東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 心のケアと人間関係「バウンダリーの確立」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/04/21

心のケアと人間関係「バウンダリーの確立」

*** 4/20(火)ほっとカフェ メッセージ ***

心のケアと人間関係「バウンダリーの確立」

 以前、車で追突事故にあったことがあり、いわゆるムチウチの症状が出ました。その際に接骨院に通い、マッサージで体をほぐしていただいていました。その時のマッサージの先生が、マッサージにも2種類あると話されました。1つは即効性のあるマッサージ。やってもらっているその時に気持ちいい。でもしばらくすると、また肩こりなどに悩まされる。

 もう1つは、マッサージの時は深くツボを押されて痛い。けれども、後々体が楽になって行く。長期的に良くしていくもの。


 今日学ぶ「バウンダリー」は、今の例で言うとどちらかと言うと後者の方です。話を聞いたその瞬間にほっとした、いやされたというものではないと思います。むしろ胸に痛いと思うところもあるかも知れません。

 けれども、長い目で見ていく時に、皆さんの人間関係の中でこの理解が浸透してくると楽になって行くものです。より良い関係を築くことが出来、皆さんの心も守られていく知恵であると思います。皆さんと関わる人々にとっても恵みをもたらし、益となって行きます。

 そんな前提を知った上で、耳を傾けていただけるといいかなと思います。

 
序.バウンダリーとは何か?
 
 では「バウンダリー」とはそもそも何なのでしょうか。
 
 日本語では「境界線」と訳せますが、土地の境界線をイメージすると分かりやすいでしょう。この線からそっちは他人の家、線より内側は自分の家。この境界線が見えないとか、「あやふや」だとトラブルの原因になりますよね? 

 実はこれは、人間関係でも同じで境界線が曖昧なことによって、トラブルが続出したり、傷ついてしまったり、疲れてしまったりします。

 簡単に言うと、これをきちんと確立していくことが、バウンダリーの学びということになります。それは別の言い方をすると「責任範囲を明確にする」ということでもあります。ここまでは私の責任。でも、ここからは私が負うべき責任ではないといった感じです。

 



1.神様との境界線を確立する

 
 最初に必要な境界線は「神と人との間の境界線」です。
 この世界には人間の理解をはるかに超えた、人間には到底及ばない方が存在するということを明確に知って、人が有限の存在、神の前に謙虚に生きるべきであることを知る必要があります。

 私たちは神のようにはできない存在であることを知る必要があります。
 そこには創造者と被造物、無限と有限といった圧倒的な違いがあります。
「できること」と「できないこと」があることを知るのです。

イザヤ29章16節
ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

神の存在を認めることによって、そもそもできないことなのに悔んだり責めたりしてしまうことから守られていきます。例えば、完璧主義的な傾向の人がいらっしゃいます。

実は、私もそういうところがありました。例えば、宿題を忘れないようにするとか、提出期限を厳守するとか、どんなに忙しくても良いレポートを提出するとか。

ところが、本当に忙しくなったり、体調が悪くなったりするとできないことがあるわけです。神様には忙しくてできないとか、体調不良でできないということはありません。でも、人間はできないことがあって当然です。それなのに、思うようにできないと、自分をひどく責めてしまい落ち込んでしまうことがありました。

なぜ、落ち込み責めたのでしょうか?

「できるはずだ」と思っているからです。それは「万能感」と言うもので、自分がいつでもどんな状況でも「できるはず」と思い込んでいる「勘違い」を指します。でも、人はそんなにできやしないのです。なんでもかんでも自分を責める傾向にある人は、この「万能感」が強いと言えます。

万能感とは、自分をどこかで神のように考えてしまう傾向と言えるかも知れません

私がいなかったからこうなった。私がこうしなかったから、こうなった。私のせいで失敗した。私が休んだらもう大変だ。何でも自分と絡めて考えてしまいます。

しかし、これらは思い違いです。

伝道者の書7章13節
神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。

世界はそんなに私たちに依存していないのです。そんなに影響力がないのです。自分が休んだら教会がまわらない。自分が休んだら仕事がまわらない。そんなことはないのです。

昔私たち家族が3週間お休みをいただいて、カナダに行っていた時。教会は大丈夫かと心配になりましたが、私たちがいる時より人が多く来ていました!「あれれ?」と思いました。

「ああ、私じゃないのですね、主よ」と思わされる出来事でした。

いないならいないで、他の人が活躍し、みんなが助け合う思いが生まれ、案外成長したりすることもあるものです。

まずは、神様を知り、自分はただの人なのだ。

神ではないのだという所に立ちましょう。

そこに立つなら、人をさばくことからも解放されていきます。人をさばけるのは神様だけですから。一つもミスをしない、体調不良も間違いもない方。でも、私たちは誰でも必ずミスをし、休むこともあり、勘違いもあるし、遅刻もある、忘れることもあるのです。

伝道者の書7章16節
あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか

 人間の知恵や努力ではどうにも及ばない神の領域があることを知り、受け入れていくこと。引き受けていくこと。これは私にできることです。

 

2.人間関係におけるバウンダリー(境界線)

 
 少しずつ自分と人との境界線を明確にしていくということです。バウンダリーの大切な機能として、良いものを許可し悪いものをシャットアウトする機能があります

 インターホンで、相手が不要な営業だったらお断りする。でも、お客さんや自分が必要とするものならお招きするということあります。バウンダリーの確立した成熟した方は、こういうことができます。 

 ところが大きな課題は、どうやって健全な境界線を確立するかということです。なにせ、色々な声に影響を受けるわけですから、様々なご意見を聞き続ければブレてばかりになりがちです。以下の聖書のみことばからヒントを得ましょう。

ヨハネの福音書10章3、8節
3節 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます
8節 わたしの前に来た者たちみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした

 迷える羊である私たちは、羊泥棒や強盗の言うことではなく、羊を愛してくれている羊飼いの声を聞き分けましょう。神様の声、神のみことばによってこのバウンダリーを確立することができればホントに安心ですね。いつでも聖書に帰れば確認できますから。

たとえば・・・次のように言われても、境界線を神様によっていただくと、赤字のように応答できます。

A:あなたに全く価値のないダメ人間だ!

B:神様が「あなたは高価で尊い」「わたしの作品だ」とおっしゃっている。イエス様は私のためにいのちまで捨ててくださった。自分に価値がないなんてイエス様に失礼だ。

A:あなたには何の才能もない!

B:神様はひとりひとりに賜物を与えておられる。イエス様のたとえ話でも「0タラント」のしもべはいなかった。最低でも1(=6000万円ぐらい)!

A:じゃあ、その賜物とやらで自己実現をし目立ち、ちやほやされればいいじゃないか?

B:いや、賜物は自分の名誉のためではなく、お互いの益となるために与えられていると聖書にある。自分のためにすることはむなしいので、いつまでも残る愛の動機で他の人のため、神様の栄光のために用います!

 世界の造り主である神様の声に聞いて、健全な境界線を確立していきましょう。
 
 続いて、境界線の確立において重要となる「ノー」を言えること、「ノー」を受け入れることについて以下で少し学んでみましょう。


3.人間関係が改善する「ノー」の理解

 
(1)「ノー」を言えること

 私たちは自分の心にウソをついて生きると、神の摂理に反しているので病気にもなります。それはあるべき姿から離れているので弱り疲れ果てていきます。ですから「ノー」を上手に言えるように学べたらいいですよね。「YES」だけなんてことはあり得ないですから。

「ノー」が言いにくい理由は何でしょう?率直に嫌われたくないからです。

 嫌われたらどうしよう。見捨てられたらどうしようとの思いが根底にあるのです。

 とすると「恐れ」や「不安」が自分の回答の土台になっているということです。

 しかし、神様と出会う時に、その動機が変えられて行くのです。神様が私たちをどんな時でも見捨てないと約束されていること、どんなに人が批判してこようと、神様は私たちの味方であること。この確信の中で、人を嫌われることを極度に恐れることから解放されていきます。

 恐れや不安から応答していたものが、愛からの応答へと変わります。

Ⅰヨハネ4章18節
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

 相手にとっても「脅し」が通用しないと伝えられることは大切です。
 相手を愛するならばこそ、正直にノーを伝える勇気が大切になります。

 
 例えば、親子関係を例にとって考えてみましょう。
 子どもが夕方5時までに帰ることになっている。ところが、もっと遅くまで遊びたいので駄々をこねました。「約束だから」とお母さんが言っても「お母さんはぼくが友達に嫌われてもいいんだね!みんなまだ遊んでるのにぼくだけ帰らなきゃいけないんだよ!もうお母さんなんて大嫌い!」そう言われて、子どもに嫌われたくないために「じゃあ、しょうがないわね」と譲ってしまう。

 でも、それは子どものためになるのでしょうか?

 その子を愛する動機からの行動でしょうか?

 嫌われたくないから・・・という動機ですよね。

 残念ながら、子どもにとっても不幸な結果になります。「許可してくれないなら、嫌いになるぞ!」と脅せば、自分の思い通りになると学習させてしまうことになります。
 
 ある意味脅せば、コントロールできると学んでしまいます。

 こうしてワガママな子が出来上がります。

 もしかすると大人になってからも、友人に対し、あるいは結婚した伴侶に対し、そして自分の子に対してもそれをしてしまうかも知れません。
 
 子どもの頃に、そんな脅しで自分のわがままを通してはいけない!人を力で支配してはいけない!と学ばせてあげることこそ、親の本当の愛です。

 ただし、これは恐れていたらできないことです。子どもにムカつかれても、愛するからこそ「約束は守りなさい」と伝えるべきです。そして、本当にその約束が不当だと言うなら、改めてちゃんと話し合いましょうとして、後に冷静に話し合えばいいことです。

 

(2)「ノー」を受け入れること

 それは「ノー」を言わせてあげることでもあります。日本の社会は特に、ノーを言わせない社会になりつつあります。これは反対意見を前向きに受け取る姿勢であり、相手にも都合や違う考えがあることを尊重する「愛」です。

 例えば、職場で上司は部下を指導しないといけないでしょう。部下が間違っていれば、「それはちょっと違うので、このように修正してもらえますか」と言います。しかし、ノーを受け入れられないと、上司に自分自身を否定されたと落ち込み、また何度かそういうことがあると職場をやめてしまう人もいます。職業を転々としてしまう人の中には、ノーを受け入れられない人が多くいるとも言われます。

叱られたり、間違いを指導されたりすると「自分自身が否定された」と思い込んでしまうのです。しかし、境界線を明確にしていれば、自分の人格ではなく、自分の出した報告に誤りがあったのだとか、やり方が分かっていなかっただけなのだと受け入れられます。

何かを頼んだけれど「それは苦手なので他の方にお願いします」と断られたとします。
バウンダリーの確立されていない人は、このように断られただけで傷つきます。断られたのは、その人にとって、「頼まれた内容が苦手だから」であって、頼んだ人の人格を拒んだわけでもなんでもないのにです。

 間違いを指摘されたり、改善提案を出されたりすると、反射的に反論や言い訳をし、あるいは攻撃的になってしまうケースもありますね。

 ぜひ、そこで深呼吸して神様に祈り、心を穏やかにさせていただきましょう。
 
 そして「ふむ、なるほど、それも一理ありますね」という姿勢を意識できるといいですね。

 神を知り、神様のみことばから自分は何者かを知り・・・バウンダリーを少しずつ確かなものにさせていただきましょう。自立した者同士の健全な交わりを築けると、お互いに良い関係の中で心穏やかに過ごせることでしょう。



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