*** 3/17(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ1章1-4節「愛の挨拶」
本日よりテサロニケ人への手紙から語られて参りたいと思います。
テサロニケ宣教
まず、テサロニケというのは、ギリシア北部の港町です。現代のカタカナ表記では「テッサロニキ」というのが一般的なようです。下記の地図を参照ください。
パウロの第二回目の伝道旅行の時に、ギリシア南部にあるアテネやコリントに行く前にこのテサロニケで伝道をし、そこで生まれ来た教会がありました。この手紙は、パウロたちがコリントに移動してから、テサロニケで新しく救われたクリスチャンたち(教会)に宛てて書かれた手紙です。
パウロたちが訪れた時の記録は使徒17章1-15節にあります。
テサロニケでパウロたちは3回の安息日を過ごし宣教しました。17章4節にあるようにある者たちは納得し、多くのギリシア人たちが信じました。一方で17章5節にあるように、ねたみにかられて、妨げるユダヤ人も起こりました。
使徒の働き17章4-5節
4節 彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。
5節 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。
そうやって彼らが暴動を起こしたので、パウロたちは夜のうちにベレアに移動することになりました(10節)。テサロニケのちょっと北です(地図を参照)。
しかし、そこでも暴動騒ぎが起こされ、結局パウロは海路でアテネへ(後にコリントへ)と移って行きます。さて、ある意味3週間程度という短い期間でテサロニケへの伝道がなされました。でも、その後彼らのことがどうしても気になりますよね。
そこでパウロはアテネに来てから、テモテを派遣しました。
Ⅰテサロニケ3章1-3節をご覧ください。そこにある苦難とは、ユダヤ人たちによる暴動、迫害でしょう。
Ⅰテサロニケ3章1-3節
1節 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、
2節 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、
3節 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
続く6節では、テモテが無事にテサロニケから帰還し、その報告を聞いてパウロが感謝したことが語られています。彼らが信仰を保って歩んでいることを聞いたからです。
ただ、キリストの再臨についての理解が足りず、彼らはそのことで心配し、地に足をつけて歩む生活が十分にできない者たちもいたようです。パウロはそうした状況を踏まえて、コリントに移ってから、この第一の手紙を書いたのです。
教会は誰のものか
Ⅰテサロニケ1章1節
パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。
ここにあるように、パウロ、シルワノ、テモテの3名がテサロニケでおもに伝道に携わりました。シルワノは別の個所では「シラス」と記され、同一人物です。
そして、あて先についてこう書かれています。「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」と。わずか3週間でしたし、まだ組織も十分でないような、救われて日が浅い者たちの集まりだったと思います。若い生まれたての教会です。それでもパウロたちは彼らの共同体を指して「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会」と呼びました。
存在を感謝する
そして、この手紙を読んでいくとわずか3週間の滞在でありながらも、パウロたちがテサロニケの兄姉たちのことを深く愛し、彼らを思い、いつも祈っていたことがわかります。
Ⅰテサロニケ1章2節
私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。
と語られています。
何よりもあなたがたすべてについて「いつも神様に感謝している」とのことばは、彼らの存在を喜ぶ祈りであり、愛のメッセージです。
何かをしてくれたことへの感謝ではないのです。宣教のために献金してくれて感謝とか、贈り物をくれたので感謝とか、手伝ってくれたので感謝というのではないのです。
「あなたがたのことを神様に感謝している」という存在を喜ぶ姿勢です。救われて良かったと喜び、その恵みを彼らが受けている、そんな素晴らしい神のみわざを見させていただけて神様に感謝しているのです。
日本の文化では何かをしてくれたことへの感謝というものがほとんどでしょう。むしろ、いただいたので感謝しなければならないとか、感謝をしなければ失礼といった発想でさえあります。それでいくと、ただで聖書を教えてもらい、時間と犠牲を払って導いてくれたパウロたちに対して、テサロニケのクリスチャンこそ感謝しなければならない立場でしょう。
ところが、パウロたちが救われた彼らのことを神様に感謝しているのです。
今週月曜日は神学校の卒業式に伺いました。当教会と関わりのある3名の神学生。彼らの卒業される姿をこの目で見て、新しい歩みの祝福を祈りました。それぞれに短く証しをし、コメントをするわけですが、それを聴きながら彼らの成長を感じることができ励まされました。
その時に、彼らの存在そのものを神様に感謝する気持ち、出会いを与えてくださった恵みに感謝しました。神学生にとって教会奉仕は研修の一環ですし、いくつか滞在するうちの一つに過ぎません。けれども、ただの研修ではなく、教会にとっても同じ主を信じる者の交わりであり、神の家族でありますから、彼らの存在自体に豊かに励まされ慰められたはずです。ですから、離れた地で歩み始めるとしても、彼らの存在を感謝しながら祈り続けていきたいと思わされますよね。
この喜びを私たちも神様と天使たちと共有し続けていきたいですよね。主が悲しまれることを私たちも悲しむように、主が大いに喜ばれることを私たちも喜びとしたいのです。
なぜ、そんなにも救われていることが喜ばしいのでしょうか。
励ましのことば
すぐに消えるむなしい物に生きる人生から、永遠に残る尊いことに歩む道に導かれたからです。
Ⅰテサロニケ1章3節
私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。
この3節の中に、いつまでも残るものが3つ登場しています。何でしょうか。
Ⅰコリント13:13では「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」と語られています。コリント人への手紙を書いたのもパウロです。ここでも順序は若干違うものの「信仰、希望、愛」といういつまでも残るものが語られています。
それにしても、パウロたちはテサロニケのクリスチャンたちが心配でした。
何せ若い。まだ赤ちゃんクリスチャンたちです。しかも十分な学びの時間が持てなかった。もちろん各自で聖書を学ぶことができます。それでも、心配です。特に妬みにかられたユダヤ人たちが暴動を起こしてまで邪魔していたのです。ですからテモテを派遣し様子を聞き、さらに手紙を送ることで彼らを励まし、彼らを教え導こうとしたのです。
Ⅰテサロニケ1章4節
神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。
昨日もほっとカフェでお話しました。私たちが愛されるはずがないとわめこうが、世界の造り主、この世界の主である神様が「わたしはあなたを愛している」と言われます。私たちは神様より賢いはずもなく偉くないのですから、全能者のこのことばを素直に受け入れましょう。私たちの言い分の方が正しいというのは高慢だからです。
そしてパウロは「あなたがたは神に選ばれている」と伝えました。
私たちは「神様を信じ受け入れる」という決断をします。それゆえに、私たちが選んだと誤解しがちです。しかし、私たちではなく主が、声をかけてくださったのでここにいます。触れる機会をくださったので、教え導いてくれる人と出会わせてくれたので、教会や聖書と出会わせてくれたので。