*** 5/5(水)祈祷会 説教概略 ***
テサロニケに生まれた教会。彼らはわずか3週間ほどしかパウロから教わることができず、救われて間もないクリスチャン共同体でした。それでも、彼らは素直にまっすぐに教えを受け取り、指導に従い、神のことばを実践して歩んでいました。
パウロはそのようなわが子のような兄姉たちのことを思い、彼らが今尚厳しい迫害を受けていることを聞いて、慰め励まそうとこの手紙を書きました。
Ⅰテサロニケ2章17-18節
17節 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。 18節 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。
17節の「引き離された」ということばは、「肉親に先立たれて後に残された」という意味もあることばです。この少し前のところで、パウロは育ての親であるかのような愛で読者たちに接してきたことを伝えていました。
親から引き離されたまだ幼いひ弱な子どもたちが酷い目に遭わされているのを心配しているかのような表現です。
Ⅰテサロニケ2章19-20節
19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。
Ⅰテサロニケ3章1-3節
1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、
2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、
3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
パウロがテモテを派遣した目的は何でしょうか??
2~3節で理由を述べていますね。2節では、テモテを指して「キリストの福音を伝える神の同労者」と表現し、キリストの福音をさらに明確に伝える目的があったことを示しています。次に、信仰を強め励ます意図があったことが語られていますね。さらに3節では、この苦難の状況にあって「だれも動揺することがないようにするため」との目的が明らかにされています。
そして最後の5節でも、再び熱い思いをもってテモテ派遣の意図を説明します。
Ⅰテサロニケ3章5節
そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。
5節によれば、テサロニケの兄姉たちの「信仰の様子を知りたくて」遣わしたという理由も分かります。それだけ「心配だった」のです。苦難の中で誘惑に負けて、信仰が弱り果ててしまわないようにです。
なお、パウロは1節と5節で同じ表現を繰り返していますね。「もはや耐えられなくなって」ということばです。パウロはテサロニケの兄姉のことが気がかりで、心配で、何もしないではいられなかったのです。それほどに気にかけている。思っている。そういう表現をパウロは隠さずにしているのだなと改めて気づきます。
私たちは、人に対してこのような愛の表現をあまり伝えられていないように思います。まさに日本人の弱さでもあるでしょう。言わなくてもわかるだろうとか、口に出すのは野暮だ、美しくない。そんな日本人の美徳もあるかも知れません。しかし、そういう精神論や日本的美徳で、どれほど愛が伝わらない状況が起きてきたでしょう。「愛されている」と感じられずに歩んでいる人がたくさんいらっしゃる現実を目の当たりにします。
なお、パウロは1節と5節で同じ表現を繰り返していますね。「もはや耐えられなくなって」ということばです。パウロはテサロニケの兄姉のことが気がかりで、心配で、何もしないではいられなかったのです。それほどに気にかけている。思っている。そういう表現をパウロは隠さずにしているのだなと改めて気づきます。
私たちは、人に対してこのような愛の表現をあまり伝えられていないように思います。まさに日本人の弱さでもあるでしょう。言わなくてもわかるだろうとか、口に出すのは野暮だ、美しくない。そんな日本人の美徳もあるかも知れません。しかし、そういう精神論や日本的美徳で、どれほど愛が伝わらない状況が起きてきたでしょう。「愛されている」と感じられずに歩んでいる人がたくさんいらっしゃる現実を目の当たりにします。
そして、この5節の「誘惑する者」とは、別のか所ではサタンを指して使われています。マタイ4章では悪魔を指して「試みる者」と訳されていることばです。パウロは今日の場面では、意図的にサタンの存在を背後に示しているように思います。
キリスト信仰に熱く燃える時、成長するとき、サタンが妨げて来るのは必然と言えるでしょう。4節で「前もって苦難にあうようになると言っておいた」と彼が確認しているそのためです。
私たちも悪魔の誘惑に流され、疑心暗鬼になったり、さばきあったりしてはいけません。パウロがしたように、お互いの存在を喜び、それを伝えることを恥ずかしがらず、ますます愛の絆で守られるようにしたいのです。「互いの存在を誇りに思う」群になりませんか。