*** 4/14(日)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ2章1-6節「神に喜んでいただくために」
私たちはどんな動機で教会に来ているでしょうか?
どんな動機で聖書を読むでしょうか?
どんな動機で奉仕をしているでしょうか?
どんな動機で福音を伝えるでしょうか?
最初は自分が「恵まれるため」、「自身の益となるように」という思いが中心かも知れません。でも、その動機だけならば、そう思えない時には「切り捨てる」ということも生まれます。恵まれない時は来る意味、する意味を見出せなくなり、大変なことがあれば、ついには「もう、やめよう」となるでしょう。
ところが、神様を知ると私たちの動機に変化が生まれます。これまでは自分のため、誰かの笑顔のため・・・という動機が多かったとしても、神様を知ると神様に喜ばれる道は何かという考えが与えられます。
神様が喜ばれるから忙しくても聖書を読もう。神様が歓迎し喜んでくださるから、誰かに反対されても教会に通おう。人に拒まれることがあっても、神様が良いことだと言って喜んでくださるから、イエス様の愛を表わそう。このようにブレない歩みが始まります。
そして、神様が喜ばれる道とは、愛に満ち、誠実で忠実、正しい良いものです。それは結果的に人にとっても最善のものとなります。なぜなら、神様がまったき愛の方、良いお方だからです。
神様に喜ばれる道を選べば、人間にとっては最も幸せな道になります。不正がなく、愛の動機からのものとなり、幸せを願うものとなります。 何をするにも「神様に喜んでいただくために」、そのところを土台にして歩みたいものです。
神に勇気づけられ
Ⅰテサロニケ2章1-2節
1 兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。2 それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。
パウロたちのマケドニア地域の宣教は、苦難を伴うものでした。
2節にあるようにピリピでは、パウロたちはとても痛い目にあったのです。ひとりの占い師の女性から悪霊を追い出したことで、彼女は占いができなくなり、この女性の主人たちが金儲けできなくなったことで怒りました。それでパウロとシラスを捕らえ、ムチで打って、牢屋に入れるように働きかけたのです。イエス様のような苦しみを通ったわけです。
そういう辛い経験をしたならば、誰でも怖くなりますよね。気持ちが折れそうになる可能性もあったのです。しかし、2節にあるように「神によって勇気づけられて」、テサロニケにも渡って、激しい苦闘だったにも関わらず、神の福音を語り続けることができたのです。
そして、その働きは1節にあるように「無駄になりませんでした」。なぜなら、妨げがあったにも関わらず、テサロニケの人々がイエス様を信じて、そこに教会が生まれたからです。ここから分かるように、私たちの働きが続けられるためには「神によって勇気づけられる」必要があります。
思うように実を結ばない時もあります。せっかく求道されていた方が来られなくなることもあります。私たちが自分の内側から力を振り絞ろうとする時、私たちは枯渇してしまうでしょう。特に宣教の働きが進められる時は、悪魔も黙っていません。様々な困難をもって妨げようとするでしょう。人々の罪深い心を用いて私たちの心が折れるようにします。
結局そこで私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのは主ご自身ではないでしょうか。
コロナウイルスの問題は、多くの教会、多くのキリスト者を疲弊させました。伝道などできないのでは?と思いこませました。集まれない、近くで話せない、飲み食いできない、どうやって伝道するのか?と・・・
でも、主はみことばから「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない。」とお示しくださいました。このような中でも求道される方、求める方を起こし、励ましてくださいました。インターネット礼拝もやむを得ず始めたものでしたが、主はそれも用いて未信者の方に語り掛けてくださいました。イエス様を信じるように導かれる方が次々起こされているのも主の励ましです。
神の権威において
続く3節を読むと、その背景に、やはり宣教を妨げる者たちの存在があったことを伺わせます。
Ⅰテサロニケ2章3節
私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。
Ⅰテサロニケ2章4節
むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。
神に喜んでいただくために
そしてその動機の本質は人を喜ばせる動機ではなく、神に喜んでいただこうとして語っているという主張に現れています。もし、神様に喜んでいただく動機ならば、誰にも認められなくても、誰にも感謝されなくてもいいのではないでしょうか。案外ここが難しく、やはり人から評価されたい。良く思われたいというのが私たちですよね。
Ⅰテサロニケ2章5-6節
あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。
「へつらいのことば」とは、利益を得る動機でなすもので、ごますりやお世辞とも言えるでしょう。相手の顔色をうかがうものです。これでは人を救いに導くことはできません。誰にも悔い改めを真剣に求めることが難しいでしょう。
「貪りの口実」もパウロ用いませんでした。心を見られる神様がそのことの証人であるとも言います。パウロがここまではっきり言えたのはすごいことですが、葛藤のうちに祈りながらそのように導かれてきたのでしょう。