東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書23章1-12節「キリストの前にまっすぐ立つ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/05/03

ルカの福音書23章1-12節「キリストの前にまっすぐ立つ」

*** 5/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

「斜めに見る」、「斜に構えて見る」なんて言葉があります。
物事に対してまっすぐ対峙せず、捻くれた見方をすると言った意味です。時には皮肉やからかいを交えて。

今日登場する人物たちは、まさにイエス様の前にまっすぐ立つことができなかった人々です


 キリストを前にして質問できる機会まで持ちながら、キリストを知ろうとしなかった人々。キリストの前に正直な心、素直な心で向き合うことができなかった人々です。

 でも、私も信じる前はそうだったなと思います。素直に信じるのがバカらしいとか、恥ずかしいとか、そんな思いもあったと思います。そして真面目に信じている人をバカにするような姿勢もあったかも知れません。

 そして、信じていてもまっすぐ主の前に立てない時もあるでしょう。
 ですから、私たちも今日登場する人たちと同じような課題を抱えていることを謙虚に受け止めつつ、イエス様の前にまっすぐな心で立つ者にならせていただきたいと思います。

  キリストを前にしながら、まっすぐな心で立てなかった3つのグループについてお話します。

1. ユダヤ人指導者たち(祭司長、律法学者ら)
 
 当時のユダヤ人社会はローマ帝国の支配下にありました。ですから、自分たちで正規の裁判を実施して、死刑を行う権限を持っていません。そのため、ユダヤ人たちはローマ総督のピラトに働きかけてイエス様を死刑にしようとしたのです。

ルカの福音書23章1-2節
集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」

 これらはでっち上げでした。イエス様がいつ民を惑わしたでしょうか?

 イエス様がいつカエサル、つまりローマ皇帝に税金を納めることを禁じたでしょうか?「むしろ、カエサルのものはカエサルに返しなさい」との名言が生まれたぐらいです。ローマの貨幣を使わせてもらっているのだから、政府に税金を納めるのは当然の責任でしょうということでした。

 最後の「自分は王キリストだ」という主張は、現在の王から王位をはく奪する反逆罪を意図していましたが、そんなことは一切ありませんでした。そもそもイエス様は全世界の王、神様でいらっしゃるわけで、この世の王位には少しも興味がありません。

 祭司たち、律法学者たちは自分たちの都合で真実を捻じ曲げ、イエス様を訴える口実を作りました。彼らがまず、主イエス様のお姿とまっすぐに対峙していないことが分かります。

 

2. ローマ総督ピラト

 次に登場するのはローマの総督ピラトでした。ピラトはイエス様と話しながら、イエス様には訴える理由が見あたらないという事実に気づきます。つまり「イエス様は何も悪くない」、それが彼の率直な感想でした。

 それで4節にあるように「彼には訴える理由など見つからないが?」とユダヤ人に持ちかけます。ここまでは良かったと思います。しかし、群衆の言い分を聞いて、ピラトはあることに心が留まりました。5-7 

ルカの福音書23章5-7節
しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った。それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。

 ピラトは、5節の人々の言い分を聞いて、「おや?この人はガリラヤ人なのか?」と気になり尋ねています。なぜ、ガリラヤ人ということが気になったのでしょう。

 2つの理由があるかと思います。第一の理由は、当時、ガリラヤ人に対する差別があったからです。実にガリラヤは、農民や漁師が多い地域であり、律法に対する考え方で祭司階級の人々と対立していました。それでユダヤ人の宗教指導者たちからは見下され、また嫌われていたのです。「ガリラヤ人からはメシヤは出ない、ガリラヤ人からは預言者は出ない」との差別用語があったぐらいです。さらに言うと、実はイエス様がまだ子どもの頃の時代に、ガリラヤ人のユダという人物が革命を起こしたことがありました。彼は祭司たちによれば、「救世主を名乗って立ち上がったが失敗した例」として数えられていました。変な革命家が出る場所として、少しバカにされていた地域・人々だったと言えます。そんなこともありましたから、ローマ帝国からも、ユダヤ人指導者からも「下等なガリラヤ人めが!」と見下され、目をつけられていたのです。

 2つ目の理由は、ちょうどこの時7節にあるようにガリラヤを治めるヘロデがエルサレムに来ていたのです。それならちょうどいい、話が早い!ということでヘロデのもとにイエス様をゆだねようとしたわけです。

こうして、訴える側はわざと「ガリラヤから始めて」ということばを入れて「こいつはローマ政府にとっても危険人物ですよ」とのメッセージを込め、ピラトがあっさり無罪にしないように誘導しました。

ピラトはそれらの事情を呑み込み、無罪と分かっていながらも無罪と判断するのは危険だなと考え、そして自分で処理すると面倒なことになるなとも思い、いったんガリラヤ地方の領主ヘロデに任せる!とボールを投げることにしました。

こうして、ピラトもまた、イエス様の無罪を知りながら、人の顔色をうかがい、差別や偏見の流れに流され、正しい判断ができませんでした。


3. ヘロデ・アンティパス

 最後に登場しているのはヘロデ・アンティパスです。彼はイエス様が生まれた時に、幼児大虐殺をしたヘロデ大王の二男です。この息子も問題児で、バプテスマのヨハネに不貞の罪を指摘され、怒りに燃えて彼を殺害してしまった人です。

8節でこうあります。

ルカの福音書23章8節
ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。

 ここだけ読むと、ヘロデがイエス様を歓迎しているかのようにも見えます。しかし、その中身はまるで違いました。ヘロデは厳密にはイエス様を求めていたのではありません。「イエスが行うしるしを見たい」と望んでいたからであると理由が説明されています。

あくまでも、イエス様がしたと言う「奇跡、しるし」に興味があったに過ぎません。救い主、神の御子であるイエス様の前にまっすぐ立とうなどとは思っていないのです。

「世にも珍しい手品、魔術ができるそうじゃないか?見せてくれぬか?」といった感覚。見せ物、余興、暇つぶし。そのような心を見抜いておられるイエス様ですから、彼の中身のない質問には何もお答えにならなかったのです。9節です。

ルカの福音書23章9節
それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。

いつも申し上げていますが、主は求める者にはいくらでもまっすぐにお答えくださる愛と真実な方です。

けれども、求める心を持たず、受け入れよう、信じようとする心なしに、都合よく奇跡だけを求めることに対しては、あえて応答されません。それもまた主のご愛です。いやしや奇跡の求めに答えることが中心になれば、わがままな人を生み出す機会にさえなるでしょう。また、イエス様という方を誤解し、間違って理解してしまえば救われないからです。イエス様を便利屋として信じても救われません。イエス様を偉大なマジシャンとして信じても救われないでしょう。

イエス様はまことの神であり、私たちを罪とその滅びから救い出し、父なる神との交わりを回復してくださる「救い主キリスト」ですから。イエス・キリストの前にまっすぐ立ちましょう。この方をまっすぐに知る者となりましょう。

「信仰の招き」というものを子どもたちや中高生のキャンプ等で頼まれたことが何度かあります。目をつぶって、信じたい人は手を挙げる。しかし、大抵薄目を開けて、隣の人や他人の様子を見たがる人が多い。あとは手を挙げている気配を音で察知する。特に日本人は。周囲を気にする傾向が強いですよね。神様の前に出るのに、神様より周囲の反応を気にしてしまうのです。それは残念なことです。自分らしく決断できない。

ですので、私はそうした時には、ぜひ今は神様の前にまっすぐ正直に立ってくださいとお伝えします。他の人のことなんてどうでもいい。正直に、あなたがどうしたいのか。あなたの心を知っている神様の前にまっすぐ立ちましょうと「手を挙げられないことが正直な応答なら、それでいい。問題ない!」と伝えることにしています。

スタッフやメッセンジャーに気を遣って手を上げてくれる優しい子もいるのです。でも、そんなことしなくていい。むしろ、正直な心が神様に喜ばれる誠実な姿。わからないなら、わからないでいい。信じられないなら、信じられません!とイエス様に言ったらいい。そのように正直に向き合うからこそ、イエス様はその人に必要な答えをちゃんとくれるのです。


4. 終わりに・・・主の招き
 最初に神様に造られた人アダムとエバが罪を犯してしまった時のことです。これだけは食べてはいけないと命じられていた、善悪の知識の実を食べてしまいました。そよ風の吹く時間帯。彼らは神である主が園を歩いて来られる音を聞きました。その時、アダムとエバはどうしたのでしょうか。

「やっちゃいました。ごめんなさい」と出ていけば良かったのですが・・・ 彼らの取った行動は・・・「隠れた」のです。主の御顔を避けて木の陰に隠れてしまったのです。

 まさに、まっすぐ主の前に立てなかった最初の出来事です。その時、神様は語りかけてくださいました。「あなたはどこにいるのか」と。

 神様はどこにいるのかはご存知です。知っていて「あなたはどこにいるのか」と問いかけられたのは、「あなたの心はどこにありますか?わたしと向き合っていますか?わたしの前にまっすぐ立っていますか?」という意味なのです。

 神様は今日、あなたに語りかけておられます。罪を犯してしまったら、ごめんなさい!とイエス様の十字架を仰ぎ見ればいい。そこに赦しがあるからです。

 でも、深刻なのはイエス様の前から隠れること。罪を隠しごまかし、誰かのせい、何かのせいにすること。だから神様は「わたしの前に出ておいで、まっすぐ立ちなさい」と愛をもって招いておられます。そこに赦し、慰め、癒し、そして回復、成長があるからです。 




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