これにより、イエス様に従う者たちへの攻撃も強くなっていくのです。
今や、弟子たちはオオカミの中に遣わされる羊のような状況になりつつあるのです。ですから、心の備えをせよという意味で36節のように「剣」の話をなさったのです。
ところが、弟子たちは的外れな理解をしてしまいます。38節です。
ルカ22章38節
彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。
弟子たちは、剣ならもう2本持っています!と自慢げに主張しました。
なぜ、既に持っている!?と突っ込みたくなりますが・・・子どものように無邪気に、イエス様が言われる前からここにあります!と自慢げに言う弟子の姿がこっけいに思えます。
ただ、これはイエス様が今は「上着を剣に替えよ」と言われた意図を誤解しています。
決して実際に剣をもって戦えと言っているのではないのです。宣教する上で厳しい時代になりますよ!両手離しで信じる人ばかりじゃないですよ!霊的な戦いがありますよ!心せよ!という意味なのです。
イエス様はこの誤解に、親が子を諭すかのように「それで十分」とさらっと応えています。
これからの戦いがどういうものであるのか。それは39節以降を味わうとよくわかってきます。イエス様の心のうちに誘惑が起こっていたことがわかります。
十字架から逃れたいとの誘惑です。主イエス様はその誘惑との闘いのためにオリーブ山に行かれました。もちろん剣など持っていません。役に立たないからです。
ルカ22章40-41節
40節 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。41節 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」とこの40節、そして46節でも繰り返し語られています。この点からも、キリストの弟子が直面する戦いは、一見物理的な迫害に見えても、実はもっと霊的な内面の戦いなのだとわかります。
コロナウイルスの問題も肉体の健康面の戦いのように見えて、実はもっと深い霊的な戦いであると思います。皆が苦しい中で自分だけ良ければと考えてしまう誘惑。コロナへの恐怖心から他人をさばく思いや攻撃する心が強くなってしまうこと。本当に私たちの心のうちにあるものがあぶり出されているように思えるのです。
それにしても一番苦しかったのはイエス様のはずです。それにも関わらず、ご自分のことよりも弟子たちのことを気遣い配慮されていますよね。特に3年間寝食を共にしてきた親しい弟子たちだからこそ、もっとイエス様の孤独や激しい戦いを理解して欲しいと思ってしまいます。罪が一つもない。それにも関わらずこれから逮捕され、十字架に磔にされ、無残に処刑されていくのです。しかも、目の前の弟子たちの罪の身代わりとして。
それなのに弟子たちは、誰が一番偉いだろうかと議論はするし、イエス様の話をよく聞かず誤解ばかりしているし・・・。それでも尚、ご自分の大変さを訴えるのではなく、弟子たちの信仰がなくならないよう祈り、彼らが誘惑に敗れ恵みから離れていかないよう祈って備えよと心配しておられます。ここに主の深いご愛があります。
この時のイエス様のお姿を思う時に、私はイエス様とはかけ離れている者だと改めて思わされるのです。「自分こそが周囲の誰よりも我慢し、孤独に耐え忍んでいる」と思い込む。ともすると「どうしてこの大変さを理解してくれないのか?」と他の人をさばく私です。まるでイエス様と正反対の自分にガッカリするのです。自己愛の塊だなと気づかされます。
皆さんがイエス様の立場だったらどうでしょうか。痛みや苦しみが理解されず孤独に感じるのではないでしょうか。「もう少し私の苦しい戦いを理解して、一緒に歩んで欲しい!」そう願うのではないでしょうか。
しかし、だからこそこの後のイエス様の祈りのことばを主が私たちに残してくださっているご配慮に神様の優しさを感じるのです。唯一と言ってもいいでしょうか。イエス様が率直に、ご自分の苦しみを取り除いて欲しいと祈られた場面です。42節
ルカ22章42節
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
「この杯」とはイエス様に差し出された「苦しみの杯」、十字架の苦しみです。イエス様のこの時の苦しみがどれほどのものであったかは、続く43-44節で具体的にわかります。
ルカ22章43-44節
〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕
この箇所は、新改訳2017ではカッコ書きになっています。それは古い聖書の写本の中に、この部分が記されていないものが存在するからです。ただ、天使の描写は聖書全体に多くありますし、イエス様の苦しみの描写も他の福音書でも語られていますので、素直に受け入れて良いものでしょう。
イエス様でさえ「この杯を取り去ってほしい」と父なる神様に率直に訴えたのです。そう思うと慰められます。信仰の弱い私たちはこんな祈りばかりしてしまうものです。イエス様でさえもそう祈られた。イエス様が私たちと同じように誘惑にあい葛藤し苦しまれた。だから私たちの弱さをよくよく分かってくださる方なのだと知り、とても慰められるのです。
そして、そのような慰めをいただいた上で、イエス様の祈りの深さ豊かさに気づかされていきたいのです。42節をもう一度読みます。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
短くまとめられたこの祈りにイエス様の祈りのすべてが凝縮されていることに気づきます。最初に皆さんに「祈り」の本質についてお話しました。祈りは「神様と個人的に出会い親しく過ごす時間」だと。
イエス様はまず「父よ」と祈られています。親子の交わりです。私たちもイエス様を通して「天のお父さん」と親しく祈ることが許されているのです。それは、神を信じるすべての者が「神の子」とされているからです。親子の親密さが与えられていることに気づきます。
そして、イエス様は率直に苦しみを祈っていますが、同時に父なる神様のみこころに一番の関心を向けていることが分かります。「みこころなら、取り去ってください」と祈り、最後は「わたしの願いではなく、あなたのみこころがなりますように」と締めくくりました。
他の福音書ではこのような祈りを1時間され、さらにそれを3度なさっていると記録されています。時間もかけて何度も祈りながら、ご自分の心と父なる神様とのお心が近づいていくように歩まれたのではないでしょうか。
ここに「目指すべき祈りのゴール」があると思うのです。私たちはイエス様がなさったように、この苦しみを取り除いて欲しいと率直に祈っていいのです。イエス様でさえそう祈られたのですから。
しかし「取り除いてください」だけでは前に進めないのです。祈りはお願いの集中砲火を神様に浴びせる行為ではないからです。
パウロも3回も心底自分の体のトゲ(病や障害?)を取り去って欲しいと祈ったことがコリント人への手紙の中で出てきます。けれども、その祈りが答えられない中で、神様の語りかけに気づきます。「わたしの恵みは今のあなたに十分である。その弱さの中にわたしの力が働くのだから」との主が示されているのだと気づくのです。パウロは心から納得しました。まさに父なる神のみこころと自分の願いが一つになった瞬間です。
この祈りの交わりこそ、主イエス様がなさったことです。
私たちは祈りの恵みの大きさをまだまだ知りません。祈りの恵みをもっと味わい、楽しみ期待していきたいのです。苦しい時だけではなく、普段の歩みの中で神様ともっと親しく出会い、語り合い、その思いを知りたいのです。
実はそのためのヒントは40節に現れていました。そこには「いつもの場所に来ると」と語られているのです。「いつもの場所」とはどういうことでしょうか?
ここから分かることは、イエス様は苦しくなったので急にこの場所に来て祈り始めたのではないということです。むしろ「いつもの場所」と語られるように、普段から毎日のように、あるいは日に何度でもイエス様はここに来ては祈っておられたのでしょう。そういう「いつもの場所」なのです。