東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記25章1-12節 「安息年 ~神に信頼して生きる~」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/08

レビ記25章1-12節 「安息年 ~神に信頼して生きる~」

*** 2/7(日)主日礼拝 説教概略 *** 

 私たちは絶えず何かをしてしまいがちな存在ですが、あえて手を止めて「やらない」という時を持つことも大切です。それによってしか得られないものもあるからです。

 「メジャー」という野球漫画があるのですが、主人公はピッチャーで、周囲が止めてもひたすら練習を続けてしまう熱血少年でした。でも、高校時代のフィジカルトレーナーがもっと 良い球を投げられるようにとある事を彼に課しました。

 それは、野球をしばらくさせないで部屋でひたすら折り紙を折らせることでした。

 そして、しばらくの間それを続けた後、主人公がボールを投げてみると、本人も実感できるほど非常にキレのある良い球を投げられたのです。彼は集中力や器用さを磨くトレーニングだと思い込んでいましたが、実はそうではなく肩や腕などの筋肉を「休ませること」が目的だったのです。体を酷使することがトレーニングではなく、必要に応じて休ませてあげることもまた大切なトレーニングであることを教えるためだったのです。

 今日、聖書から「安息年」というテーマで教えられます。神様が安息をさせるのにも、深い意味があります。ご一緒に教えられましょう。

 

1. 安息年の教え
 このみことばは、カナンの地へ入って行った時のための教えであります。その地で「主の安息」を守られなければならないと前もって命じられました。2節です。

レビ記25章2節
「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。

 このことばが語られた時、イスラエルの人々は荒野に滞在していました。40年という長きに渡り、彼らは農業に適さない不毛な地にいたのです。その間は、神様が備えてくださった「マナ」という不思議な食べ物で養われていました。けれども、40年が終わるならばいよいよ神の約束の地カナン、肥沃な地へと導かれました

 エジプトでの苦しい奴隷生活の日々が終わり、荒野での厳しい40年の生活も終わり、ついに豊かな約束の地カナンへと入るわけです。しかし、そのような豊かな生活に入ることで、これまで神様のおかげで養われていたことが忘れ去られてしまう危険がありました。どんな良い物を所有しようと恵みを忘れては不幸です。そこで、約束の地では7年ごとに「安息年」を持つことを主は定めました。3-5節にこう続きます。

25章3-5節
3節 六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。
4節 七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。 
5節 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。これは地のための全き休みの年である。

 ここにあるように6年間は収穫を豊かに得て、それを貯えたり出荷して利益にしたりして構わない。しかし、7年目は農業をお休みにして土地そのものを休ませるように言われました。不思議な教えですよね。こんなことをしたら、収入が減り生活の不安が生まれそうです。ところが、ここには深い神様のご配慮、民を愛するみ思いが溢れていました。6-7節です。 


25章6-7節
6節 地の安息はあなたがたに食物をもたらす。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在住している居留者のため、
7節 また、あなたの家畜と、あなたの地にいる獣のために、その地の収穫はすべて食物となる。

 この地の7年目の安息年を過ごすことが、どのような恵みとなるかが示されています。すべての農地は、この年に限っては地主さんの所有ではなくなり、神様の所有となり、そこで実っているものはすべての人、すべての動物に解放されたのです。

 5節で「刈り入れ、収穫をしてはいけない」とありました。儲けるためのいわゆる「収穫」はできないとされましたが、生きるのに必要な分は誰でも自由に得ることができたのです。

 それにより土地を持たない人々みんなに土地の糧を分かち合う機会でした。男性女性の区別もなく、奴隷という立場の人、雇われている労働者、在留している者たち、さらには家畜やその地域にいる野の獣たちまでも!!自由にこの地になっている作物を食すことができました。

 なお、8-12節では、この安息年は7年ごとに繰り返していくことがまず教えられ、さらに50年目は安息年の発展形とも言える「ヨベルの年」というものを持つことを教えています。今日はヨベルの年については詳しく学びませんが、安息年にもまして「神が人々に十分に食料を与える力を持つお方である」ことを学びました。さて、これら7年目の安息年も50年目のヨベルの年も、現代のキリスト教会でそのまま行うことはないでしょうしかしながら、その根底にあるメッセージは、現代の私たちにも大変意義深いものです

では、この安息年の教えから私たちは何を教えられるのでしょうか? 

 

2.神様に信頼して生きることを学ぶ
 

土地を持ち、自分たちの管理の中で収穫を定期的に得られるようになる。そうなると人は自らの労働力を誇り始めます。贅沢な暮らしになると人は苦しかった時の感謝を忘れてしまいがちです。ですから、あの荒野時代に何もないところで神様が養ってくださった事を忘れないために、この安息年があったのです。もっと言うならば、安息年はそもそも土地とその産物が自分たちの物ではなく、主のものであることを民に思い出させる年だったのですそれを忘れないことが民の幸せです。 私たちも日曜日を神様への礼拝の日(安息の日)として聖別しています。当然ですが、日曜日も働いた方がより多くの収入が得られると思う人も多いでしょう。礼拝を休んで勉強した方が良い成績を取れる気がします。礼拝の時間も部活の練習にした方が上達すると考えるかも知れません。けれども、神様がこの日を休みとせよとおっしゃられたのです。この日を聖なる日として神様と過ごす大切な時間となし、神様に信頼して生きる時に本当の恵みをいただけるのです。 

次女が中学生の頃、運動部に入っていましたが、毎週日曜日も練習がありました。当然、日曜日も練習に参加した方が顧問の先生からも気に入られるし、練習自体が多くなるので上達し、試合にも出られるようになると普通は考えます。

ところが、次女は教会の礼拝を自分の意志で選びました。「教会に行かずには自分は1週間メンタルがもたない」と言って礼拝を優先し、日曜の練習は休ませてもらっていました。

確かに試合に出る機会が遠ざかったかのように思える時もありました。ところが、日曜日も休まず練習に出ていた子たちの中で辞めてしまう子が数人続きました。また、残っていた子たちの中でも休まなかったゆえに疲労骨折、スポーツ障害が相次ぎました。

そういう中で次女は日曜日、神様のご命令の通りに礼拝し安息する事で、心も体もリフレッシュでき心身の健康が保たれ、ケガからも守られて練習に集中できたのです。結果的に試合にも出させていただきました。何よりも3年間続けられ、そして高校でも同じスポーツを楽しく続けられています。人間的な知恵ではなく、神様のおことばに信頼して従うことの確かさを教えられる経験でした。


3.神の恩恵の中で共生することを学ぶ
 

以前、落穂拾いのことを学びました。落ちている麦の穂は摘んではならず、貧しい者たちのために残しておく優しさなのだということでした。安息年は落穂拾いをさらに拡大したものとも言えるかも知れません。この安息年の教えの中心にあることは、この地上の産物のすべてが神のものであることを学ぶことです。本来の持ち主である神様の手にお返しする。その時、本来の持ち主である神様ならば、どうなさるのか?? 

自分さえよければという利己的な考えを少しも持ち合わせていない神様です。すべての人、すべての動物たちにも「さあ、自由に食べなさい」と分かち合ってくださるわけです。この年、すべて神の民が利己的な考えから解放され、与えてくださる神に感謝をし、分かち合い、助け合い、共生することを学ぶ機会だったのです。神の恩恵の中に「共生」することを知らされる時でした。  

私たちは、儲けるために動物を狩りすぎれば、動物の絶滅を招き、結果的に動物からもらえる恩恵もなくなります。農作物も極限まで刈り取り続ければ、土地は疲れ果て栄養を失い、実らなくなっていきます。雇い主だけが利益を搾取し、労働者が飢えて倒れてしまえば、働き手がいなくなるのです。

動物も植物も人間も、お互いに生かし合うことを忘れれば、結果として共に滅びるのです。この世界は神様によってそのように造られているのです。

だから、神を知らないと世界を破壊し、結果自分をも滅ぼすことになります。安息年は、土地もその地の産物も、そこにいる動物もすべて、神様のものであることを学び直し、お互いがお互いの存在によって支えられていることを知らされる機会でした。

あの苦しかった、貧困にあえいだ時代に神様が支えてくださったことを思い出し、その恵みを覚えて、他者と共に生きるのです。

 今の時、コロナウイルスの事を通して、私たちは半ば強制的に働きを制限されストップしている部分があります。そこで様々な事を考えさせられるのです。時に立ち止まり、この手を休ませながら、新しい恵みに気づかされるのではないでしょうか。

 皆さんそれぞれの苦しかった時代、乏しかった時代、あるのではないでしょうか。その時、支えてくれる存在はありませんでしたか?一人ではなかったはずです。主がおられました。主が遣わした寄り添ってくださる方々がいました。祈ってくださる方々、協力し励ましてくださる方々。ただともに涙してくださる方々。

 今、コロナウイルスのことで、みんなが苦しい時です。だからこそ、互いの存在によって支えられ、生かされていることを学び直す大切な機会ではないでしょうか。すべては主から与えられています。主の恵みを忘れないで、苦しい状況の方々のために祈り、手を差し伸べる歩みをさせていただきましょう。主に信頼して歩みましょう。

 





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