24節 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
皆さんの中には自分は偉くなりたい、高い地位につきたいとは少しも思わないという方もいらっしゃると思います。ところが、このみことばをよく味わうと「単に誰が偉いのか」という身分の話よりも「人々から偉い方だ、すごい人だと思われたい」という問題なのだと気づきます。実はここは「一番偉大な者だと思われている(見られている)のは誰なのか」と訳す事も可能です。新改訳でも「偉いのか」ではなく「偉いのだろうか」と訳されて、そのニュアンスがいくらか表現されています。
そして、この論争が最後の晩餐の時であった事も覚える必要があります。イエス様がこの晩逮捕され、十字架へと向かわれるのです。それにも関わらず、弟子たちはイエス様よりも自分たちに対する評価に強い関心があったのです。
イエス様は彼らのその価値観を見て、こう語られました。
25節 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
神をも恐れず、自分を神のようにしているこの世の権力者たちの姿です。「守護者」とありますが、人々からまるで神のように崇められているということを意味します。とても気分がいいことでしょう。しかし、弟子たちの論争はまさに、彼らと何も変わらないものであったのではないでしょうか。そのような弟子たちに、イエス様はいつまでも残る「神の国の価値観」をお示しになりました。
26節 しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
また、上に立つ人は給仕する者のようになりなさいと語られました。それは「奉仕する」と同じことばです。教会ではお仕事とかお勤めと言わず「奉仕」と言いますよね。奉仕と聞くと一般には「ボランティア」とか「無償の働き」という意味で取ることも少なくないと思います。
ところが、聖書における「奉仕」の中心的な意味は「仕える」という意味です。大切なのは有償か無償かではなく、心をこめて仕える姿勢を持つことなのです。
教会における「執事」もこのことばから来ており、給仕する者、仕える者という意味です。私たちの教会では「役員」と呼んでいますが中身は執事と同じです。神と教会に仕える者なのです。ですから、教会はこの世とは逆方向に向かって歩みます。経験を積むほどに上り詰めていくのではなく、下へと自分を低くしていきます。長く歩めば歩むほどに、神の国の価値観が浸透していきますから、謙虚にされ、より仕える者になるべきです。
でも私たちにはプライドがありますね。人間、最後まで残るのは「プライド」だとも言われます。色々な事が分からなくなってもプライドだけは無くならないと。私たちの中にある頑固でやっかいな性質であると言えます。健全な自尊心ならばいいでしょう。でも、神様を隠してしまうような自己主張から解放されたいものです。
イエス様は誰よりも言行一致の真実な方でした。27節を味わいましょうか。
27節 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。
イエス様はこの最後の晩餐の折、お客様ではなく弟子たちを招くホスト・主人としてこの食事会全体を仕切り、導いていました。まさにイエス様自身が給仕する側にいたのです。本当は逆ですよね。弟子たちがイエス様をお招きし、主賓の席に座らせる。でも、イエス様はひざまずいて弟子たちの足までも洗われました。
私たちの会堂の1階から2階への階段を上った壁に渡辺禎夫さんの版画が飾られています。ある兄弟が新会堂のお祝いにくださったものです。それはいわゆる洗足、足を洗っている風景です。聖書の時代、今のような立派な靴などなく、いわゆるサンダルでした。土埃の多い地域ですから足はいつも汚れていました。その足を洗うのは奴隷の仕事。
ですから、偉い宗教指導者、先生たちは洗ってもらう事はあっても、決して他の人の足を洗う立場ではありません。ところが、イエス様は弟子たちの足を洗われました。弟子たちだって他人の足を洗うことはなかったと思いますが、師匠が弟子の汚れた足を洗うという前代未聞のことをされたのです。イエス様はへりくだり、愛をもって弟子たちの足を洗ってくださったのです。それは自らを低くし、しもべとして仕える姿でありました。イエス様は神の御子、王の王、主の主、この世界の造り主です。治めるべきお方が、誰よりも仕える者となられ、ついには十字架の死にまでも従われたのです。
イエス様は28節で弟子たちに試練を共にしたことを思い出させています。
28節 あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。
弟子であるあなたがたもわたしの様々な試練を一緒に耐え抜いてきた者たちだと言われています。
私はしばしば、傷つかない心が欲しいと心底思います。何を言われようと、何をされようと何ともないロボットハートなら楽なのにと思うのです。しかし、それはイエス様からは遠く離れた道です。優しさも思いやりも感動も失う道です。傷つかないロボハートは愛のない心、人を慰められない心でもあるのです。
イエス様は傷つけられながら歩んでくださいました。痛みも悲しみも引き受け、そこを通ったゆえに父なる神に引き上げられました。ローマ書5:3-4を開きましょう 。
29節 わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。
30節 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。
王権ということばは英語では「kingdom」でして、脚注にあるように「御国」とも訳せます。キリストとともに痛み、キリストに倣いて世界に仕えて来た者だからこそ、やがて完成する「神の王国」において、キリストとともに治める者となるのです。
イエス様は弟子に向かい、あなたがたに王権を委ねると宣言されました。だからこそ、その旅路を謙遜に忍耐深く歩むようと言うのです。それはイエス様が既に通られた道です。