東日本大震災3.11 から10年が経過しました。
あの時の揺れの激しさ、あの時の津波の映像は忘れることができません。
10年の間に、支援や復興の働きは相当な労力をもってなされたことと思います。そして立ち直って新しい歩みをされている方々も多くいらっしゃることは嬉しいことです。
また、仮設住宅も改善され、公営災害住宅へと多くの人が転居できました。
今は現在仮設住宅に住んでおられる方は数十人レベルとなっており、多くの人の働きが実を結んでいると言えます。
ところが、こうした物理的な改善の一方で、心のケアの部分で課題が多いとも指摘されています。公営災害住宅に移った人の中には、前の仮設の頃の方が良かったとおっしゃる方さえいらっしゃるようです。それは、仮設住宅にいた時の方が、ボランティア等、訪問してくれる人が多かったからだそうです。
転居することで人と接する機会がだいぶ減ってしまったというわけです。それに加えて、コロナウイルスの問題も加わり、孤独死などの問題が増えているのです。
とても考えさせられます。
広い立派な良い住宅に住めるようになり、問題が改善したと理解されてしまったゆえに、人々の訪問が減ってしまったと考えられます。困窮していると思われる状況の方が多くの人の訪問があり、関りがあって、励ましを受けていたのだと言えます。
物理的な助けは必要不可欠であり、そこには多くの人の「気持ち」も確かに含まれています。それでもなお、人はそれだけでは生きていけないということに改めて気づかされます。
震災のケアには「愛」が必要
人は誰かから必要とされ、あるいは心配され、触れ合い、そして支えあって生きていくべき存在です。それなしには物理的に満たされても、人の心や魂が弱っていくのは神の創造に由来することだと思います。
創世記2章18節
また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
人のための「助け手」にふさわしい動物を神様は人のもとに連れて来ました。人にその動物たちの名前を付けさせる行為を通して、動物たちをよく知る機会を与えたのです。そうやってよく知ることで、最終的にわかったことは、どんな動物もすばらしい存在ではあるけれども、人と対等のパートナーにはなれないということでした。
そこで人の「助け手」は、やはり人なのだと証明されたのです。こうして神様は人を一人ではなく、互いに助け合える存在であることを明らかになさいました。こうしてアダムという男性だけでなく、エバという女性も造られ、また家族を形成し、人がこの世界に満ちていくようになさったのです。
なお、この「助け手」ということばは、聖書中で神様を指しても使われていますので、そこに優劣をつけることはナンセンスです。
立派な家も車も良いものですが、人の「助け手」、「パートナー」にはなれません。人には神という助け手、そして人という助け手が必要だということです。
東日本大震災から10年経過しましたが、これまでに仮設住宅や公営災害住宅で孤独死された方が600人以上となっています。誰からも看取られることなく世を去るということは、とてもさみしいことだと思います。
少子高齢化、コロナウイルスの問題もあります。
これからの時、ますます必要になることは「人の愛」ではないでしょうか。