東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ22章31-34節 「イエスの祈りに支えられて」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/22

ルカ22章31-34節 「イエスの祈りに支えられて」

*** 2/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ22章31-34節 「イエスの祈りに支えられて」

 コロナウイルスが始まった頃、とにかく未知の世界で必死にオンライン対応などをしました。それはそれで大変な中にも新しい発見がありました。しかし、ここまで長期化し、今後もまだ続くということを思う時に、ジワジワとボディブローのように効いて来るなという感覚があります。

「ゆっくりと皆さんとご飯を食べながらお交わりをしたい」「マスクから解放され心おきなく賛美をしたい」「来られていない方の中にも早く教会に行きたい」「仕事の負担がコロナ以前より増えて大変だ」そんな声を聴きます。

 そしてまた、そのような思いをじっくりと語り合える機会もあまりない。そんな状況があるのではないでしょうか。そしてこのようなお話をすると「気持ちが滅入るので前向きなお話をしましょう!もっと楽しいところを見ましょう!」と流してしまうケースがあります。

 でも、実はそのような態度がかえって心を弱らせてしまいます。苦しみ悲しみにフタをして見えなくしただけで、実際には留まったままだからです。聖書もしんどい部分には目を向けず、良いところだけを見ましょうとは教えていません。むしろ、試練を引き受け正しい方法で痛みや悲しみをケアすることを教えています。試練の背後にある神の意図を受けとめるのです。それによって練られ豊かにされる恵みを語っています。

 今日、シモン・ペテロという人物が試練を通ることが明らかにされています。主イエス様がどのように彼を支え導かれたかが語られています。「あなたを決して見捨てない愛」から来る祈りによって支えられるのです。それは、このみことばを聴くすべての者への主の愛のメッセージです。心を開いて主の御声に聴いて参りましょう。
 
1.ふるいにかけられる弟子たち
  今日のみことばは、衝撃的なことばで始まっていきます。
ルカ22章31節
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

 シモンとはイエス様の一番弟子と言われるペテロのことです。イエス様はシモンに対してペテロという愛称を与えました。名づける以上、そこにイエス様の思いが込められています。その意味は「岩」でした。ペテロが揺るぎない岩となること(=揺るぎない岩の上に立つ人)となることを願ったのではないかと思います。

 ところが、ここでは生来の名前シモン(「聞く」の意)の方で呼ばれます。まだ岩として成熟する前の彼の姿にフォーカスされているのでしょう。それであえて「シモン」と呼ばれたのではないかと思います。主イエス様は彼に向かって言いました。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました」と。

「ええっ?」と驚く方もいらっしゃるかも知れません。しかし、神様のご計画は悪意さえも、良いことのために用いる奥深いものです。創世記5020節にこうあります。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」悪を謀る存在がこの世界にはあります。しかし、それさえ良いことのための計らいとなさる神様の全知全能のお姿です。

そして31節のみことばは、イエス様が発言なさっているものです。つまり、イエス様はサタンの意図もその動きもすべてわかっておられるのです。想定内です。

「ふるいにかけられる」とは、信仰が試される機会のことで、ここではイエス様の逮捕と十字架刑によって、弟子たちの信仰が試されることを指しているのでしょう。特にシモンはその中心にいました。

 
2.試練の意味と主イエスの祈り
 
それにしても、イエス様はなぜ弟子のシモンにこれを語ったのでしょうか。それはこれから起こる試練をイエス様が知っていてくださる事実、そしてその意味や目的を伝えるためだったのではないでしょうか。

ルカ22章32節
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ここに主イエス様のシモン・ペテロに対する愛があります。イエス様は彼のために既に祈ったのです。これから起こることを知っていてすでに祈られた。

 注目すべきは、イエス様の祈りの内容です。イエス様は「試練が取り去られるように」とは祈っておられません。試練を受けるけれども、信仰が失われないようにとの祈りでした。なぜ、そういう祈りなのかと言うと、試練がなくなることではなく、試練を神とともに歩むことが父なる神様のみこころであるからです。イエス様こそ、父のみこころを一番よく知っておられる方です。そして、確信を持って祈っておられたのです。

 それは「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とのことばを受け止めるとよくわかります。「立ち直ったら、力づけなさい」との訳は、ともすると「もし立ち直たなら、力づけなさい」という「仮定」や「条件」の話のようにも受け取れてしまいます。ところが、文法的にはむしろ立ち直ることを前提として、「立ち直って力づけよ」という意味でイエス様が言われているのです

(「力づけよ」という動作に「立ち直って」という動作が付与されている付帯状況の分詞 D.B.WallaceによるGreek Grammar Beyond the Basics参照。付帯状況とはAの状況にBの状況を付与するという意味。力づけるという動作に、立ち直ってという動作を付与。)。

そこに主イエス様の父なる神への信頼が見て取れます。シモンの信仰の強さへの信頼ではないのです。父なる神様がシモンを見捨てるはずがないという確信です。この祈りは応えられたと信じてやまないのです。私たちも自分自身の信仰の強さを土台にすれば必ずつまずきます。そんなに私たちの信仰はアテにならないからです。弱さを認めて主に拠り頼む!弱い時にこそ、神の力が現れ強くされる!それが私たちの信仰です。

 
3.シモンの自信と挫折

 
ところが、シモンはまだ自分に自信がありました。自分の信仰の強さを頼みとしていたのです。だから彼はこう言います。

ルカ22章33節
シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

かっこいいですね。強気です。情熱的です。ある意味すばらしい!でも、私たちが頼みとするのは、自分の覚悟の強さではないのです。著者ルカもここで、彼をペテロと記さず、信じる前の名である「シモン」と記していますよね。意図的なのではと思います。これに対してイエス様は、これから起こる真実を彼に告げます。

ルカ22章34節
しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 今日、明け方に鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言いますと主は言われました。たった今「私は牢であろうと死であろうと、イエス様とご一緒します。覚悟があります」と言ったばかりです。が、あっさりとイエス様からそうではないという現実を示されました。

 このあとすぐ、ペテロは実際にそうしてしまいます。自分の身が危うくなり、逮捕され、ひどい目にあわされるのでは?と思って恐ろしくなり、3度も関係を否定してしまいます。

 私たちにも同様の弱さがあると思わされます。これが私たちの現実です。学生の頃、友人にバカにされるのを恐れて、自分の信仰をうやむやにしたことが何度あったことでしょうか。就職に不利になるのではと、キリスト信仰を隠そうと思ったこともありました。都合のいい時にはイエス様と叫び、都合が悪くなるとイエス様を隠す。都合によってイエス様や教会を出したり、出さなかったり・・・。そんな弱さを思うと、誰もペテロを責めることなどできません。

 この弱さを受けとめた上で、私たちはイエス様の意図は何だろうか?イエス様の思いはどこにあるのか?と主の心をここからしっかりと受け取りたいのです。

 
4.シモンからペテロへ 堅い岩の上に

 お気づきになられたでしょうか。イエス様はここではようやく「ペテロ」と呼びました。33節まではイエス様のことばも、ナレーションも「シモン」と呼んでいました。本当の意味でペテロが「岩」とされていく転機がこの34節に語られているのです。

「岩の上に立つべき者よ、あなたに言う。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」 

その意図はこうでしょう。

「確かにあなたは弱さのゆえに私を三度否定する。だが、あなたのために私は祈った。サタンの試みが聞き届けられたと同時に、わたしのこの祈りも聞き届けられていることを忘れるな。あなたはこの試練を通して、かえって成長し岩とされていく。この失敗を通して、自分の「信仰の強さ」が頼みにならないことを知る者となり、信仰さえも与え保ってくださる神の強さを土台とする者とされるので、岩となるのだ。 

そういうことではないでしょうか。実に岩とは神様ご自身であり、神のみことばの約束です。神とそのおことばに信頼しゆだねる者こそ、揺るがない者(岩)とされるわけです。ペテロは試練を通して自らの驕りを取り去られ、主に生かされていくことを学んでいくのです。ですから、ペテロの信仰は取り去られるどころか、試練とイエス様の祈りを通して、この挫折を通して、さらに深く豊かなものとされるのです。

そんなアナタだから、立ち直ってからは、ぜひ兄弟たちを力づける者となれと主は命じられたのです。これがイエス様の意図されていることではないでしょうか。

 試練にあって、イエス様を見捨てて、自分を責めてそのまま倒れてしまう。そんなことのために神様はシモンを選び、ペテロと名を与えたのではない。

 ここに希望がありますね。挫折して、失敗したら終わりなんて誰が決めたのでしょうか。そう思い込ませようとしているのはサタンです。そして主の声を聴かない私たち自身でしょう。サタンのもくろみなど、イエス様の愛の祈りによって無きものにされました。神のご計画のうちにもろくも破られました。それどころか「雨降って地固まる」がごとく、ペテロも仲間たちも強められ、揺るぎない者とされていくのです。本当に不思議です。大失敗をし、不信仰を露呈してしまったペテロが、かえって多くの人々を励まし力づける器とされるのですから。

 私たちも同様です。あなたがつまずき倒れることがあるとするならば、自分の信仰の弱さ、愚かさに心底涙することがあるならば、それは挫折を経験した者として、主の支えを味わった者として、立ち直って人々を慰め励ます器となることに召されているのだということです。こんなに嬉しいことはありません。

  私たちは今、もしかしたらコロナウイルスという試練によってふるいにかけられている状況なのかも知れません。しかし、それは信仰を失うためではありません。

ふるいにかけられたら、簡単に信仰を失ってしまう弱さが確かに私たちにはある。だからこそ、そのことを受け止めて、自力で頑張る信仰ではなく、神の愛と恵みによって無限に支えられ続ける信仰へと変えられていきましょう

 弱々しい自分という土台から、堅固な岩なる神とみことばの土台の上に建てられていきましょう。何よりそこには、主イエス様の確信に満ちたアナタへのとりなしの祈りがあるのです。その祈りは確実に父なる神に聞かれています。私たちは主イエス様の祈りに支えられて、より豊かにより強くされていくのです。


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