東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ2章7-12節「母のように、父のように」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/22

Ⅰテサロニケ2章7-12節「母のように、父のように」

*** 4/21(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰテサロニケ27-12節「母のように、父のように」

 なんだかんだ言って、親の子に対する愛はこの世界においても最も尊いものの一つでしょう。自分の身を犠牲にしながら、時間をささげながら、子の幸いを願って関わります。ここでは、パウロがテサロニケのクリスチャンたちにとって、まるで母親のように、あるいは父親のように、クリスチャンとして生まれたばかりの彼らを愛し慈しみながら育てようとしていることが語られています。パウロたちの愛の宣教の姿勢について、神様が教えてくださいます。主のみことばに聞いて参りましょう。



1.全人格的な福音宣教


Ⅰテサロニケ2章7-8節
7節 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、
8節 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 8節で「神の福音だけでなく」とあります。
 1章においても語られていたことですが、5節では福音がことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴ってテサロニケの人々に届けられたということがありました。同じく18節では、パウロたちの宣教によって救われたテサロニケのクリスチャンたちを指して、主のことばだけでなく、あなたがたの信仰が人々に伝わったとも語られています。

 いずれも宣教の姿勢が、福音のことばだけを切り取って伝えられたものではなかったことを示しています。

 そして、この28節でパウロは神の福音のことばだけでなく、自分のいのちまでも喜んで与えたいとさえ思っていると語られます。

 パウロの宣教が、単に人をことばで説得する知的なものではなく、魂や霊的な部分に届いていこうとする全人格的なものであったとわかるのです。

 聖書宣教会(神学校)で学びをさせていただいた折、当時の会長(校長)であった舟木信先生は、ここは知的な学びの場ではなく、全人格的な学びの場であると繰り返しおっしゃっていました。私の心には舟木信先生のこのことばが強く残っています。

 そもそも神の福音は、ことばだけの教えではなく、私たちの人生全体、人格全体を新しくする神の救いの力です。ですから、教えを暗記して、それをそのまま伝えるような機械的なものではなく、パウロが言うようにいのちまでをも与えようとする愛のわざであり、まさに人と人の人格的な交わりの中で伝えられていくべきものなのです。


2.母のように


 このパウロが言うように「いのちまでも喜んで与える」かのような愛の交わりの中で福音が伝えられる必要があります。パウロはそれを母親のような深い大きな愛で、あなたがたを愛していると言うのです。母のように愛する愛です。

ヨハネ15章13節
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛をだれも持っていません。

 小説家三浦綾子さんを救いに導くために、まさに自身の人生といのちを注いだ方がいらっしゃいます。前川正さんというクリスチャン青年でした。彼は自身肺結核を患いながら、同じく肺結核と脊椎カリエスという病のゆえに自暴自棄になっていた綾子さんに福音を伝え続けました。

 彼の思いはなかなか彼女に届かず、肺の病なのに目の前で煙草を吸い出す綾子さんを見て、前川さんはそこに落ちていた小石を拾い、自分の足を石で打ち始めたそうです。さすがに慌てて止める綾子さんに、前川さんは言いました。

「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」 

 前川さんは、綾子さんを救うことができない自分をふがいないと思ってこうしたのです。綾子さんはその姿を見ながら、「いつの間にか私は泣いていた」と綴っています。前川さんの献身的な姿勢、命をも惜しまないと言う愛に心を動かされていったのです。

 考えてみれば、前川さん自身、肺結核で自暴自棄になってもおかしくない状況です。自分も見舞われ、元気づけてもらいたい側ではないでしょうか。しかし、自分のことよりも、綾子さんのいやしと救いのために自分の身を削るようにして、彼女のためにささげていたわけです。本当に母親のような犠牲的な愛で、彼が綾子さんに関わっていたことが分かります。

 9-10節を御覧ください。

Ⅰテサロニケ2章9-10節
兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。 
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたの証人であり、神もまた証人です。

ここでもパウロは、テサロニケの人々のために喜んで労苦や辛苦を耐え忍んだことを確認しています。パウロたちはお金や名誉を得るためではなく、昼も夜も仕事さえしながら、負担をかけないようにして宣教したことに触れています。

それは決して自分の大変さを弁明したいのではなく、それだけまっすぐな思いをもって、そしられることがないように自分で仕事を持って働きながら、宣教したのだと言うわけです。


3.父のように

 
 さらに、パウロは父親のようにあなたがたを愛したとも伝えています。

Ⅰテサロニケ2章11-12節
また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、12節 ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました

 パウロたちの宣教においては、母親のように大きな犠牲を払う愛と、父親のような厳しくも暖かく励まし導く愛の両方をもってなしたのだということです。人にはどちらも必要ですよね。

 そのままで愛されているという深い安心の土台。同時に、愛するからこそ、時には厳しく戒め、時には叱咤激励する愛。どちらも愛であって、テサロニケの兄姉のためを思っての愛からの指導、助言であったのです。

11節では「私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、」とあります。「一人ひとり」に対して、その父親であるかのように向き合い関わったという思いです。

実に、12節にある「勧め、励まし、厳かに命じる」というこの部分の方が時に実行することが難しいと思えることがあります。叱らないといけない時、厳しく指導しないといけない時、それはもしかしたら「嫌われ役」になるということかも知れません。苦言を呈する時は勇気がいります。

聖書で神様は罪について明確に語られていますし、その罪の行き着く先が呪いや滅びであることも語られています。そうならないようにと願う時、そこは暖かくも厳しい指摘になるでしょう。先ほどの前川さんと綾子さんの例で言えば、綾子さんの健康を心配して、煙草を吸うのを厳しく諫め、必死に止めようとしていた姿がこれに当たるかも知れません。

パウロは、大きな愛で包むことも、厳かに指導する愛で導くことも、両方大切なものであると分かって、そうしてきたのです。

これは私たち一人ひとりにも問われていますね。どちらが欠けてもいけません。


 そしてその目的を見失わないことが大切です。

 私たちは人に悔い改めを説く時でも、罪を指摘して相手を傷つけることや倒れさせることが目的ではありません。

 12節にあるように、神の召しにふさわしく、御国にふさわしく、神の栄光にあずかる者としてふさわしく変えられ、整えられていくためです。この目的を見失わずに、主の愛のうちに人に伝え、教え導く歩みをさせていただきましょう。 



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