新型コロナウイルス(COVID-19)によるパンデミック(伝染病の世界的大流行)は、流行から一年を過ぎても、私たちの生活に大きな影響を与え続けています。ワクチンの接種も始まりましたが、行き渡るのには時間がかかるのはもちろん、安全性についても十分な治験が足りていない現実もあり、まだまだ時間がかかることが予想されます。
そのような状況にあって皆さんの心と体、生活のすべてが守られていくようにと神様に祈り続ける者でありたいと思わされます。そして、いのちの糧である聖書のみことばからの慰めと励ましを伝え、痛む人々に寄り添うことをキリスト者がなしていけるようにと願うものです。
誰もが被災者である
先日、ある方のご紹介で、聖契神学校ニュース・第140号の吉川直美先生による記事を拝読する機会がありました。そこにこのようなことが書かれてありました。一部をご紹介させていただきます。
しかし、COVID-19が長期化していく中で、澱のように溜まっていく閉塞感や疲労感をどう処理したらよいのか、持てあましている方も多いと思います。教会でもコミュニケーション不足のために、些細なことから人間関係がぎくしゃくしているかもしれません。まず、こうした自分自身に起こる予想外の感情や、身の回りで起こるトラブルも、この非常事態にあってはごく自然な反応であるということを受け止めてほしいのです。
COVID-19によるパンデミックも災害であり、私たちはみな被災しているからです。 ※澱(「おり」もしくは「よど(み)」)
※下線は当記事著者の方で引かせていただいたものです。
自分でも気づかないうちにストレスや疲れを溜め込み、イライラしたりどうしようもなく落ち込んだり、他の方から当たられたり、そんな経験が増えていると感じる方も少なくないのではないでしょうか。
そうしたトラブルも非常事態にあっては「ごく自然な反応」であると受け止めていくことが必要なのだと語られており、本当にそうだなと実感いたしました。そして、言われてはっと気づくわけですが、「私たちはみな被災している」という現実なのだと改めて思い知るのです。
感染した人や、クラスターが発生した場所だけが被災者、被災地なのではない。
ということです。
感染していなくても、誰もが感染予防のために自分が思う以上の負担とストレスを受けながら生きているのです。マスクの着用、消毒の徹底、人との距離を保っての交流、店舗等での人数制限、会食の制限等々・・・。今まで普通にできていたことができず、しなくて良かったことにエネルギーをとられています。
さらには、自分の故郷に帰省することができないでいる方、家族や友人を失う方、それどころかその葬儀に出席もできない方、職を失ってしまった方、収入が減少している方、仕事の負担が増えている方、感染させないようにと家族と寝室を別にしている方、自宅にもあまり帰れない方、在宅ワークで疲労している方。本当に多くの方が様々な痛みを通っています。
子どもたちも相当のストレスを感じていることでしょう。コロナウイルスが広がってから、心おきなく自由に遊んだということが果たしてあるでしょうか。あれもこれも禁止され、大切な友達との時間も制約され、じゃれ合うこともできません。
年配の方々も様々な持病があり、神経を遣い、人との交流が極端に減ってしまっています。孤独になり、話す機会が奪われて引きこもりのようになってしまう方もいます。
「元気が出ない」「疲れている」「イライラしてしまう」
それはある意味当然の反応であって、自分の心や体が示してくれている一つの「サイン」として受け止めたいのです。
被災者にはケアが必要
こうした状況では・・・
誰もが被災者なのです。
そのように受け止めることによって、私たちはお互いをさばき合うことから守られるとともに、自分でも気づかないでいた痛みをケアしてあげることが必要なのだと気づかされるのではないでしょうか。
聖書に以下のようなみことばがあります。
Ⅰテモテ4章16節
自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。・・・
誰かに教える際に、教える内容や教え方に注意が必要ですが、そこに「自分自身にも」とのことばが加えられているのです。自分自身の心や魂、身体も含めて健康でなければ、他の方を健全に導くことなどできないわけです。
自らも気づかないうちに様々なダメージを受けている。
そのことを率直に受け止めて、他の方々の手を借りてケアしていくことができればと思います。他の方々というのは、まずは信頼できる方に話を聞いてもらい理解してもらうことです。ことばに現し、共感していただくことを通して心が癒されます。
「あなただけじゃないんだから」とか
「それぐらい、たいしたことじゃないよ」とか
「もっと良い部分を見ましょう」という答えをされると・・・
慰められるどころか、かえって落ち込んでしまいます。
理解されなかった、受け入れてもらえなかったと思えるからです。
ですので、そのような反応をされないと思える方、じっくり話を聞いて理解を示してくださる方に分かち合うことが必要です。
カトリックの司祭であったヘンリー・ナウエンという方がいます。彼はその著書の中でご自身の失敗談を振り返っていました。ハリケーンの被害に遭った老婦人を見舞った時のことです。彼女のお子さんやお孫さんたちが彼女のもとにかけつけ、色々と手伝ってくれていました。その様子を見てナウエンは、あなたは他の人に比べればまだ恵まれている方だといったニュアンスのことを伝えて、悪い所ばかり見ないで恵みを見ましょうと励ましてしまったようです。
彼が言うには、そのことによってかえって彼女を落ち込ませてしまったというのです。
確かに、家族がいて、実際に家族が助けてくれている。これはありがたいことです。
しかし、ハリケーンによって家や大切な物を失ったという喪失感、ハリケーン時の恐怖、傷ついた心、そしてこれからの不安・・・多くのダメージへのケアにフタをすることは、全く何も解決になりません。
ナウエンは、そのことを通して、人に寄り添うとはどういうことなのか、より深く神様から教えられ、それを私たちに伝えてくれていました。
痛みを見ないようにするのではなく、痛みの中に、苦しみの中に神様をお招きし、神とともにそこを歩む中で癒され、取り扱われ、やがて喜びに変えられていくプロセスを教えてくれていたように思います。
私たちもなかったことにしよう、もう忘れようとすると、かえって引きずるということを覚えておく必要があります。思い出のアルバムを失った時に、新しい高価なアルバムを買ってもらったところで癒されるはずもありません。代わりには決してならないからです。大切なのは、そこにある写真や思い出なのですから。
ですから、傷んだところに適切なケアをしていくことを大切にしたいものです。
もちろん教会はそうしたケアをする共同体でありたいと願っています。ぜひ、自分自身もケアしていただき、自分がケアされて落ち着いたら、自分がしてもらったように他の方にして差し上げたら良いのではないでしょうか。
意味の分からない苦しみは辛い・・・神の意図に目を向けて
同時に、このような状況下において、意味を見出せないことは苦しいことです。
しかし、神様は意味もなく、理由もなく人に試練をお与えになることはありません。
ある人は、このパンデミックで半強制的に「歩みの速度をゆっくりにさせられた」とおっしゃっています。働きの多くがキャンセルになり、収入も減ったが休みは増えた。その分ゆっくりと過ごす時間をいただいた。そこにも意味があるというわけです。
無理やりに自分を納得させる必要はありません。
無理やりに意味を見出さなければということでもありません。
ただ、善意に満ちた神様は、必要をもって意味をもってご計画をなさっていることを心の片隅に覚えておいていただけたらと思います。
そうすることで、いつかふさわしい時に・・・
わかる時が来て、そういうことだったのかと振り返ることができるならば、ただでは転ばなかったと言えることでしょう。苦しみだけで終わらないために。
創世記50章20節
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。