東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書43章5-13節 「神が選んだ証し人」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/03/22

イザヤ書43章5-13節 「神が選んだ証し人」

*** 3/21(日)主日礼拝 説教概略 ***

イザヤ書43章5-13節「神が選んだ証し人」

 今日は、台湾からの留学生が証しをしてくださいました。日本に思いをもってこうして導かれて来てくださった。挫折を味わったり、道が閉ざされたりする経験。でも、その挫折や閉ざされる経験が、実は神様の備えておられるより良い道への備えだったと教えられました。神様が選び、この交わりへと遣わしてくださったのだと改めて励まされました。


 同じ神様を信じて、神様のすばらしさを証しする者として共に励まし合って歩みたいですね。私たちは今ここに、偶然たまたまいるわけではありません。そして、全員が同じ方法で救われたわけでもありません。一人一人に、神様がふさわしい方法で声をかけ選んでくださり、山あり谷ありの過程を通ってここにいます。
 
 神様が召してくださった。選んでくださった以上、そこには尊い目的、意味があります。皆さんの存在が神様の豊かなご計画のうちに必要なのです。そこに大切な役割があります。

今、オンラインで参加されている方々もいます。病のゆえに、仕事柄のゆえに、色々な事情です。その人たちもまた、神様が必要だと召してくださっている。欠けていい者など、誰一人いない。神様の選びに無駄な部分などありません。

神に選ばれ召された者として、同じチームの一員として、神を証しするという使命を一緒に担って参りましょう。コロナ下でありますが、だからこそ、私たちキリスト者を通して、私たちの中に生きて働かれる主を人々にお見せしましょう。


神の創造の目的

 

イザヤ書43章5節
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ・・・

私たちは聖書を開くときに、このフレーズを何度も目にすることができます。神様は繰り返し、恐れるなと励まし、その根拠として「わたしがともにいるからだ」と言ってくださいます。これはいつでも祈りの答えでもあります。「こうして欲しい」「ああして欲しい」という願い求めに対して、主の答えは「大丈夫、恐れなくて良い、わたしがともにいるのだ。わたしが道である」と答えてくださいます。主の臨在がともにあることにまさるものはないのです。

今日与えられているみことばも、この励ましのことばを心の土台にまず据えた上で聞いて参りたいと思います。そして、7節にこうあります。

イザヤ書43章7節
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。

 私たちは何のために造られたのでしょうか。何のためにこの世界、この時代に生まれ、今なお生かされているのでしょうか。すぐに消えるむなしい人生を送るためでしょうか。何の目的も意味もないのでしょうか?

 いいえ、永遠の神の栄光のために造られたのです。神と共に幸いなる日々を歩み、それを通して神の栄光を豊かに現わしていくためです。創世記によれば、驚くべきことに!神は人をご自身に似せて「神のかたち」に造られたとあります。神の分身のように似せていただいたのは、神の栄光を現す器、神の国の大使とされているということです。

そしてここでは特に「わたしの名で呼ばれるすべての者」とあるように、神の民として歩むようになる時に、キリスト者と呼ばれる者となるならば、本来の神の創造の目的を現わして生きていけるようになります。そのようにそもそもデザインされているのです。



神を求めない民

 
ところが、こんな風に言っていただけるほどイスラエルの民は正しかったわけではありませんでした。8節にこうあります。

イザヤ書43章8節
目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。

せっかく神様が目を与えてくださったのに、真理を見ようとしない。耳を与えてくださったのに聞こうとしない。イスラエルの民は、神様の数々のみわざをその目で見る機会があったし、預言者を通してみことばを聴く機会も多かった。それなのに真理が見えず、聞こえなくなってしまっていました。非常に残念な姿です。

少し前の4219-20節には、より詳しくこのように語られています。 
イザヤ書42章19-20節
わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、主のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。

見ているのに心を留めない。これほど残念なことがあるでしょうか。「うわの空」という言葉がありますよね。スマホをしている旦那さんに、奥さんが声をかけ「うん、うん」と返事をしているのに、まるで記憶に残っていない。ゲームをしている子どもたち、返事すらない。見ていながら学ばない、聞いていながら心に留めない。これでは神様の恵みを味わうことはできませんよね。

私は研修生だった時、研修先の先生に最初に言われました。あまり多くを教えないので自分から見て学んでくださいと。「え?」と思いました。その意図は、学ぶ姿勢さえ持っていれば、横で見ているだけでも多くを学べるということ。逆にこの姿勢なしでは身に付きませんよね。大事なことです。

イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われました。探し求める心を持って、神様のすぐ横で、イエス様のすぐ横で見て聞いて学べば、驚くほどの恵みを知ることができるのです。見ているようで見ていない。聴いているようで聴いていない。この姿勢にこそ、最大の問題があるということです。



欠けだらけの器

 このようにボーっとしている民であるのに、それでもこの弱い欠けだらけの器を選び、神を知るようにされ、信じられるようにされ、悟るようにしてくださいました。それゆえ神様はこう言われます。

箴言21章25-26節
あなたがたはわたしの証人、──主のことば──わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。

神を信じる民は、神の臨在を実体験した「証人」です。神様が彼らにゆだねよう!と選んだ「神のしもべ」です。罪を犯すことも足りないことも知った上で、なお選ばれた。今日証をしてくださった兄弟も主が選んで、日本に遣わしてくださった証人です。留学に関わる一切において神様の助けと導きがあったことを私たちは知りました。

Ⅰペテロ2:9-10では、信じた者たちに向けてこのように神の召しが語られています。

Ⅰペテロ2章9-10節
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

 以前は神の民でなかった者が、闇の中から救われました。この方の栄光を人々に告げるために。私たちも神の民とされました。伝えるべき栄光を見たのです。伝えるべき福音を預けられました。こんなに嬉しい名誉なことはありません。

あなたには伝えたいものがありますか?と問われたら「あります」と即答できるのです。

 

選ばれた者に聞かせる恵みと真理

 イザヤ書43章に戻ります。

イザヤ書43章11-13節
11-13節 わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。12節 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はいなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。──主のことば──わたしが神だ。 13節 これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。」

 ここでも繰り返し「あなたがたはわたしの証人」だと確認されます。

12節ではこのわたしが「告げ、救い、聞かせた」とあります。何よりも最初に「神様が告げてくださった」。偶像の神々は物を言うことができません。自分からこの世界の真理を明確に告げることができません。しかし、聖書の神は歴史の中で民に語り、聖書が神のことばである証明として、すべて預言が成就してきたのです。全世界でギネス記録を更新し続けるベストセラーであり、最も多くの言語に翻訳されてきました。まず神が告げてくださるので人は神を信じることができます。 

神が先に語り、知る機会を私たちに与えられたのです。ですから、私たちが選んだように思えても、神の主権の下で私たちは知るようにされ救っていただいたのだと言えます。

 「告げる」の次は「救い」で、最後に「聞かせた」となっています。この順番・・・

告げ、聞かせ、救った・・の方がスッキリしそうに思えます。

しかし、ここで意図されていることはもう少し深いものであるように思うのです。原語では単語ごとにカンマで区切られ、この順番が意識されています。

告げて救われた者に、聞かせるということです。最後の「聞かせる」はより深い恵みを聞かせ、従うように召してくださいます。この「聞かせる」ということばは「シェマー」ということばで、それはボーっと聞くのではなく、「聞き従う」という意味のことばです。

イエス様を信じたクリスチャンはまさに、その経験をします。救われた者だからこそ分かるようにされる真理と恵みがあります。信じて神の御霊を受けるからこそ、神のご自身のことを深く心に聞かせていただけるのです。

 そして神様は繰り返し「わたしが神だ」とおっしゃいます。まことの生ける神、唯一の神様で、これから後もそれは変わらないとおっしゃいます。ですから誰もこの方の手から信じた者を奪い取れる者はいないのです。安心しましょう!悪魔にさえその力はない!

聖書では救いのことばの一つとして「贖う」ということばが登場します。贖うとは「買い取る、買い戻す」という意味です。神様が造られた神様のものであった私たち人間が、罪によって神様から離れ悪魔の支配の中に囚われました。しかし、神様が私たちを買い戻そうとされたのです。そのために払われた代価が、神の子イエス・キリストのいのちです。悪魔の支配、罪の支配に置かれた私たちのために、神様が御子のいのちを代価して払い、私たちを買い戻してくださった。そしてもう二度と、他の誰の手に渡ることもありません。13節にあるようにもうこれ以上「わたしの手から救い出せる者はいない」のです。キリストによる救い以上のものはないからです。最高の価値である御子を代価にしましたから。最高の救いにあずかりましたから。どんな大金を積もうとも神様の手から、私たちを引き離すことは誰にもできません。

 このようにして神様に召しだされた私たちなのです。語られ、救われて、今神の御声を深く理解し、創造の目的を受け止める者となった私たちです。神に贖われ、もう誰にも買われることのない神のものとされた私たちです。主の証人とされている事を喜び、神の栄光を現す者とされていきましょう。




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