東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ22章35-46節 「暗闇の時、光の時」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/03/15

ルカ22章35-46節 「暗闇の時、光の時」

 *** 3/14(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ22章35-46節「暗闇の時、光の時」

 踊る大走査線というドラマ、映画がありました。刑事・警察を舞台とした話です。主人公が、正しいことをなすべき組織に属しているのに、その中では「正しいことができない」と嘆くのが印象的です。権力争いや保身のための圧力、不正の隠ぺいなどが横行し、正しいことが思うようにできないのです。そして主人公に対して先輩の刑事が言います。「正しいことをしたいのなら、偉くなれ」と。裏を返せば、偉くなければ、権力がなければ正しいことが出来ない世界であることを示しています。

これが罪に満ちた世界、暗闇の時代です。


 これは警察に限らず、あらゆる組織においてリアルな話だと思います。正しい、良いことをとことんする人は疎まれ、立場を失い、左遷されます。国によっては政府の不正を正そうとする人は口を封じられ、逮捕されることもあるでしょう。
  
 だからこそ正しいことなしたときに「アーメン!ハレルヤ!」と皆で喜べる光の世界、神の国が早く来るようにと祈るのです。そして、今の闇の時にあっても、イエス様は闇に呑まれず、光の国に属する者として、光の道を歩むように示してくださいました。みことばから暗闇の時にあっても光に歩む道を教えられます。

 

1. 暗闇の時代

 
ルカの福音書22章47-48節
イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」

 夜の暗闇でしたので、イスカリオテ・ユダはイエス様を間違えずに逮捕させるために、自分の口づけを合図にしました。実に「口づけ」ということばは、元々は「フィレオー」という友人愛を示すことばから派生しています。ですから口づけは「愛や平和を意味する挨拶」でした。つまり、表面的には「愛のわざ」を用いて、その実、裏切りの罪を犯しているということになります。「あべこべ」です。まさに暗闇の時代の象徴です。

 また、ユダ以外の人々も同様です。正義を語りながら正義とは反対の罪をみんなで共謀して犯しているのです。彼らはどこかで自分たちの過ちを分かっています。なぜなら、本来ならば昼間に堂々と、武器も持たずにイエス様を逮捕すれば良かったはずなのに、それをしなかったかのです。やましさがあったのではないでしょうか。また、人々がイエス様は正しい!と訴えてくることに対して、堂々と逮捕するだけの正当性がなかったからでしょう。
 
 汚い方法を用いるから、闇夜にまぎれて、卑怯な方法で行うのです・・・
 インターネットで匿名で誹謗中傷を行なうのもこれに似ています。自分たちの主張が正しく、愛と真実に満ちたものだと確信できるのなら、名前を出し、堂々と相手と議論すればいいのです。それ避けて匿名で物陰から石を投げるのはなぜでしょうか。

 52-53節で、イエス様が彼らのこれらの行動を指してこのようにおっしゃっています。

ルカの福音書22章52-53節
それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。53節 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

 まるで強盗にでも立ち向かうような装備で、夜の闇に紛れて彼らは集まりました。53節にあるように、そもそも正当な逮捕であるのなら、こんな闇討ちをせず、昼間に堂々と公衆の面前で逮捕すれば良いことなのです。しかし、闇夜に乗じて、ユダという裏切り者を使い、武器まで携帯しています。客観的に見ると正義を振りかざしてイエス様を逮捕しようとしている彼らが悪者にしか見えません。

 しかし、こんな不当な逮捕が通ってしまうのが暗闇の時です。
 「それは間違っている」と正す力よりも「やってしまえ」という声が大きいのが暗闇の時です。

 そういう意味では、現代社会も暗闇の時です。世界中のニュースを見ると政府の過ちを指摘する人は、不当に逮捕されたり、冷遇されたりするケースが増えています。日本でも不正がまかり通る社会になりつつあります。そして不正を正そうとすると、その人が圧力をかけられ黙らされ、なかったことにされる時代です。歯向かえば左遷され、職を失う。これを「暗闇の時」と言わずしてなんと言うべきでしょうか。暗闇の力に対して私たちは何をもって戦うのでしょうか・・・。


2. イエス様の戦い方

 
 そんな時、主イエス様に目を注ぎたいと思います。主は暗闇の力が覆う時にどう応じられたのでしょうか。 49-51節のところにこのような出来事が起こっています。

ルカの福音書22章49-51節
イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。

 弟子の一人は、イエス様を守るためでしょうか。
 とっさに武器で切りつけ、大祭司のしもべの耳を切り落としてしまいました。不当に逮捕しに来た者たちと同じ方法で応じてしまったと言えるでしょう。

これをイエス様は「よくやった!」と褒められたのでしょうか。全く逆ですね。
イエス様は「やめなさい。そこまでにしなさい」と彼を諫めました。それどころかなんと主は、自分をワナにはめて逮捕しようとしている敵の耳を癒されました

この場面、想像してみると本当に劇的な場面で、非常に教えられます。
イエス様のこの行動に2方向の愛が示されています。

第一に、暴走してしまった弟子を救う愛です。彼らの破れを繕う愛です。剣で切り落とした結果は明らかです。お互いに武器を持って争い、傷つけあうでしょう。結果、弟子たちはみな逮捕され、あるいは死刑でしょう。剣を持つ者は剣で滅びると主が言われた通りです。イエス様はその過ちを覆うために、彼を諫め、切られた相手を癒されました。

第二に、敵を愛する愛です。目の前に武器を持って現れた人々はイエス様を拷問し殺していく人々です。濡れ衣を着せ、罪をでっちあげて・・・しかし、それを知っていて尚、主イエス様は傷ついたこの人の耳に優しく手を当てさあ、これで大丈夫だと彼の耳を癒されたのです。イエス様のこのいやしの奇跡を経験した者は衝撃的だったのではないでしょうか。奇跡のすごさに驚きまた敵である自分のために癒してくれる愛を目の当たりにしたのです。

 これが暗闇の力に対するイエス様の戦い方です。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。と教えられた通りです。

相手が武力を持って来ても武力で争うのではなく、敵をも愛するという圧倒的な愛で応じられたのです。

 主はこれから十字架に磔にされ殺されていきます。その直前、最後になされた癒し奇跡の相手は、自分を不当に逮捕し殺害する側の人物であったということになります。

 驚くべきことです。主は決して自分を救うためには奇跡をなさいませんでした。ご自分を十字架から救い出すこともできたはずなのになさらない。しかし、自身を傷つける者のためには愛のゆえに用いる愛です。

こうしてイエス様は抵抗することなく、甘んじてこの不名誉な逮捕を受け入れ、裁判とは名ばかりの不当な裁判を引き受けられました。しかし、それこそが神の救いのご計画でした。罪なきイエス様が不当に罪を背負わされ、身代わりに十字架に歩むことこそ、人々が自分の罪を心から恥じ入るほどの完全な愛の現れでした。


3. キリストの足跡にならう

  
 今日のみことばに関係する他のみことばを味わいたいと思います。
弟子のペテロが書いた手紙です。

実は、今日の場面において、剣で切りつけた人は弟子のペテロだったことが、他の福音書からわかります。ペテロは感情的に、あるいは恐怖心から手を出してしまったのでしょう。そんな彼の失敗を補い、敵をも愛する姿勢を貫かれたイエス様を間近で見た彼のことばです。

ペテロの手紙第Ⅰ2章19-24節
19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。 
20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。 
21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。 
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。 
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。 
24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

キリスト者が召された理由をペテロは語っています。

それは主イエス・キリストの足跡について行くことです。

そのための模範をもキリストは残されました。

ペテロこそ、それをすぐ横で実体験を通して学んだ人でした。

この世では不当なこと、不条理なことは尽きません。残念ながら時に、教会やクリスチャンの交わりの中でさえ、不当だ不条理だと思えることが起こり得ます。罪人だからです。実際、イエス様を苦しめたのは、外部の者たちではありません。むしろ聖書と神を信じると公言しているユダヤ人の祭司長、律法学者とその権力におもねる人々でした。

でも、イエス様は彼らを憎みませんでした。力に対して力で応じませんでした。私たちも本当の意味で主の弟子であり続けたいと思います。どんなに世界が暗闇の時代になろうとも、闇に染まらず、光の子として歩ませていただきましょう。

暗闇の世界でこそ、光の役目は尚大きくなるからです。主イエス様はすべての弟子に対して身をもって示されたのです。愛のわざで応じる道こそ、神のみこころだと。


4. 後に来る光の世を信じて

 
 最後に、本日のみことば2253節のみことばを味わいたいと思います。53節の主イエス様のことばが胸に響きます。今はあなたがたの時、暗闇の力です。」と言われました。

 これは決して敗北宣言のようなものではありません。むしろ、暗闇の力に従い罪を犯している者たちへの悔い改めの招きであり、勝利宣言でさえあるかも知れません。

イエス様は「今は」と限定されました。「今は」と言われたということは、「後には」ということが意識されているということです。

しかも、ここにある「時」ということばは「時刻」を現すことばで、英語では「hour」です。1時間2時間などという時刻に使うことばです。それは「時代」といった長い期間を示すことばではありません。それは夜明けまでの限られた時間を意味します。
もっと言うならば、後に来る「終わることのない光の時」に比べれば、今は限られた暗闇の時間なのだということです。

そこにはイエス様のこんなメッセージが込められているように思います。「今は、ごく限られた暗闇の時間です。あなたがたはすぐ終わる暗闇の時間の中に生きていていいのですか。むしろいつまでも続く、神の光の世界に生きる者となりなさい」と。

 今日、主は私たちに語っておられます。暗闇の時にあっても、あなたがたは暗闇に合わせて歩まず、光の子として歩みなさいと。やがて暗闇が終わり、光の時が来る。それはもう終わることがないのです。

 

夜明け


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