東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記22-23章7節「ダビデの賛美」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/17

Ⅱサムエル記22-23章7節「ダビデの賛美」

 *** 2/17(水)祈祷会 説教概略***

Ⅱサムエル記22-23章7節「ダビデの賛美」

先週学びましたように、21~24章は以下のような構造を持っています。
今日はCとC′にあたるダビデの賛美のところを味わいたいと思います。
 

A 21:1-14 神のさばきとあわれみ 「神はこの国の祈りに心を動かされた」

B   21:15-22  ダビデを支えた家臣たち

C     22:1-51 ダビデの賛美 

    C    23:1-7  ダビデの賛美 

B′     23:8-39 ダビデを支えた家臣たち

A′   24:1-25  神のさばきとあわれみ 「主がこの国のための祈りに心を動かされた」


22章に掲載されている賛美は詩篇18篇とほぼ同じものです。詩篇18篇がこのサムエル記から作られたと理解されることが一般的のようですが、どっちが先かは必ずしも明確ではありません。
特にこの賛美の背景については1節にて語られています。
「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。」とあります。

あらゆる敵からの救い、そして身近な味方でありながら敵対もされたサウルとの関係の中での主の守りが背景にあるとわかりますね。

 自分に敵対する存在というのは、必ずしも全くの他人とは限りません身近な存在との関わりの中で、関係が難しくなり非常に悩まされることがあるわけです。おそらくこちらのケースの方が、身近だからこそとても苦しむことになるであろうと思うのです。

 ダビデが経験したのは、まさに自分を引き立ててくれたイスラエルの王サウルとの確執でした。ダビデは尊敬をもってサウルと関わろうとするのですが、サウルは妬みを持ち感情的になりダビデを攻撃してしまいます。しかし、ダビデは「神様のみこころはどこにあるのか?」と考えると、サウルに対して「やられたからやり返す」というわけにはいきませんでした。

 神に明確に敵対するペリシテ人ならば、戦って対処することができました。しかし、サウルは少なくとも同じ神を信じる民。尊敬すべき王、仮にも神が油注がれた存在です。そうであればこそ、サウルへの敬意を失うわけにはいかないのです。その一方で彼の理不尽な攻撃、嫌がらせにも主にあって耐えるしかありませんでした。

 もちろんサウル以外の敵対する者の存在もここには含まれていましたが、これらの苦しみは5-6節を味わうととてもよく伝わってきます。

詩篇22篇5-6節
死の波は私を取り巻き、滅びの激流は私をおびえさせた。
よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。

 これらは自然災害などの恐怖を歌ったものではありません。5節は特に比喩的な表現で嵐を想起させますが、中身は1節にあったように敵の存在、その中でも特に身内のサウルからの悪意、殺意のことでしょう。

 私たちも自分に敵意を抱く身近な存在によって悩み苦しむことがあろうと思います。生きた心地もしないというケースもあるのではないでしょうか。しかし、ダビデは主に叫び求めています。

詩篇22篇7節
私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。 

 「祈り」というものはむなしく空中に消えていく個人的な「願い」とは異なります。祈りは明確に神様に届けられるコミュニケーションです。神様に語り掛けること、話すことです。その耳に届くものなのです。ダビデはそれを確信しており、またそれを実際に経験してきたのです。

 むなしく消えてしまう願いの声ではなく、全知全能の神様の耳に届くのです。そして、その主の耳に届けられるのならば、主はその民のために、その愛する子らのために、奮い立ってくださるのです。8-16節はその姿が描写されています。

詩篇22篇8-9節
地は揺るぎ、動いた。天の基も震え、揺れた。主が怒られたからだ。
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。 

 8-9節だけ読んでも大変迫力のある描写です。主の怒りが向けられた先が無事であることはないでしょう。ここでは主のさばきが敵対する者に向かって現れています。このお方が敵ではなく、味方であるとはなんと心強くありがたいことでしょうか。

 そして17-20節では主がダビデを救ってくださったことが表現されています。先ほどの5節では「死の波や滅びの激流」という水をテーマした危機的表現がありましたが、この17節では「大水から私を引き揚げられました」と叫んだ結果の救いが語られています。

詩篇22篇17節
主は、高い所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水から、私を引き上げられました。 

 「御手を伸ばして」とあるように、神様の側からダビデに手が差し伸べられて、彼を引き上げてくださったのです。私たちの側から神に到達することはできません。汚れたこの手で聖なる神に触れることはできない私たちでした。しかし、主なる神様が御手を伸ばして私たちに触れてきよめてくださるのです。ツァラアト(感染の可能性のある重い皮膚病)を患った者に、主イエス様は手を伸ばしてあえて触れられて「わたしの心だ、きよくなれ」と言われました。その病のゆえに自ら主イエス様に触れるのは難しかったことでしょう。でも、孤独であったことでしょう。しかし、主イエス様の方から御手を伸ばして触れていやされた。それは病だけでなく、心やたましいの癒しをも意味していたと言えます。

 20節でも「主は私を広いところに連れ出し」とあるように、開けた敵のいない安全な場へと主が連れ出してくださる様子が語られています。右からも左からも波と激流が襲ってくるように思えた場所から、周囲が穏やかに落ち着いた広い場所へと主が導かれた様子が描かれています。

 あるいは狭い洞窟に身を隠すような日々を送ったダビデからすると、広い場所に堂々といられることは主の恵み以外に何物でもなかったということでしょう。

 私たちも人間関係の中で右からも左からも批判されたり、攻撃されたりすることがあるかも知れません。四面楚歌といった状況です。しかし、主は広く安全な場へと引き上げてくださいます。それは、周囲が敵だらけと思えていた状況から、徐々に味方に囲まれて過ごせる安心な状態へと変えられていったということではないでしょうか。あなたが主に信頼し、主のみことばに生きてゆだねるなら、あなたを守り支えてくれる主に仲間、助け手もまた与えられていきます。

 ダビデはその時の自身の対応を以下のように記しています。

詩篇22篇21-22節
主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。私は主の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。 

 ここにあるようにダビデは義の道を歩み、主の道を守りました。サウルに対して自分の手で報復するようなことをしませんでした。ダビデはサウルの処遇の一切を神様におゆだねしたのです。それこそが神様が顧みてくださる道となりました。

 復讐してはならない、復讐は神のすることであるとの教えに生きた。それこそが「義」とされ「主の道」を守る行為でありました。それに対して神様が報いてくださったのだというのです。

 こうしてダビデの口からは多くの賛美が生まれていますが、彼の賛美に力があり、私たちの心が慰められるのはなぜでしょうか?それがことばだけの上辺の賛美ではないからです。本当に苦しい経験を通りながら、その中で神の道に確かに歩み、主に祈り叫びながら主の助けと救いを豊かに経験したからこそ生まれた賛美、感謝なのです。

 私たちも口先だけの賛美から、実体験に根ざした深いたましいからの賛美をささげる者にならせていただきたいと思います。そのためには、苦しい時に主の助けを求めて歩み、迷う時にも自分の思いではなく主のみこころに従った決断をすることです。それを通して、確かな主の報いと祝福を味わうことができるからです。その経験の積み重ねこそ、私たちの宝ではないでしょうか。そこから生まれる証し、賛美が人々に感動を与えるものではないでしょうか。

 私たちもまた、助けだけは欲しいけれども主の義の道を行くのは嫌だといった矛盾した歩みをすべきではありません。それらは一つであって、主の道を忠実に歩むならば、様々な困難を通りながらも必ず主の助けをいただき、平安な義の実りをもたらしていただけるのです。26-28節にこうある通りです。

詩篇22篇26-28節
あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。
清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。
苦しむ民を、あなたは救われますが、御目を高ぶる者に向け、これを低くされます。 

 主は真実で正しい方なので、こうしたみことばがその通りに実現すると信じることができます。31節にもこうあります。

詩篇22篇31節
神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。

 これはとても嬉しいことばだと思います。主のことばは「純粋」なのです。混じりけがない、下心もないし、裏表もなく、まっすぐで愛に満ちています。忖度も必要ないことばです。だからこそまっすぐにそのまま割引せずに信じることができます。人間のことばはこうはいきません。割引して聞けないといけないこともあります。口だけの人もいます。建前の人もいます。でも、主のことばはまっすぐです。純粋なのでそのままです。さらに32-33節にあるように、主のように力強いお方はいません。純粋なだけで力がないならば、何もできません。しかし、純粋でありながら力強く、全能なるお方です。私たちは誰かを助けたいと願いますが、無力なゆえにそれができないこともしばしばです。けれど、主は助けたいと願えば100%助けることができるお方なのです。

 こんな話を家族に分かち合いました。「したいと思うだけの人が1000人いたら、その中に実際に始める人は100人。そして始めた人の中でそれをずっと続けている人は1人」と。実行するというだけでも簡単ではなく、さらに実行し始めたことをずっと継続することはさらに難しいわけです。続けたいと思ってもできないことも出てくるのが私たちです。

 でも、主は妨げられることなくなし続けることができるお方です。世界を造られた。でも造られただけではなく、それをずっと保持してくださっている。聖書の時代だけでなく、現代にいたるまで、コロナ時代であろうと主は人を救われるし、信じた者たちを何ら妨げられることなく守り養うことが実際に、しかも豊かにできるお方です。

一方で、これだけ偉大なお方でありながら、ご自身を低くされる方でもあります。

詩篇22篇31節
あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの謙遜は私を大きくします。

 人が偉大な者、大きな者とされることがあるとするならば、それはその人自身の手柄では決してありません。この告白にあるように、ダビデ王ですら自身の力ではなく、神の謙遜が私を大きくしてくれたのだと告白しています。救いは私たちの努力や功績によりません。神様ご自身が低くなって、私たちに寄り添ってくださることによってなされました。救い主イエス様の謙遜、十字架の死はその最たるものであると言えますね。

44-45
では、「私の知らなかった民が私に仕える」とか「異国の人々が私にへつらい」とあります。ダビデのもとには多くの外国人たちも身を寄せていました。しかし、そうした外国人たちとのつながりもまた、神様によって与えられた交わりでありました。

23章1-7節は、ダビデの最後のことばという説明から始まります。ダビデの晩年を背景にしているということかと思われます。彼の生涯の初期の頃にも、あるいは晩年の頃にも一貫して、神様との親しい交わりが与えられていたことがダビデの幸せの基でありました。

 もしかしたら、私たちのこれまでの人生を振り返って自分なりの詩篇、賛美を作ってみたらいいかも知れませんね。自分のこれまでを振り返ってみて、それをことばにして表現し詩や賛美を作ることで、神様の恵みがより一層わかる者とされるのではないでしょうか。実体験を通して生まれた賛美や感謝は、本当に力強いものです。

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