追いきれなかったでしょう。もっと言うならば5年前の私でも、あるいは3年前でさえ難しかったかもしれません。
しかしながら、色々な試練や苦しいところを通らされながら、痛みを通りながらでしたが、神様がたくさん教えてくださいました。育ててくださいました。そのようにして今の私としてくださっています。恵みによって今の私とされているからこそ、受け入れることができるのではないでしょうか。
それは自分が何か強く立派になったと誇る話では決してありません。
なぜなら、私にはそんな予測などまるでできず、未来を知らない者ですので、将来の試練のために自分にどのような経験や成長が必要なのか、全く分からなかったからです。残念ながらどんな試練や痛みを通ればいいのかさえ、私たちにはわからないのです。
コロナウイルスも予測できなかった私たちには、コロナ社会に対応する術を前もって備えておくことなどできません。しかし、神様はご存知であって、その神様がふさわしい時にこの新会堂を与え、対応するにふさわしい者たちを育てておいてくださったので、今も守られているわけです。
すべてをご存じの主だからこそ、私たちにふさわしい試練を与えて、将来のために適切に育てることがおできになるのです。
3. 試練がもたらすもの
ローマ5章2-5節
2節 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3節 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 節 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「練られた品性」とは、厳しい試験をパスして洗練された資質のことです。そこにはカドがとれた柔和さや気品に満ちた美しさがあります。徹底的に磨かれ、カドがとれた宝石は非常に美しいですね。
私は子どもの頃、学校の美術の授業で文鎮を作ったことがあります。一本の角張った真鍮製の棒をもらい、それを自分で研磨して好みのものにしていきます。私がデザインしたものは、左右に少しなだらかな山があるようなもの。磨きに磨いて角をとってなだらかな物を作りました。とても時間がかかる作業で、ひたすら研磨し続けました。
私たちの人柄、人格、品性も試練や困難を通りながら時間をかけて練られていく中で、強く美しく良い人柄を生み出してくれます。それはイエス様を信じた瞬間に完成するような安易ものではありません。ただ、練られた品性とは大変魅力的で力強く、また柔和で寛容さを持った整えられた人格です。
私はキリスト者の魅力の最たるものは人格だと思っています。
それはミスのない、罪を犯さないカンペキさを意味するものではありません。表面的なことば遣いとか、大人しそうだとか、いい人そうに見えるというものでもありません。接すれば接するほどメッキが剥がれてしまうものでもありません。
むしろ、逆に知れば知るほど魅力的に思えてくる深い豊かさを持つ人格です。隣で過ごす人にも少なからず影響をもたらしていく資質です。この人と一緒にいると、神様を深く知ることができる。この人と一緒にいると励まされ、勇気づけられ、安心する。この人を話していると不思議と心が強められ熱くされる。
試練や困難から逃げるのではなく、神様をそこにお招きし、神様の意図を学びながらこれらを通ることが、練られた人格・品性を養ってくれるのです。私たちの信仰や資質もこれらを通して洗練され成長していきます。そこに本当の喜びも生まれていきます。
他の人を変えることは難しいです。
でも、私たちの人柄が内側から変えられることは可能で、それが一番の近道です。
しかし、変えられた人が隣に居れば、影響は必ず受けるものです。
天才と言われるアップル社のスティーブ・ジョブズは、実は「失敗王」でもありました。大ヒットも飛ばしましたが、実はその間にはその何倍もの失敗作があります。全然売れなかった物もたくさん世に出しているのです。売れた物だけがクローズアップされるので、成功者のイメージしかないけれど、実はそうではないのです。
何倍も凹んでダメージを受けてきた。でも、それを繰り返して売れる物を制作できたというわけです。誰でもそうなのではないでしょうか?
私自身も本当に失敗が多く、色々な間違いのご指摘をいただいたり、ご指導をいいただくことがあります。でも、その分、私はその時こそ「成長期」だと思っています。
慣れない働き、苦手な事を色々とさせていただく。コロナ対応も初めてですから、何が正解はいつもわからない。だからこそ、とても成長できる機会です。練られていく時だと思うのです。
神様が意図をもってそこを通らせておられるからです。だから大変さもありますが、とても嬉しく思っています。なぜなら、私が色々な経験をし学び成長できれば、教会の皆さんにより良いものを提供でき、説教を聞く皆さんも成長できるからです。
私たちが試練を通して練られて、豊かな人格を培われる目的は自己満足ではないのです。
私たちと接するすべての人に恵みと祝福をもたらすためです。
皆さんの大切な人、家族や友人が笑顔になれるために。皆さんが幸せになれるお手伝いをするために、私たちひとりひとりが主にあって成長し変えられていくとは、どんなにか嬉しいことでしょうか。