東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書22章24-30節「治める者こそ仕える者に」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/01

ルカの福音書22章24-30節「治める者こそ仕える者に」

 *** 1/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

You raise me upという曲があります。フィギュアスケートの荒川静香さんがトリノ五輪で用いた曲です。そこから日本でも一躍有名になりましたね。この曲の歌詞の起源は正確には分かりませんが、聖書を知る人が歌詞を味わうと非常に聖書的な内容であることにすぐに気づきます。

 例えば「あなたが私を起き上がらせてくれるから、嵐の海の上も歩ける」とあります。ペテロが嵐の湖を歩いた場面を想起させます。ペテロは信仰を持って一歩を踏み出しましたが、波風を見て怖くなり沈みかけました。しかし、主が手を差し伸べられ、彼は引き上げられたのです。その後イエス様を3度も知らないと否定してしまったペテロです。それでも復活の主と出会い立ち上がらせていただき、彼は最後まで主にお仕えしました。

彼の残したペテロの手紙第一には、そうした経験からでしょうか?
次のようなことばがあります。

5:5-6「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます 

私たちが倒れ、低くされる時があるのは、神様が私たちを取り扱い、起き上がらせるため(ご計画)かも知れません。キリスト者はキリストとともに神の国を治める者となります。だからこそ、今の時、仕える者として練り上げられ、ふさわしい時に引き上げられることを信じていきましょう。
 

1.この世の価値観

 今日のところでは、弟子たちの論争から始まります。

24節 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。 

 皆さんの中には自分は偉くなりたい、高い地位につきたいとは少しも思わないという方もいらっしゃると思います。ところが、このみことばをよく味わうと「単に誰が偉いのか」という身分の話よりも「人々から偉い方だ、すごい人だと思われたい」という問題なのだと気づきます。実はここは「一番偉大な者だと思われている(見られている)のは誰なのかと訳す事も可能です。新改訳でも「偉いのか」ではなく「偉いのだろうか」と訳されて、そのニュアンスがいくらか表現されています。

 結局私たちも同じで、どういう身分や立場であるか以上に、「人々から自分がどのように評価されているのか」が気になるのだと思います。

 実にこの世の価値観は「人からの評価」を最重視し、その中で他の人より「偉い、すごい、立派だ」と思われたいという競争のように思います。その価値観に生きるからこそ逆に自分に対する評価に自信がない人は「自分はダメだ」という評価にも陥るのです。

 そして、この論争が最後の晩餐の時であった事も覚える必要があります。イエス様がこの晩逮捕され、十字架へと向かわれるのです。それにも関わらず、弟子たちはイエス様よりも自分たちに対する評価に強い関心があったのです。

 イエス様は彼らのその価値観を見て、こう語られました。

25節 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

 神をも恐れず、自分を神のようにしているこの世の権力者たちの姿です。「守護者」とありますが、人々からまるで神のように崇められているということを意味します。とても気分がいいことでしょう。しかし、弟子たちの論争はまさに、彼らと何も変わらないものであったのではないでしょうか。そのような弟子たちに、イエス様はいつまでも残る「神の国の価値観」をお示しになりました。

 

2.神の国の価値観

26節 しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

キリストの弟子であるあなたがたは、神の国の価値観に生きる者となりなさいと主は言われたのです。神の国で一番偉い者とは、人を上から目線で支配する人ではないのです。人からあがめられることを熱望する歩みでもありません。むしろ、その逆で一番年若い、給仕する者のようになりなさいと主は言われたのです。

「若い」ということばは、νέος(ネオス)ということばの比較級です。それは「新しい」という意味もあります。知識も経験も浅い「新人」のようにあり続けよとも理解できるでしょう。会社でも若い新人はとにかく色々なことを教えていただき、学び続ける必要がある立場です。ですから「私はもうわかっている」と思わず、まだまだ未熟者であると受け止め、神からも人からも「教えられやすい器」となるよう招かれているのです。これが本当に難しいですよね。「そんなことは分かっています!」と言いたくなるのです。皆さんはいかがでしょうか? 

また、上に立つ人は給仕する者のようになりなさいと語られました。それは「奉仕する」と同じことばです。教会ではお仕事とかお勤めと言わず「奉仕」と言いますよね。奉仕と聞くと一般には「ボランティア」とか「無償の働き」という意味で取ることも少なくないと思います。

ところが、聖書における「奉仕」の中心的な意味は「仕える」という意味です。大切なのは有償か無償かではなく、心をこめて仕える姿勢を持つことなのです。

教会における「執事」もこのことばから来ており、給仕する者、仕える者という意味です。私たちの教会では「役員」と呼んでいますが中身は執事と同じです。神と教会に仕える者なのです。ですから、教会はこの世とは逆方向に向かって歩みます。経験を積むほどに上り詰めていくのではなく、下へと自分を低くしていきます。長く歩めば歩むほどに、神の国の価値観が浸透していきますから、謙虚にされ、より仕える者になるべきです。

でも私たちにはプライドがありますね。人間、最後まで残るのは「プライド」だとも言われます。色々な事が分からなくなってもプライドだけは無くならないと。私たちの中にある頑固でやっかいな性質であると言えます。健全な自尊心ならばいいでしょう。でも、神様を隠してしまうような自己主張から解放されたいものです。

 イエス様は誰よりも言行一致の真実な方でした。27節を味わいましょうか。

27節 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

 イエス様はこの最後の晩餐の折、お客様ではなく弟子たちを招くホスト・主人としてこの食事会全体を仕切り、導いていました。まさにイエス様自身が給仕する側にいたのです。本当は逆ですよね。弟子たちがイエス様をお招きし、主賓の席に座らせる。でも、イエス様はひざまずいて弟子たちの足までも洗われました。

私たちの会堂の1階から2階への階段を上った壁に渡辺禎夫さんの版画が飾られています。ある兄弟が新会堂のお祝いにくださったものです。それはいわゆる洗足、足を洗っている風景です。聖書の時代、今のような立派な靴などなく、いわゆるサンダルでした。土埃の多い地域ですから足はいつも汚れていました。その足を洗うのは奴隷の仕事。

ですから、偉い宗教指導者、先生たちは洗ってもらう事はあっても、決して他の人の足を洗う立場ではありません。ところが、イエス様は弟子たちの足を洗われました。弟子たちだって他人の足を洗うことはなかったと思いますが、師匠が弟子の汚れた足を洗うという前代未聞のことをされたのです。イエス様はへりくだり、愛をもって弟子たちの足を洗ってくださったのです。それは自らを低くし、しもべとして仕える姿でありました。イエス様は神の御子、王の王、主の主、この世界の造り主です。治めるべきお方が、誰よりも仕える者となられ、ついには十字架の死にまでも従われたのです。

 


3.御国の相続者として

イエス様は28節で弟子たちに試練を共にしたことを思い出させています。

28節 あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。 

 弟子であるあなたがたもわたしの様々な試練を一緒に耐え抜いてきた者たちだと言われています。

私はしばしば、傷つかない心が欲しいと心底思います。何を言われようと、何をされようと何ともないロボットハートなら楽なのにと思うのです。しかし、それはイエス様からは遠く離れた道です。優しさも思いやりも感動も失う道です。傷つかないロボハートは愛のない心、人を慰められない心でもあるのです。

イエス様は傷つけられながら歩んでくださいました。痛みも悲しみも引き受け、そこを通ったゆえに父なる神に引き上げられました。ローマ書5:3-4を開きましょう 。

3節 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

4節 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 

苦難はしんどいですが、それを通して忍耐を身につけ、忍耐を通して練られた美しい品性を生み出します。そこに希望が生まれます。ヘブル書10:36にも「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。

神の国は他の人を踏み台にして楽をして歩んでいく道ではありません。試練の中でも主イエス様とともに忍耐をもって歩み、少しずつ練り上げられながら、神の国を治めるにふさわしい者へと変えられていくのです。最後には教会とキリスト者は飾られた花嫁として、イエス様をお迎えするのです。そこに天の御国の祝福が待っています。

29節 わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。 

30節 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。

 王権ということばは英語では「kingdom」でして、脚注にあるように「御国」とも訳せます。キリストとともに痛み、キリストに倣いて世界に仕えて来た者だからこそ、やがて完成する「神の王国」において、キリストとともに治める者となるのです

イエス様は弟子に向かい、あなたがたに王権を委ねると宣言されました。だからこそ、その旅路を謙遜に忍耐深く歩むようと言うのです。それはイエス様が既に通られた道です。

私たちも御国を相続する者とされています。
ですから、この地上においても「サーバントリーダーシップ(仕える導き手・リーダー)」を発揮し、愛をもって神と人々にお仕えしていきましょう。

イエス様の歩まれた道をついて行きましょう。それは自らへりくだり仕える道。しかし、ふさわしい時に神様に高く引き上げられる道です。




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