東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 勇気を出して話そう
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/04/30

勇気を出して話そう

コロナ問題が長期化しています。残念ながら、これからもまだしばらく続きそうです。

そういう中で、変化に対応して新しいことに取り組んでいる方がいらっしゃいます。 
また一方で、なかなかそのようにできず、人と話す機会も持てずにさみしい思いをしておられる方もいらっしゃいます。

そして、今回のコロナのことで、普段意識しないようなことを改めて意識させられる機会になったことは本当に大きな変化だと感じています。

特に、何気ない人との会話がどれほど私たちの心の励ましになっていたのかと、改めて人との関わり、交わりの大切さを教えられています。


他愛のない会話であっても、「そうだよね」「同じだよ」と、応答してくれる仲間、友達、家族がいることは大きなことです。いや、たとえ反対意見であっても、語り合える時間を共有できることはなんてすばらしいことでしょうか

何でも個人主義になりがちな現代に、神様が一つの大切な気づきの機会をくださったと個人的には思っています。

創世記2章18節
また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

このように神である主はおっしゃいました。
造り主がこのように言われたのです。

色々な動物たちが、私たちを慰めてくれます。
「ペットを飼いたいね~」と家族で話をすることもあります。彼らの存在もまた人には必要で、大切な存在です。この世界の住民です。

そして人が造られた時も、色々な動物たちが最初の人アダムの前に連れて来られました。
この中からふさわしいパートナーが選べるだろうかと、神様が機会をくださったのです。

創世記2章19節
神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。

名づけるという行為は、その相手を知るという行為でもあります。
相手を知らないと名をつけることは難しいでしょう。

例えば「スマホ」。これはスマートフォンの略ですが、フォンは電話として、スマートの意味は何でしょうか。由来の厳密なものはわかりませんが、英語のsmartは「賢い、気が利く」などの意味が中心で、ただの携帯電話ではなく、色々な機能を持つ賢く気の利いた電話ということなら納得です。

名づけるとは、そのように相手を知ってふわしいものをつける行為です。そうやって人がすべての動物に名をつけたのですが、「アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった」(創世記2:20)のです。

そのような経緯を経て、神がアダムのあばら骨をもとに造られたのがエバという女性でした。アダムは彼女を見た時に、この人こそ私の分身のような人、パートナーとなるべき相手だと感じました

しばしば、この経緯を否定的に解釈され、男尊女卑のように言われることがあるかもしれませんが、それは聖書をきちんとご存じない方の主張です。

先ほど出てきた「助け手」ということばは、神様ご自身にさえ使われていることばですので、優劣をつける意図がないとわかります。また、アダムの頭の骨でもなく、足の骨でもなく「あらば骨」から造られたと言う意味では、上でも下でもなく、対等な心と心を通じ合わせる関係を示唆するとさえ考えられるでしょう。

まして、あばら骨は心臓をはじめ、人の大切な臓器を守る骨です。

そして単純に後先で優劣を決めるのは、やや子どもっぽい発想でしょう。
聖書が「後の者が先になり、先の者が後になる」ことがあると説き明かしていることを考えれば、先か後かなどはたいした問題ではありません。

余談はそこまでにして、こうして人は、ひとりではなく、二人、三人とみんなで助け合って生きていくべき者であることが証明されました

イエス様もまた、弟子たちに向かって大切な教えをくださってこう言いました。

ヨハネ13章34-35節
互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

愛し合いなさいと教えられ、しかも、「互いの間に愛があるなら」、人々がこの人たちはキリストの弟子だと認めるようになるとおっしゃったのです。

つまり一人ぼっちではキリストの弟子であることを示すのは難しいのです。

互いの間の「愛」が見える時、「ああ、この人たちは本当にキリストの弟子なのですね」と人々が納得するということです。

愛は物理的な距離に制約などされません。時さえ超えるでしょう。
2000年前の十字架の愛が、現代の私たちをどれだけ励ましているかを考えれば明確です。

離れていても、その愛は届くのです。


今、この時こそ、私たちは互いに愛を示し合う時です。

一人で生きることが弱さになります。
孤独を生み、疲れを増し、いつの間にか弱ってしまいます。人との交わりで刺激を受け、心に励みをいただき、時にはライバル心さえ用いられて、人はイキイキとしていきます。

ずっと年配の先生とお電話でお話したとき、「Zoomでの学び会、楽しいよ。交通費もかからないし、移動時間もないし!」と前向きにイキイキと励んでおられる様子を伺い、とても励まされました。

若い者が負けてはいられないなぁ~と刺激をいただきました。

誰もが今、悩み、右に左にぶれやすい時です。落ち込み、感情的になりがちです。
でも、そこにお互い理解を示し、寛容を示し、互いの弱さを自分の弱さとして受け止める姿勢で、そして「主の愛」をもってともに歩みたいのです。

お互いにもっと話す必要があります。
ついつい無口になりがち、ついつい話す機会を遠慮しがちな時です。でも、心が折れてはより深刻です。心が弱っては大変です。

電話でもZoomでも、会ってマスクしながらでも、語り合う時間を大切にしましょう。
話を聞いてもらいましょう。
人の声を聞きましょう。
特に愛のことばを聞きましょう。

マタイ4章4節
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」



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