東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書5章8節「こんな私でさえも」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/03/16

ルカの福音書5章8節「こんな私でさえも」

 *** 3/16(火)ほっとカフェ 講演 ***

ルカの福音書58節「こんな私でさえも」

2020年度、最後のカフェになります。
今年度はコロナウイルスに振り回された一年で、計画していた楽しい企画もほとんどできませんでした。そんなこともあり、少し前に教会のHPに記事を書きました。


それは、コロナウイルスというパンデミックは感染した人だけではなく、「すべての人が被災者なのだ」ということです。

 何も変わらないでいる人はほぼいないことでしょう。1年を通してマスク生活、人との接触を避け、距離を置き、旅行や外出を避けて、消毒や換気に気を配りました。それに加えて、万一自分が感染者になったら、感染させてしまっていたらという恐れと不安、緊張感。ちょっと熱が出ただけでコロナじゃないか?と疑い、あるいは疑われる。大変な一年でしたよね。これらは皆さんが多かれ少なかれ、通って来たことだとすると、やはり皆さん全員が被災していると言えるわけです。そりゃあ疲れますよね。

 普段なら揉めないことで揉めてしまうなどもあったでしょう。ですから、誰もがイライラし、ストレスを感じ、コロナウイルスの問題で人間関係が壊れたりすることも少なくなかったようです。だから、あまり自分を責めないでください。「コロナのせい」です(笑)。

 何でもコロナのせいにすべきではないでしょうけれど・・・
でも、本当にそういう面があることを受け止めるべきだと思います。


自己嫌悪の問題

 
 それでも・・・そんな中で、自分の嫌な部分を発見した、失敗したという方もいらっしゃるのではないかと思います。自分という存在を受け入れられない。自分を肯定できない。自分を好きになれない。「自己嫌悪」という問題です。

 私もかつては自己嫌悪や劣等感の塊でした。King of 自己嫌悪でした。非常にメンタルに波があり、自分を良く思える時と、自分を大嫌いになる時が交互に来る感じです。しかし、どんなに私たちが自己嫌悪になっていようとも、神様はあなたを愛しておられます。嫌悪することなどあり得ません。

この愛について教えられていきましょう。

明治時代、海外の文学が日本に入って来て「I Love You」という言葉をどう訳すかという話になりました。まだ日本では「愛していますと」いう表現が一般的でなかった時代です。

有名な文豪の夏目漱石は、ある生徒が「愛しています」と訳したのを聞いて、こういう時は「今夜は月がきれいですね」とでも訳しておけば十分と言ったそうです。正直、全く伝わりませんね。
深読みしまくれば、「あなたと一緒に眺める月は格別にきれいです」となりますが・・・ 言わなくても伝わると考える日本文化。風情はあるかも知れませんが、愛が伝わりにくいですね。でも、私たちはそんな日本の文化の中に生きていますので、「愛しています」と伝えることがやはり得意ではありません。

愛していると伝えることも、愛していると言われることにも慣れていません。
それで神様から愛されていると言われても、すなおに受け入れることが難しいのかも知れません。

 

ルカ5章8節
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」 

後にイエス・キリストの一番弟子となるペテロの言葉です。これは一体どのような場面だったのでしょうか。ペテロは漁師さんでした。この道に関してはプロフェッショナルです。けれど、この日ペテロたちは一晩中漁をしたが全く魚が獲れませんでした。ですから、もうあきらめて帰り支度をしていたのです。ところが、そんな所にイエス様がやって来て、こう言うのです。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 これを聞いて彼らは内心ではこう思ったのではないでしょうか。「え?この人何言ってんだ?俺たち漁師だぞ。俺たちが一晩中頑張って獲れなかったのに。今日は絶対無理だ。」

 それでも彼らは従ったとあります。おそらく「最近人気の教師イエスさんだから、とりあえず、言うとおりにしてあげよう。少しやって獲れないとわかれば帰ってくれるだろう。」などと思って仕方なくでしょう。それでイエス様の指示通りの場所に網を降ろしてみたのです。

 ところが、そうすると、ありえないほどのたくさんの魚が獲れたのです。

これまで体験したことのないような、網が破れそうなほどの大漁です。舟が2そうとも沈みそうになるほどでした。この体験をした直後のペテロの姿。それがこのみことばです。

ルカ5章8節
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」 

ペテロはなぜ、このように言ったのでしょうか。

それは、イエス様がすべてを見通す目を持っていると感じたからです。湖の底にいる魚の位置を正確に見抜くことができる力。それは、自分の心の奥底にある思いをも見抜く力だと彼は感じたのです。それゆえ彼は非常に恐くなったのでしょう。とても恥ずかしくなったのではないでしょうか。自分の心の中にある苦々しい思い、罪深い汚れた心。それらも全部この方には知られてしまう。

そう思ったから、ひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言ったのではないでしょうか。

教会は敷居が高いとも言われます。神様を礼拝する神聖な場所。堅苦しい立派なまじめな人が来る場所。私のような人間が行くところじゃないと思ってしまう。でも、これからイエス様の一番弟子となっていくペテロもそう思ったのです。

私のような者があなたのそばになんて、いられませんよ。私の心の中は汚いものでいっぱいです。恥ずかしすぎる。自分で自分が赦せない。とても近づけない。

 

以前、こういう事で悩んでおられる人がいました。自分は人と親しくなるのが怖いのです。親しくなると、その人がきっと自分を嫌いになり離れて行ってしまうんじゃないか。そう思う。自分に自信がない。自分の醜い心を知られてしまうと怖い。あるいは自分にはたいした面白み、魅力もないという事がわかって人が離れてしまうんじゃないか。

だったら最初から仲良くならなければ、嫌われて傷つくこともない。捨てられるという悲惨な経験もしないで済む。だから人とは仲良くならないようにしていると。

「なるほどな」と思いました。

でも、同時にこうも感じました。本当は親しくなりたいのだろうなと。

自分に失望されたり、捨てられたりして、傷つくのが怖いのであって、本当は愛され受け入れられ安心して生きることができたら、それほど良いことはないと感じているからこその発想だなと思ったのです。本当は醜い自分も、わがままな自分も、人を赦せない自分も、劣等感だらけの自分も、嫉妬してしまう自分も・・・そのままで受け入れて欲しい。

 

この方に限らず、私たちも心の深いところではそうなのではないでしょうか。

ペテロも本当は、こんなにとんでもなく罪深い自分でも、この素晴らしい方と一緒にいたいと思ったのではないでしょうか。でも己の罪深さを意識させられ、自分など到底近寄れないと思ったのです。このような聖なるお方の側に自分がいていいはずがないと。

けれど、イエス・キリストというお方は、そうではないのです。立派な正しい人ではなく、罪人を招くために来られた神の御子です。このような自己嫌悪、自分を受け入れられない者たちに、神がどれほど愛しておられるかを伝えるために来られたのです。

 私は学生時代に自分が嫌いで仕方がない時がありました。

高校時代、私が授業で発表する担当だったのに、私はそれを忘れていた。先生から今日は早坂が発表だな!と指されたとき、私は前の週に欠席した人の番だと言いました。あの人は欠席したからやっていません!と。そこで、先生はその人に聞き、準備しているか?と問いました。その人も準備していなかったのです。私は自分が準備していなかったのを逃れるために、他の人に振ってしまった。それなのに私は、友人たちに、あの人が発表しないまま終わったら、成績つけてもらえないから可愛そうだ!だからあの人の番だと先生に言ったと言い訳をしました。でも、本当は自分が忘れた事を逃れるために言ったわけです。かっこ悪い言い逃れです。自分が嫌いになった瞬間でした。大学時代には、イエス様を信じて歩み始めたものの、人と比べてばかりいる自分が嫌でした。クリスチャンが皆立派に見えて、その交わりの中にいても居場所がないと感じました。まだ聖書もよくわからず、クリスチャンとしての喜びもわからず、賛美も知らないものばかり・・・アウェー感。輪の中心にいられない自分が嫌でした。そんな時、クリスチャンは優しいので、気を遣ってもらって、あわれみで交わりに入れてもらったりする・・・もう余計嫌なわけです。

ある人からは嫌われていると思ったし、自分でも自分が嫌だ。そして、自分の醜い罪深い心を全部知っている神様はきっと私を疎ましく思い、ついにはいい加減愛想をつかしてしまうのではないか?聖書も読んでないし。変わらないし。

しかし、苦しくてすがるように聖書を開いた時、神様はみことばによって教えて下さいました。


神の永遠の愛

 

イザヤ書43章1-3節
1節 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。 
2節 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3節 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

 自分でさえもこんなやつ嫌だと思う自分です。それなのに神様は、わたしがあなたの名前を呼んでいるんだ!「あなたはわたしのもの」だとさえ語ってくれている。 水の中を過ぎようと火の中を歩こうと、神様が私を守って下さる。 なんで、私なんかをそんなに大事に思ってくれるんですか??

どんだけ心が広い神様なんですか?と圧倒されました。
このあと、4節では「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語られます。

 

 私がどんな歩みをしてきたのか。どんな汚い心で生きているのか。見えないところではどんな怠け者のずるい人間なのか。すべてを知っている神様。それなのに、熱烈な愛のメッセージが聖書には溢れている。

同じように、ヘブル人への手紙13:5では 

ヘブル13章5節
私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない

 このように語りかけて下さいました。

 私の醜い心の隅々まで知っているイエス様が

 私はあなたを絶対に離れない。捨てない。

 と言ってくださる・・・なんという愛の言葉だろうかと思いました。

 イエス・キリストの十字架の愛は、こんな私にさえもいつも変わることなく注がれているのだと知りました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」そう言わざるを得ないような自分中心の私たちではないでしょうか。

 しかし、イエス様はそのような者を愛し、その者のためにご自分のいのちまで与えて下さったのです。 イエス様は、あなたを招いておられます。こんな私でいいんですか?と思う私たちに、主はこう言われることでしょう。

「あなたのことは、あなたは以上に知っている。あなたが生まれるよりずっと前からあなたを知っている。そのわたしがあなたを愛し、あなたを捨てないと言うのだ。そのわたしがあなたの罪はもうわたしが取り去ったと言うのだ。わたしとともについて来なさい」

教会で咲いた花


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