東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ2章13-16節「神のことばとして」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/28

Ⅰテサロニケ2章13-16節「神のことばとして」

 *** 4/28(水)祈祷会 ***

Ⅰテサロニケ2章13-16節「神のことばとして」

13節に、私たちの信仰の土台となる非常に大切なことが語られていますね。

Ⅰテサロニケ2章13節
こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

 人からのことばとしてではなく、神からのことばとして割り引かず、そのまま受け入れ信じて歩んでいる。「だから大丈夫だ」という確信がパウロにあるとわかります。

 聖書が人間のことばなのか、それとも神のことばなのか。この問いは私たちにとって最も重要な問いでしょう。



1. 神のことばである聖書

 
 私たちは聖書が、神の霊感によって記された誤りなき神のことばであると信じていますね。だから従えるのです。

Ⅱテモテ3章16-17節
16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 「霊感」ということばが霊を感じる力のような誤解を生みやすいことばだと思います。
霊感によるとは、神の聖霊が著者の上に望み、聖霊の導きのうちに一人一人の個性が生かされながら記させたということです。神ご自身のみこころを、神の霊的働きかけのうちに正しく記録させたのです。

 神のことばであるからこそ、この16-17節にあるように、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益なのであり、神の人=キリスト者が、すべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるのです。

 詩人ゲーテが、もし牢獄に入れられるようなことがあり、ただ1冊の本を持ち込むことが許されるなら、私は間違いなく聖書を選ぶと言いました。聖書一冊あればどんな状況でも、人が知るべき神のみこころがすべて啓示されていますから、それで十分すぎるほどだと言えます。

 逆に聖書を軽んじて、聖書以外のものに最高の権威を置くならば、教会は道から外れて行くでしょう。教会内でも様々な意見や考えが出るでしょうけれども、聖書のみことばに照らして判断、判別する良い習慣を身に着けたいものです。

ヘブル人への手紙の4:12にこのようなみことばがあります。

ヘブル4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 聖書こそより頼むべき究極の権威です。動機さえもみことばによって、精査されていく必要があるのです。言っていることは正論でも、動機がねたみや嫉妬心、あるいは自分の心の傷から来ている場合があります。生きた神のことばの前に、ひとりひとりがいつも取り扱われていく必要がありますね。



2. みことばに生きる者は迫害を受ける

 
14-16節では、まさにテサロニケの兄姉のようにみことばに生きる敬虔なるキリスト者こそ、迫害に遭うのだということが語られています。

Ⅰテサロニケ2章14節
14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。

ここでパウロはまだ若いテサロニケの教会に対して、先輩のキリスト教会に倣う者となったと評価します。それは、ユダヤ人のキリスト教会が同胞から苦しめられたように、あなたがたも同胞のギリシャ人から苦しめられる経験をしたからだと言います。日本の教会も基本的に、外国人から迫害されるのではなく、同じ日本人から迫害を受けるのではないでしょうか。

しかし、迫害はある意味では、私たちが本物のキリスト者となった証しであり、誇りに思うべきものですらあるということです。また宣教のチャンスでさえあります。無反応なところには何も起こりませんが、反対の力が働く時こそ、キリスト者の姿はより鮮明に輝いていきます。闇が深い時にこそ光はいっそう輝くのです。

先ほど開いたⅡテモテ3章の少し前の12節では、こうあります。

Ⅱテモテ3章12節
キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます

敬虔に生きようと願う。それはいい加減にこの世に染まって生きるのではなく、みことばに生きて、キリスト中心に生きることです。そう生きるとどうなるか?良い影響を人々に、この世界に与えるようになるのです!聖書やキリスト者が歴史の中で迫害を多く受けた理由は何でしょう??それは本当にこの世界に対して影響力があったからです。

影響力がないのならば、無視されて終わりです。相手にする必要もないのです。いい加減に生きている者、すぐに流される者への攻撃など不要ですよね。空気のような存在でしょう。

しかし、本物のクリスチャンは影響力があるのです。自分の信仰を隠しません。愛と真実をいつでも実践します。誠実に忠実に歩みます。福音を語り続けます!ですから、隠れることのできない「光」となります。

ユダヤ人の指導者たちがキリストの弟子たちを迫害したのは、彼らの伝える神の福音が人を新しく生まれ変わらせる「力あるもの」だったからです。めちゃくちゃ魅力的で、人々が惹かれていったからです!!必死になってキリスト者を迫害したのは、その影響力の大きかったからです。自分たちの支配が彼らにはまるで通用しない。歯が立たないと脅威を感じたからです。


3. 人の救いを妨げない歩みを!

 
 一方パウロは、15-16節のところで、迫害をした者たちのことを厳しく非難しています。

Ⅰテサロニケ2章15-16節
15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。 16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。

 彼らの上には神の怒りが臨み、その極みにまで達していると語られています。本来神様はユダヤ人たちこそ、神のみことばを宣べ伝える存在だとして、期待していたのです。ユダヤ人を基として、世界中に広がるようにと主は願ったのです。

ところが、彼らは御子イエス様を十字架につけ、さらに信じた者たちを迫害してしまった。特に神様がお怒りになられたのは、救いを妨げる行為をしてしまったということでしょう。それゆえ彼らの中に罪が満ちることになった。だから、神の怒りが極みまで達してしまったのです。

 私たちは攻撃されても、主ご自身がこれをさばいてくださることを信頼して歩みたいのです。同時に、このような残念な側に立ってしまったユダヤ人たちがいるにも関わらず、主が尚彼らを愛しておられることも忘れてはなりません。

 同時に、私たち自身も時に、宣教を停滞させる者の一人になることもあり得ることも謙虚に受け止めたいのです。確かにクリスチャンの中に意図的にそうする人はいないと思います。

 しかしながら、私たちの間にねたみや競争心、不要なプライド、自分の正義へのこだわり、自己保身、自己憐憫などがある時、宣教を停滞させてしまうことは起こり得るのではないでしょうか。

 イエス様殺害の動機の一番大きなものは「ねたみ」や「プライド」だったと思います。テサロニケ宣教における迫害もそうでした。その時の様子が使徒175節で語られています。

使徒17章5節
ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

 ねたみがある時、一致が妨げられます。一見一緒にやっているように見えても分裂があり、チームワークは失われるでしょう。一人の人が救われたとしても、みんなで一緒に喜ぶことができないでしょう。

 かつて、私のもとには、時間をかけてケアしていた若者がいたのですが、彼の救いは別の人を通してもたらされ、またその人がケアすることになりました。なんだか奪われたような気になりました。しかし、このような思いが一致を乱し、チームでしていく宣教の働きを妨げてしまうことを教えられました。

 誰が導こうと、すべては主のなさることです。そもそも、人の救いということを考える時に、誰か一人の人の力によることはありません。色々な人の協力で人が救われ、育てられ、交わりの中で育つのです。 

 人の救いのために、プライドを後にし、自己主張を脇に置き、こだわりを手放せる柔和な姿勢、謙虚さが必要です。神のみことばによって、内側から新しく造りかえられ続けましょう。外側の立派さではなく、内なる動機から問われ、新しくされ、愛の心で一致して進みましょう。




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