ルカの福音書5章8節「こんな私でさえも」
何も変わらないでいる人はほぼいないことでしょう。1年を通してマスク生活、人との接触を避け、距離を置き、旅行や外出を避けて、消毒や換気に気を配りました。それに加えて、万一自分が感染者になったら、感染させてしまっていたらという恐れと不安、緊張感。ちょっと熱が出ただけでコロナじゃないか?と疑い、あるいは疑われる。大変な一年でしたよね。これらは皆さんが多かれ少なかれ、通って来たことだとすると、やはり皆さん全員が被災していると言えるわけです。そりゃあ疲れますよね。
自己嫌悪の問題
この愛について教えられていきましょう。
後にイエス・キリストの一番弟子となるペテロの言葉です。これは一体どのような場面だったのでしょうか。ペテロは漁師さんでした。この道に関してはプロフェッショナルです。けれど、この日ペテロたちは一晩中漁をしたが全く魚が獲れませんでした。ですから、もうあきらめて帰り支度をしていたのです。ところが、そんな所にイエス様がやって来て、こう言うのです。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」。
これを聞いて彼らは内心ではこう思ったのではないでしょうか。「え?この人何言ってんだ?俺たち漁師だぞ。俺たちが一晩中頑張って獲れなかったのに。今日は絶対無理だ。」
それでも彼らは従ったとあります。おそらく「最近人気の教師イエスさんだから、とりあえず、言うとおりにしてあげよう。少しやって獲れないとわかれば帰ってくれるだろう。」などと思って仕方なくでしょう。それでイエス様の指示通りの場所に網を降ろしてみたのです。
ところが、そうすると、ありえないほどのたくさんの魚が獲れたのです。
ペテロはなぜ、このように言ったのでしょうか。
それは、イエス様がすべてを見通す目を持っていると感じたからです。湖の底にいる魚の位置を正確に見抜くことができる力。それは、自分の心の奥底にある思いをも見抜く力だと彼は感じたのです。それゆえ彼は非常に恐くなったのでしょう。とても恥ずかしくなったのではないでしょうか。自分の心の中にある苦々しい思い、罪深い汚れた心。それらも全部この方には知られてしまう。
そう思ったから、ひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言ったのではないでしょうか。
教会は敷居が高いとも言われます。神様を礼拝する神聖な場所。堅苦しい立派なまじめな人が来る場所。私のような人間が行くところじゃないと思ってしまう。でも、これからイエス様の一番弟子となっていくペテロもそう思ったのです。
私のような者があなたのそばになんて、いられませんよ。私の心の中は汚いものでいっぱいです。恥ずかしすぎる。自分で自分が赦せない。とても近づけない。
以前、こういう事で悩んでおられる人がいました。自分は人と親しくなるのが怖いのです。親しくなると、その人がきっと自分を嫌いになり離れて行ってしまうんじゃないか。そう思う。自分に自信がない。自分の醜い心を知られてしまうと怖い。あるいは自分にはたいした面白み、魅力もないという事がわかって人が離れてしまうんじゃないか。
だったら最初から仲良くならなければ、嫌われて傷つくこともない。捨てられるという悲惨な経験もしないで済む。だから人とは仲良くならないようにしていると。
「なるほどな」と思いました。
でも、同時にこうも感じました。本当は親しくなりたいのだろうなと。
自分に失望されたり、捨てられたりして、傷つくのが怖いのであって、本当は愛され受け入れられ安心して生きることができたら、それほど良いことはないと感じているからこその発想だなと思ったのです。本当は醜い自分も、わがままな自分も、人を赦せない自分も、劣等感だらけの自分も、嫉妬してしまう自分も・・・そのままで受け入れて欲しい。
この方に限らず、私たちも心の深いところではそうなのではないでしょうか。
ペテロも本当は、こんなにとんでもなく罪深い自分でも、この素晴らしい方と一緒にいたいと思ったのではないでしょうか。でも己の罪深さを意識させられ、自分など到底近寄れないと思ったのです。このような聖なるお方の側に自分がいていいはずがないと。
けれど、イエス・キリストというお方は、そうではないのです。立派な正しい人ではなく、罪人を招くために来られた神の御子です。このような自己嫌悪、自分を受け入れられない者たちに、神がどれほど愛しておられるかを伝えるために来られたのです。
私は学生時代に自分が嫌いで仕方がない時がありました。
高校時代、私が授業で発表する担当だったのに、私はそれを忘れていた。先生から今日は早坂が発表だな!と指されたとき、私は前の週に欠席した人の番だと言いました。あの人は欠席したからやっていません!と。そこで、先生はその人に聞き、準備しているか?と問いました。その人も準備していなかったのです。私は自分が準備していなかったのを逃れるために、他の人に振ってしまった。それなのに私は、友人たちに、あの人が発表しないまま終わったら、成績つけてもらえないから可愛そうだ!だからあの人の番だと先生に言ったと言い訳をしました。でも、本当は自分が忘れた事を逃れるために言ったわけです。かっこ悪い言い逃れです。自分が嫌いになった瞬間でした。大学時代には、イエス様を信じて歩み始めたものの、人と比べてばかりいる自分が嫌でした。クリスチャンが皆立派に見えて、その交わりの中にいても居場所がないと感じました。まだ聖書もよくわからず、クリスチャンとしての喜びもわからず、賛美も知らないものばかり・・・アウェー感。輪の中心にいられない自分が嫌でした。そんな時、クリスチャンは優しいので、気を遣ってもらって、あわれみで交わりに入れてもらったりする・・・もう余計嫌なわけです。
ある人からは嫌われていると思ったし、自分でも自分が嫌だ。そして、自分の醜い罪深い心を全部知っている神様はきっと私を疎ましく思い、ついにはいい加減愛想をつかしてしまうのではないか?聖書も読んでないし。変わらないし。
しかし、苦しくてすがるように聖書を開いた時、神様はみことばによって教えて下さいました。
神の永遠の愛
私がどんな歩みをしてきたのか。どんな汚い心で生きているのか。見えないところではどんな怠け者のずるい人間なのか。すべてを知っている神様。それなのに、熱烈な愛のメッセージが聖書には溢れている。