*** 3/10(水)祈祷会 説教概略 ***
使徒18章1-11節「恐れないで踏み出す信仰」
私たちは今、コロナウイルスの問題でかつて経験したことがないような状況に置かれています。いつも通りの生活ができず、教会もいつも通りの活動ができないでいます。考えてみると、教会の活動は「密になること」が基本的に多い気がします。ともに食事をし、ともに祈り、ともに賛美する・・・「密な交わり」こそ教会の核となる部分です。ですから、密を避けるというのは、結構な痛手であると改めて思わされます。
普段、そういう交わりや活動をしてきたからこそ、それができないことへの気持ちの落ち込みも小さくないと言えます。特にコロナウイルスは自分の感染を避けるだけではなく、気が付かないうちに自分が感染を広げる側に立っている恐れがあるので本当に厄介ですよね。そして、そこから派生して自粛警察のような、他の人の行動に対して敏感に反応し、攻撃的、否定的な意見が少なからず出てきます。そうなると、弱気になり、こんな時に伝道宣教はできないのでは?と後ろを向いてしまいがちです。
でも、むしろ、こんな時だからこそクリスチャンの出番ではないかと思うのです。この地に神のご計画のうちに召されている神の民としての使命を果たすべき時であると考えることもできるのではないでしょうか。
以前とある姉妹がコロナ下で友人と電話で語り合った時のことを話してくれました。コロナ下で人と会えず、お互いに「認知症になるんじゃないか」といった話をされたと。人と話す機会が減っていますから。その時に未信のご友人はこう言われたということでした。
「あなたは教会があるからいいじゃない!」
と・・・。考えさせられます。未信者から「あなたは教会があるからいいじゃない!」と思われている。それは良い証しです。でも、そんな風に思っていただける側なのに、私たちが縮こまっていてはいけないとも思わされるのです。
これはパウロがコリントの町に宣教のために移ってきたときの話です。このコリントの町は交通の要所です。商業と貿易の中心地として栄えた町です。同時に不道徳な町でもあり、コリントに移動してきたパウロは色々な意味で圧倒され、恐れを抱いたことでしょう。栄えている町ですから、賢い人、有能な人、野心のある人など多くいたことでしょう。知識で語り合っても勝てない・・・パウロはこの地の人々やその雰囲気を恐れたのだと思います。
恐れながらも主のみこころは何かと求めて、彼はこの地で宣教に励みました。福音を語りました。その様子が4-6節にあります。
使徒18章4-6節
4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。
5 シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。
6 しかし、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」
ここにあるように、パウロは仲間たちとともに語りましたが、6節のように反対され、それどころか口汚くののしられたことがわかります。ショックですよね。
私たちの周囲にもキリスト教が好きでない方、宗教を嫌っている方もいますから、普段でも否定的な声を聴かされることがあります。ましてコロナのことで余計に人々が批判的、否定的になっている面も少なからずありますから、委縮してしまうことがあるのもわかります。
では、この時のパウロはどうだったでしょう。彼らの時代はそれこそあからさまな反対や暴力的な迫害もひどくありました。そういう状況だから、主は宣教できないのは仕方がないとおっしゃったのでしょうか。そんなはずはありません。
できないところ、開かれていないところがある一方で、できるところ、開かれているところもあるものです。
できるところから、できることをやっていけばいいのではないでしょうか。
パウロはユダヤ人たちから反対されると、求めている異邦人たちに福音を語りました。かえってそのことが福音を世界に広め、驚くべき速度で宣教が進んでいくことになりました。
主はこの反対が強い状況の中でパウロに語られました。
使徒18章9-10節
ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
なんと励まされる言葉でしょうか。
「恐れないで語り続けよ!なぜなら、わたしがあなたと共にいるのだ。」と主は力強く励まされました。責任は絶えず主が取ってくださるというわけです。だから、誰もあなたを襲って危害を加える者はない。「語り続けなさい。」と。みこころはこれでした。
さらにこう言われます。10節で「この町には、わたしの民がたくさんいるから」。
それはこれからイエス様を信じて仲間に加えられていく人々であり、協力し助けてくれる人の存在です。敵だけではないのです。反対者だけではないのです。
必ず協力してくれる方、救われる方がいます。たくさんいます。
コリントも難しい地域だったことと思います。なかなか心が開かれない地。でも、主はこの町に、わたしの民がたくさんいるからと言って励まし、そして人々を救われました。事実、そこに教会が建て上げられました。
「恐れないで語り続けなさい」それはコロナ下でも私たちに与えられている主の励ましのことばであると私は信じます。それは「感染を恐れないで」という意味では決してありません。コロナウイルスに伴う様々な不安や恐れを抱いている今の世界だからこそ、まことの神を知る者こそが、本当に恐れるべき方は主おひとりであると証しすべきだということです。
「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない」
この主のおことばに応答していく者でありたいのです。
中高生会の企画で撮影し制作した動画を礼拝の後に上映会をしました。その後、もっと多くの人に証しのために観てもらうのはどうかと映像に映っている中高生、青年たちに尋ねました。中には「批判されるかもしれない」と恐れる声もありました。でも、「動画を全くUPしなければ批判もされないけど、良い評価も生まれない」という声もありました。
また別の子は「友達に見られるのはちょっと恥ずかしいけど、それで教会のことを知ってもらえるなら嬉しい」と言ってくれました。それで限定公開という形ですが、教会のHPに掲載し、不特定多数の方が見られるものにしました。それが実際に用いられ、何度も視聴してくださった方が多数いました。笑えると同時にメッセージ性もあり聖書のみことばに触れることができて良かったという声もありました。
恐れずに踏み出すことなしには、良い実りもありません。
この地は不毛だとあきらめて、種を蒔かなければ、芽が出ることがありません。語る者がいなければ聞く者もいません。
リスクを恐れて踏み出さないならば、批判も攻撃も経験しないで済むかも知れません。でも、リスクを承知で踏み出さなければ救いは起こりません。新会堂もリスクがとても多い取り組みでした。でも、それをしなければ今受けている恵みもなかったことになります。
感染には十分気を付けて徹底すべきです。安心して教会に来られるようにきちんとすべきでしょう。しかし、それと同時に心まで閉じこもっては福音は伝わりません。ことばに限らず生き方全体で今こそ積極的に表していきたいと思います。
あなたを教会へイエス様のもとへ導いたのは誰でしょう?神様ご自身です。
神様によって皆さんは召されて、このコロナ時代の教会の働きに召し出されたのです。意味なく召してなどいない。困難な時代に「あなたが必要だ」と主が選ばれたのです。
主は言われました。「この町には、わたしの民がたくさんいるのだから」と。召された者として胸を張って語り続けましょう。
家に引きこもるだけでなく、心まで引きこもってしまい、色づく畑を見ていないのではないでしょうか。収穫は多いのに、この町には神の救いにあずかる用意のある民がたくさんいるのに、心まで閉じこもり否定的になり下を向いて何もできないと思いこんではいないでしょうか。
コロナ下は大変ですが、使徒の時代も別の理由で会いに行くことが難しかった。なぜなら電車もバスもありません。電話もメールもない。迫害もひどく、パウロは牢屋にも収監されました。じゃあ、宣教も牧会もできなかったのでしょうか?
いいえ。 聖書を開いていってください。手紙がいっぱいありますよね。そうです、彼らは会えない時、手紙を用いたのです。あきらめるのではなく、いくつもの手紙を書き、手紙のことばを通して福音を伝え、救いに導き霊的ケアまでしました。もちろん、直接会うことが最善です。しかし、できない状況は当時もあり、手紙だからこそ回覧できてより多くの人に、さらに今の時代の私たちにまで残され伝えられているのです。
気弱になって「出来ない」と考えるのではなく、思いを超えて働かれる主に期待して、今できる方法で恐れずに語り続けたいのです。
使徒18章9後半-10節
恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。