*** 3/3(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅱサムエル記24章「罪へのさばきと回復、そして希望へ」
いよいよ第二サムエル記も最後の24章となりました。
ここに罪に対する神様の聖なるさばき(罰)と、悔い改めへの赦しと回復、さらにはその先に新しい恵みがあるという希望があります。
1. イスラエルに燃やされた主の怒り
1節をごらんください。
Ⅱサムエル記24章1節
さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。
主の怒りの対象は、ダビデ個人ではなくイスラエル全体でした。その怒りゆえに、神様はダビデを用いて、さばきをなさろうとした。そのように理解できます。
ただし、同じ出来事についてⅠ歴代誌21章1節では以下のように語られています。
Ⅰ歴代誌21章1節
さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。
すると、今日の記事では神様(主の怒り)が主語で、第Ⅰ歴代誌の方ではサタンが主語ということになります。この違いをどう理解したらいいのでしょうか。
これについては、パウロがⅡコリントの12章で神様は、高慢にならないように私を打つため、サタンを使いとされたのだと説き明かしていることが参考になります。
整理すると・・・
神様は、サタンの悪意とダビデの罪さえも用いて、イスラエルの益となるように、さばきをなさった
と理解をすることができます。
特に今日のⅡサムエル記24章では、神様の主権に強調点を置くためサタンの事は触れていないのだと思われます。
それにしても、神様は無理やりなさる方でも、だます方でもありません。実際に過ちを犯したのはダビデ自身の意志であることはしっかりと覚えておく必要があります。
2. ダビデの罪 高慢?自己満足?
ダビデの心は思い上がり「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」との命令を下しました。詩篇20篇7節に以下のようにあります。
詩篇20章7節
ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主の御名を呼び求める。
戦車や馬の数に安心を求め、あるいはそれらを「自分のものであるかのように誇る(私物化)」という罪深い姿勢です。それは主を呼び求めることの対極に位置すると言えます。自分の所有している軍事力は一体どれほどになったのか、自分の力はどれほどなのか。ダビデは自己満足や自身を誇る意図でこれを命じているのでしょう。
私たちも礼拝の出席人数や献金額などの数字に最大の関心を払い、そこに安心を求めたり、そこに自分たちのステータスを求めたりせず、謙虚に「すべては神様の恵みです」と心を込めて言える者でありたいと思います。
あるいは、自分のコレクションや財、家、車などを誇るかも知れません。暮らし向きの自慢、自分の能力を誇るかも知れません。しかし、誇りたい人は主を誇れとみことばは語ります。
2節によれば、ダビデはこの住民登録の命令を将軍ヨアブに出しました。しかし、ヨアブたちは疑問や課題を感じたのでしょう。3節で「なぜ、このようなことを望むのですか?」と尋ねています。彼らなりに疑問を提示しているのです。
しかし、4節にあるようにダビデのことばは激しく、誰も反論できませんでした。結果、彼らは大変な労力をかけて、イスラエル全土の兵士数をカウントすることになります。
Ⅱサムエル24章8-9節
8節 彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。
9節 ヨアブは兵の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。
現代のように便利な時代ではありません。メールも電話も電車も飛行機もありません。彼ら自身がイスラエル全土を行き巡りました。9か月と10日かかったことがわかります。リーダーシップの愚かな独断が、周囲を巻き込んで困らせてしまうという一つに例でもあります。
3. 罪へのさばき
さて、報告を聞いてダビデはそれを安堵したのでしょうか。ふと我に返ります。そこで初めて自分の罪に気づかされたのです。
Ⅱサムエル24章10節
ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」
本当は罪を犯す前に気づいてストップできれば良いのですが、ダビデのように後から「違ったな」「やってしまったな」ということが私たちにもあるのではないでしょうか。
兵士数をカウントすること自体が悪なのではありません。むしろ、民数記では神様が命じてそうさせているぐらいです。
しかし、ダビデはその動機の過ちに気づいたのです。良心のとがめを感じたとあるように、自分の欲、自分の驕り、自分の安堵、自分のステータスのためにこれをしたことに気づいたのでしょう。神様を頼みとするのではなく、自分を誇りたかったということでしょう。それで、「大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください」と祈り求めています。「本当に愚かなことをしました」とも付け加えていますね。
やがて、預言者ガドを通して神様からの3つのさばきのうちどれを受けるかとの問いがダビデになされます。13節です。
Ⅱサムエル24章13節
ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」
皆さんだったらいかがでしょうか??
ダビデは14節でこう答えました。
Ⅱサムエル24章14節
ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」
ダビデは自分で選びませんでした。神のご決定にゆだねることにしたということでしょう。結果として3つ目の3日間の疫病が国にもたらされました。3日間で終わるので長くはありません。それでも15節では既に7万人が亡くなっていることがわかり、さらに広がろうとしていましたので深刻でした。
さて、ここではダビデのせいでイスラエルの民が犠牲になってしまったとも言えますが、最初の1節にあったように、そもそも「主の怒りはイスラエル全体に向かって燃やされていた」という前提があります。
ですので、ダビデも含め、すべてのイスラエルの民の罪がいっぱいに膨らんでいた状態で、滅んでも仕方がない状態であったのではでしょうか。
『ありがとう』という賛美がありますが、その歌詞の中にこうあります。
果てしなく広い海に思う 小さく弱い私の姿
神の目に映らなくても仕方ない者なのに
波の輝きに目を伏せる 汚れ切った私の姿
神に捨て去られても何も言えない者なのに
まさに、汚れた切ったイスラエルは、捨て去られても仕方ない状況にあったのではないでしょうか。神様はできることなら罰したくはない。忍耐しておられ、民が自分で気づいて立ち返ることを待っておられます。預言者やみことばが啓示され、悔い改めよと語られます。それでもなお、悔い改めない時に、大きな戒めをもって目を覚まさせることがあるということです。
4. 悔い改めと赦し、回復、希望へ
それでも、なお、神様は天使に命じてこれを途中で止めさせました。
あわれみ深い主のお姿です。
そこにはダビデの悔い改めととりなしの祈りがあり、神様はさばき途中で心を動かされ、思い直されたのです。
Ⅱサムエル24章17節
ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「ご覧ください。この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下りますように。」
このような真摯な祈り、自分の過ちを認めて主の前にへりくだる祈りに神様は心を動かされます。それは14節で、ダビデが「主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。」と応じたことが真実だったことの証しでもあります。
それで神様は預言者ガドを通して、このさばきの終了のために、祭壇を築くようダビデに命じます。ダビデはアラウナという人物からお金を払って土地を買い、そこに祭壇を築いて主への全焼のいけにえをささげました。
Ⅱサムエル24章25節
ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。
こうして「主の罰は終わった」と告げられ、サムエル記は完全に幕を閉じました。ここでも重要なのは、「主がこの国のための祈りに心を動かされたので」ということばです。
神様は聖なるお方ですので、罪や悪には正しく報いられる方です。ただ、同時に、主はあわれみ深い方です。私たちの祈りに心を動かされる方です。毎日のように神様を悲しませる私たちですが、毎日のように心を動かし、あわれみ続けてくださる方です。
何よりそこに民を思う深いご愛があります。
この時、民は大きなダメージを受け、ダビデも非常に傷ついたことでしょう。
ただ、神様からこうして戒められることがなければ、もっとひどい状態になっていたことでしょう。神様は意味もなく苦しめることをなさいません。長い目で見て、イスラエルの益とされるために、厳しく注意なさったのです。
私も子どもたちそれぞれに、あえて厳しく叱り時間をかけて話をする時がありました。彼らの将来が心配になったからです。傲慢にならないよう、わがままにならないように、主から離れていかないよう。今厳しくしなければ、長い年月かけてどんどん主の喜ばれる道から離れて行く。人にはそういう危機があります。その時は愛があるからこそ、ムチを控えてはならないということがあるのです。
私たちは強情です。愚かなので、本当に痛い目にあわない限りは、心のどこかで「まだ大丈夫」と根拠のない思いでズルズルと道を外れていきます。そこには、神様が忍耐をもって、自分から立ち返って来るのを待っていてくださる愛があるということを忘れています。
主はイスラエルを愛しておられ、さばきと悔い改めの機会を備えられたのです。
そして、事実、このゆえにダビデは悔い改め立ち返りました。やがてこの悔い改めの場所に、ソロモンの神殿が建てられていくのです(Ⅱ歴代誌3:1参照)。祝福です!
罪への報いがあるのは当然のことですが、主はそこに悔い改めの実を結ばせてくださるだけでなく、赦しを与えられるだけでなく、新しい祝福をくださいます。
だから希望があります。
私たちは生きていく限り、罪の数だけで言えば、年を経るごとに増え続けているはずです。毎週、毎月、毎年・・・犯した罪の数は増え続けています。それだけを考えれば、私たちは滅んで仕方がないほど汚れた者です。
しかし、主はそれらすべてを赦され、悔い改めのあるところには、完全な赦しと回復、そして、それまで以上の恵みと祝福をさえ、もたらしてくださるお方なのです。