東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: レビ記26章1-2節「わたしは、あなたの神」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/19

レビ記26章1-2節「わたしは、あなたの神」

 *** 4/18(日)主日礼拝 説教概略 ***

皆さんの日々の歩みいかがですか?
新年度が始まり、新しい環境になったり、新しい人との出会いがあったり、何かと期待をしつつもやはり緊張の多い季節です。まだ消化できず、なんとか毎日を乗り越えている。そんな方もいらっしゃるかも知れません。

忙しい時、目の前の状況をどうにか乗り切ろうと言う時ですよね。


だからこそ、わたしはここにいるとおっしゃる神様に目を向けたいのです。神様は、他の誰でもない「あなたの神である」とおっしゃいます。ちゃんとわたしを見て歩みなさい。わたしと共に歩んでくださいと主は愛のメッセージをくださるのです。

目の前の出来事に心を奪われがちです。でもその出来事の前に、主が両手を広げてわたしがここにいますと語り掛けておられることを忘れないで歩みたいものです。忙しくて疲れているその肩に手をかけ、抱きしめてくださり、わたしのもとでゆっくりせよと言われる御声を聞きたいのです。

 少し先の11-12節を御覧ください。

レビ記26章11-12節
11節 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。
12節 わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 

こんなにハッキリと神様は愛のことばをくださっているではないですか?

「わたしは遠く離れて、他人事のようにあなたを見ている神ではない」と言われます。あなたがたのただ中に住まいを建てる!と。あなたがたの問題だらけ、罪まみれの厳しい戦いの日々。その生活のただ中に、一緒に住み、一緒に歩むと言われます。

そして「どんな時でもあなたがたを嫌って退けることをしない」と断言されます。神様がどれほど神の民に好意を抱いておられるかがわかりますよね。こんなにも主が語りかけておられるのに、皆さんはこの声を聞いて過ごしているでしょうか?それともこの世の色々な声に心をさわがせ、流され、いつの間にか主にある平安など、どこかに吹き飛んでいないでしょうか?

いつでも全知全能の神様の方から来てくださってすぐ隣に、すぐ目の前におられます。
いや、12節を味わうとそれ以上の親しい距離の親密さを主が求めておられることに気づきます。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。もはや、大親友に語ることば、いや、一心同体となった夫婦のような親しい交わりを求めてくださる主です。


この豊かなご愛の中に留まりましょう。1節をご覧ください。ここに、私たちと神様の親密な交わりを妨げるものへの注意がなされています。 

 21章25-26節
1節 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために彫像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。

 偶像を造って拝んでもならないとありますが「偶像」って何しょうね?その意味としては「むなしい価値なきもの」といった意味があります。むなしい価値のないもの命なきものを神様の代わりにしてはいけないと言うのです。当然ですよね。そしてまた、偶像を現す言葉には「不足、欠乏」という意味もあります。偶像には力がなく色々と足りてないのです。なぜ、偶像を造ることが禁じられているかと言ったら、このように本当の神様の姿を貶めて小さくし、本物の神様から人を遠ざけてしまう行為だからです。ただ、私たちはあまり偶像を作ろうとか、拝みたいという誘惑がありません。じゃあ、大丈夫なのでしょうか?そうではありません。偶像礼拝には、もっと本質的な問題があります。

偶像礼拝というのは、本質的にはあなたの心においてまことの神様が座るべき王座に、代わりの何かを座らせていることを指します。神様よりお金が王座に座っていることもあれば、神様より趣味や恋人が心の王座に座っている場合もあるし、名誉や欲しい物が王座に座っているかも知れません。1節のみことばで繰り返されていることばがありますよね。「自分のために」ということばです。「自分のため」に生きると自分の欲しい物を偶像にしてしまいます。神様が喜ばれることよりも「自分の安心」を何よりも最優先する場合もあります。人の評価を神とする人もいます。他の人に神の愛を表わすことや、イエス様を証して救いに役立つことをするよりも、人との摩擦を最大限に減らし「付き合いのいい奴」と思われ歓迎されることを大事にするといった事です。ある音楽家の女性は、両親に認められることを偶像としていました。彼女の両親は有名な音楽家で、彼女に大きな期待を寄せ、世界でトップレベルになって欲しいと願いました。でも、彼女にはそこまでの才能はありませんでした。両親を失望させ続けることへの恐れがありました。両親に認められることこそ、彼女の神、彼女の最優先事項。それで彼女は心の病になり、自殺願望に悩みました。けれど、彼女は音楽家として成功する道でなく、神の救いという恵みの道に導かれたのです。彼女は「両親にたとえ見放されても、その時は主が私を取り上げてくださる」と信じることができました。この事の故に、彼女は両親からの承認欲求から徐々に解放されるようになったのです。私たちが思い出すべきことは「主が喜ばれることは何か」という視点です。すると、主が望んでおられるのはあなたの成功ではなく、あなた自身なのだと気づかされるのです。あなたの手がささげた立派な贈り物ではなく、あなたの心親しくつながっていることこそ、主の願い求めなのです。偶像は偽物と仲良くさせる道です。本物の主と心を通わせる歩みをさせていただきましょう。

続く2節でも、妨げから守られて神様を愛する方法が示されています。

レビ記26章2節
2節 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

2節を読んでふと気づかされることがあります。1節では「自分のために」2回繰り返されていましたよね?でも、この2節はどうでしょう?

今度は「わたしの安息日」「わたしの聖所」と神様が「わたしのもの」を大事にしたらいいよと強調されていますよね。人が「自分のために」という思いに囚われると、必ずつまずきが起こります。新しい環境、新しい交わりの中で自分のことでイッパイになると、神様が見えなくなるということです。「自分のためにどうするか?」・・・ではなく、主のお心は何かをいつも心に持っていましょう。神様はあなたの幸せも、あなたの周囲の人々の幸せも、あなた以上にはるかによくご存じだからです。

これが私たちの毎日が守られ祝される最高の秘訣です。

 神様の安息日を守るよう再確認されています。
 それは、皆さんが主の励ましを十分にいただきながら「行ってきます」と新しい1週間へと歩み出す拠点であり、同時に、この世の戦いから疲れて帰って来て「おかえり、1週間よく頑張ってきたね」と神様が労ってくださる安息日なのです。

 礼拝で神様ご自身が仕え慰め、心をリセットしてくださる時です。帰ってくるべき居場所があり、送り出される家がある。どんなにこの世の戦いが激しくても必ず日曜日が来ます。この日は誰が何を言おうと、この世界の造り主が定めた安息の日。ここから始まり、ここに帰って来られる。ここは安全地帯なのです。

 「わたしの聖所を恐れなければならない」ともあります。それは日々の生活において主を中心に据えて歩むということです。イスラエルの民は神の臨在の幕屋=聖所を中心に置き、その周囲を囲むように部族ごとに集落を築いていました。

必ず神様の臨在の幕屋が民の真ん中にあるのです。ですから聖所を恐れるとは、聖なる神様をいつも自分たちの生活の中心に据えて恐れ敬うということです。安息日には聖なる神礼拝のうちに癒され、憩い、励まされて新しい週に臨む。毎日の日々においても主の臨在を生活の真ん中に覚えながら、主とともに日々歩んで行く。このようにして、「わたしがあなたの神、主である」ということばが実現するように歩んで参りたいのです。

黙示録21章にこの歩みの完成図があります(最初に読んだレビ記26:11-12と対比して読むと良いと思います)。

黙示録21章3-4節
3節 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 
4節 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

確かに私たちはこの完成にはまだ至っていません。
しかし、レビ記の記事はこのひな形、予型であると言えます。

そして今現在においても、この未来の完成図の前味に触れながら歩めるのです。完全ではないにしても、私たちは確かに、目の涙をぬぐってくださる主の優しさを感じ、死からの恐怖から守られ、悲しみや叫びも苦しみも共に通ってくださる主の同伴のうちに、歩めるのです。




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