東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱサムエル記23章8-39節「ダビデを支えた家臣たち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/02/24

Ⅱサムエル記23章8-39節「ダビデを支えた家臣たち」

 *** 2/24(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅱサムエル記23章8-39節「ダビデを支えた家臣たち」

 
238節からは、ダビデを支えた家臣たちのことが記録されています。歴戦の勇士たちの名前が30数名列記されています。この当時のイスラエルは領土を広げていく全盛期でありました。しかしそれは、ダビデ一人の力では到底なしえませんでした。そこには忠実な家臣たちが名を連ねていたのです。
キリスト教会の働きも同様です。

有能なリーダーが1人いたとしても何もできません。むしろ、己の力に頼って1人で背負ってしまう時、主の働きは停滞します。主は兄弟姉妹の交わりの上に祝福を置いておられるのです。足りないことを自覚して互いに助け合う。そこに祈りが生まれます。そこにより豊かな賜物の共演がなされていきますよね。

1.ダビデを支えた個性ある家臣たち
 
8節からその中でも非常に勇猛だった3勇士の名前が挙がっています。 

Ⅱサムエル記23章8節
ダビデの勇士たちの名は次のとおりである。補佐官のかしら、タハクモニ人ヨシェブ・バシェベテ。彼は槍を振るって一度に八百人を刺し殺した。

 以前の訳では「ヤショブアム」でしたが、新しい訳では「ヨシェブ・バシェベテ」と言いにくくなっています。それはさておき、彼は槍使いで一度に800人を倒したと記録されています。とんでもない猛者です。

 他にも9節では「エルアザル」という人がいますが、彼は10によると手が剣にくっつくまでにペリシテ人を倒したとあります。粘り強い、根気強い人だったのでしょう。そして3人目は11に出て来る「シャンマ」でした。他の兵士たちが逃げる中、彼はレンズ豆の畑の真ん中に踏みとどまり、これを守り切ったとされています。守備に置いて力を発揮する勇士だったのかも知れません。

いずれもそれぞれの賜物を生かして、ダビデと国のためにいのちをかけて戦った兵士たちです。 

ただ、その中でも注目すべき事が語られています。彼らの活躍が語られているかと思いきや、10節、12節と「主が大勝利をもたらされた」と繰り返されています。3勇士はすごい!と持ち上げられているのかと思いきや、実に彼らを用いて大勝利を与えられたのは神様ご自身であったと明確に記録されているのです。

現代における教会の活動もすべてそうですね。私たちは様々な奉仕ができます。ただ、それらを調和させ、私たちの思いや考えを超えて働かれるのは主ご自身です。人々の心に働きかけ、人を救に導かれるのは主ご自身です。 

それはまるでパイプオルガンのようです。何千本~何万本のパイプからなります。
太さ長さもそれぞれ。役割も違う。音が出るパイプ、音が出ないパイプも必要。共鳴し合ってあのような荘厳な音を出しています。ただ、何万本もパイプがあっても巧みな技師や演奏者がいなければ、美しい音色は出ません。
例えるなら、整え演奏して美しい音色を出してくださるのは主ご自身ではないでしょうか。私たちは神様の導かれるままに、自分の置かれたところで精いっぱい役割を果たす。主が私たちの協力を用いて、それらが共鳴し合うようにして、美しく荘厳音色が奏でられていくのです。


2.寄せ集め?いいえ、主の選び!
 さて、13節のところを御覧ください。

Ⅱサムエル記23章13節
三十人のかしらのうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムの洞穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷間に陣を敷いていた。

アドラムの洞穴の話が出てきます。これは脚注を見るとわかりますが、Ⅰサムエル記22章の頃の話です。そちらを参照してみましょう。第Ⅰサムエル記22:1-2です。

Ⅰサムエル記22章1-2節
1節  ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。
2節  そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。

実はこの直前、ダビデはサウル王に命を狙われていたので、ペリシテ人の地に逃げ込んでいました。直前の13-15節を見るとダビデは気が狂ったフリまでして、なんとかギリギリ難を逃れていることがわかります。惨めな事だったと思います。ある意味ドン底ですよね。

 そして、その後に待っていたのは、洞穴生活です。皆さんは洞穴生活されたことがあるでしょうか。普通はあまり経験ないことでしょう。もちろん、追われている中で身を潜めるには最適であったでしょうけれど・・・
 しかし洞穴での生活は過酷なものであったことでしょう。この状況下、ダビデのもとに流れてきたのが約400人の者たちでした。ただし、彼らは決して良い状態の者たちではなかったのです。

 2節にあるように「困窮している者、負債のある者、不満のある者たち」もみな集まってきたことがわかります。サウルに命を狙われる日々ですから、集まるのは親族や物好きや、困っている人々です。行き場のない者たちの「寄せ集め」のような状況に近かった可能性があります。少なくともこういう人たちが多く集まっていたのです。普通に考えれば、あまり役に立てないのではないかと心配になりますね・・・。

でも、主のなさることは不思議です!

日曜日に学んだように、失敗した者、挫折した者を主はお用いになる方です。行き場のない者。知恵のない者、この世の取るに足りない者、見下されている者を用いられます(Ⅰコリント126-29節)。

しかし、主はそのような人々の賜物を引き出し、存分に有効にお用いになるのです。輝かせてくださるのです。だからこそ、神の力はスゴイ!と多くの人が知るようになるのです。

先ほど「主が大勝利をもたらされた」2度繰り返されていることを確認しましたように、人が弱いからこそ、主の力強いお働きが良く見えるようにされたのです。3勇士も最初から勇士だったのではないかも知れません。主にあって強められ、育てられ、勇敢な者へと変えられていったのではないでしょうか。何より、聖書における勇士とは、神の力により頼み、神のみわざがその人を通して現れる。そんな人のことです。

私たちも今こうして集められている者たちは、弱い者、ごく普通の者たちかも知れません。大英雄などはいない。でも、主が呼び集められたひとりひとりですから、選ばれ導かれた者たちです。 


3.ささげた思いと献身を見ておられる主
 
本日のみことばに戻りましょう。Ⅱサムエル23章。ダビデの3勇士は、洞穴生活の一番しんどかった時に、ダビデのもとに集められた者であり、こんなエピソードが紹介されています。14-17節です。

Ⅱサムエル記23章14-17節
14節 そのときダビデは要害にいて、ペリシテ人の先陣はそのときベツレヘムにいた。
15節  ダビデは切に望んで、「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」と言った。 
16節  三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、 
17節  こう言った。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。

すごい話です。17節の最後を読むと「三勇士は、そのようなことまでしたのである」と語られているほどです。その時、ベツレヘムは敵の陣地の最前線基地となっていましたから、ダビデがこの三勇士にベツレヘムの井戸まで行って「水を汲んで来い」などとは決して命令しなかったことでしょう。

ただ、ダビデとしては故郷を懐かしく思って、何の気なしにつぶやいた程度のことでしょう。ところが、この三勇士は、ダビデ王のこの願いを叶えて差し上げたいと本気で思ったのでしょう。

16節にあるように、ペリシテ人の敵陣を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲んできたのです。命がけです。ダビデはあまりにも驚きすぎて、またありがたい、もったいないと思い、その水を飲むことが出来ませんでした。

16節の後半の「しかし」から17節にかけて・・・ しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、17節 こう言った。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」彼はそれを飲もうとはしなかった。 

ダビデはこの水は三勇士たちのいのち、血そのものだと受け止めました。レビ記に「血はいのちの象徴である」とあり、飲んではならないとの教えがありました。それは主のものだからと。

もちろんこの時の井戸の水はごく普通の水ですが、そこには忠実な家臣の愛と献身が込められており、ダビデはこの水が勇士たちのいのちの象徴「血」そのものだと考えたのです。

だから、主よ、あなたに注ぎますとささげたのでしょう。 
ダビデはこの経験を通して、彼らの愛を受け取ったでしょうし、同時に自分の不用意な欲望が、この犠牲をもたらしたと罪深さを示されたのではないでしょうか。

その意味では、イエス様の十字架の血潮とリンクするように思います。イエス様の十字架の血潮も、まさにイエス様のいのちの注ぎでした。隣人を愛するゆえに喜んでその犠牲をささげられました。それによって私たちは自分の罪の重さを知ります。神の子のいのちの注ぎを必要とするほど、私たちの罪は重いのだと。同時に、その贖いによって神の愛を受け慰められるのです。

 3勇士はダビデが怖くて、恐れてこれをしたのではないでしょう。ダビデへの愛ゆえ。神様への忠実さえゆえでしょう。私たちの奉仕もこうした「愛」や「思いやり」、主への「忠実さ」をもって奉仕したいものです。

 神様への愛ゆえに、隣人への愛ゆえに。喜びのうちに犠牲を払うことができるなら、主なる神様はどんなにか喜んで受け取ってくださるでしょうか。ささげられた「水」ではなく、わずかな水のためにささげた思いや献身を主は見ておられるのです。

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