東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ2章17節~3章5節「苦難の中の励まし」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/05/05

Ⅰテサロニケ2章17節~3章5節「苦難の中の励まし」

*** 5/5(水)祈祷会 説教概略 ***

 テサロニケに生まれた教会。彼らはわずか3週間ほどしかパウロから教わることができず、救われて間もないクリスチャン共同体でした。それでも、彼らは素直にまっすぐに教えを受け取り、指導に従い、神のことばを実践して歩んでいました

 パウロはそのようなわが子のような兄姉たちのことを思い、彼らが今尚厳しい迫害を受けていることを聞いて、慰め励まそうとこの手紙を書きました。


Ⅰテサロニケ2章17-18節
17節 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。 18節 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。 

 17節の「引き離された」ということばは、「肉親に先立たれて後に残された」という意味もあることばです。この少し前のところで、パウロは育ての親であるかのような愛で読者たちに接してきたことを伝えていました。

 親から引き離されたまだ幼いひ弱な子どもたちが酷い目に遭わされているのを心配しているかのような表現です。

 特に短い時間で別れなければならなかったテサロニケの兄姉を心配し、彼らに対する「会いたい」とのパウロの思いがあふれています。距離は離れても「心は離れていない」と強調し、だからこそ顔を見たいと切望していることをことばで伝えているのです。なんだかんだ言っても、こうした愛が人々の心に届き、彼らを育てると言えるでしょう。

そして、実際にパウロは何度も行こうとしたということですが、妨げられたのだと語ります。それは「サタンの仕業」であったとパウロは言います。意図的にサタンの妨げであると語ったのでしょう。特に実際に妨げている人々は、その罪深い思いをサタンに利用されていたと言えるでしょうし、パウロ自身の肉体的なとげ(肉体的弱さ)の問題のことかも知れません。ハッキリとしたことはわかりませんが、このようなサタンの妨げは私たちの日々の信仰生活においても絶えず起こり得ます

私たちの心を挫き、みことばにまっすぐ生きることを妨げる罠であふれています。ただし、サタンにできることは限られています。誘惑はできますが、強制はできません。ですから、私たちは選ぶことができるということです。

19-20節のことばに、テサロニケのクリスチャンたちはとても励まされたことと思います

Ⅰテサロニケ2章19-20節
19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。
20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

サタンの妨げがあって、厳しい迫害があって、もしかしたらパウロはテサロニケの兄姉たちに「もう会えないかも知れない」との思いを持っていたことでしょう。それでも、サタンの妨げはせいぜい地上でのことです。

パウロは19節で「主イエス様の再臨にある希望」を明確に触れて、キリストの再臨の時には必ず再会できることを確信していますね。「出会いはあっても、別れはない」これがキリスト者の特権です。この望みがあるからこそ、困難な時にも希望を失わずにいられます。

「私たちの望み」とパウロが言うのには、おそらく、少なくとも主の再臨時にはテサロニケの兄姉たち、つまり霊的な息子・娘たちに再会できるという望みが確かにあったからでしょう。信じて救われて信仰を保ってくれている!!だからまた必ず会える。少なくとも再臨の主の御前では必ず再会できると。

ここでは「冠」とも表現されていますが、冠は頭の上ですから一番目立つ場所。ですからパウロが心から誇りに思う自慢の息子、娘たちといったイメージでしょう。彼らの存在を心から喜び、誇りと思っているということをパウロは意識的に伝えているのです。

私たちはどちらかと言うと、お互いの悪いところに目を留め、批判してしまったり裁いてしまったりする方が多いのではないでしょうか。確かにパウロも厳しく指導することばを用いています。でも、同時にパウロの場合には、相手に対してことばで明確に感謝の想いや愛をあふれるほどに伝えているのではないでしょうか。

17-18節でもパウロの愛が語られていましたよね。

この3章2節では、あなた方の存在が私たちの希望もであり、喜びであり、誇りであり、栄光であると、非常にはっきりとしたことばで相手の存在をほめています。 コロナ下で誰もが疲れ切っている日々。冷静な判断を保つことさえ難しい状況。まさにこのような苦難の中で、パウロのように明確に励ましを伝えることについて、私たちも学ばせていただきたいと思います。


 続く3章で、パウロはこのような背景の中でどんな手段を用いたかを記します。

Ⅰテサロニケ3章1-3節
そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、
私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、
このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

 パウロがどうしても行くことが難しかったので、彼らはアテネに残り、代わりに若いテモテを派遣することにしました。

パウロがテモテを派遣した目的は何でしょうか??
23節で理由を述べていますね。2節では、テモテを指して「キリストの福音を伝える神の同労者」と表現し、キリストの福音をさらに明確に伝える目的があったことを示しています。次に、信仰を強め励ます意図があったことが語られていますね。さらに3節では、この苦難の状況にあって「だれも動揺することがないようにするため」との目的が明らかにされています。

そして最後の5節でも、再び熱い思いをもってテモテ派遣の意図を説明します。
Ⅰテサロニケ3章5節
そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。

5節によれば、テサロニケの兄姉たちの「信仰の様子を知りたくて」遣わしたという理由も分かります。それだけ「心配だった」のです。苦難の中で誘惑に負けて、信仰が弱り果ててしまわないようにです。

 なお、パウロは1節と5節で同じ表現を繰り返していますね。「もはや耐えられなくなって」ということばです。パウロはテサロニケの兄姉のことが気がかりで、心配で、何もしないではいられなかったのです。それほどに気にかけている。思っている。そういう表現をパウロは隠さずにしているのだなと改めて気づきます。

 私たちは、人に対してこのような愛の表現をあまり伝えられていないように思います。まさに日本人の弱さでもあるでしょう。言わなくてもわかるだろうとか、口に出すのは野暮だ、美しくない。そんな日本人の美徳もあるかも知れません。しかし、そういう精神論や日本的美徳で、どれほど愛が伝わらない状況が起きてきたでしょう。「愛されている」と感じられずに歩んでいる人がたくさんいらっしゃる現実を目の当たりにします。

長年、尊い「愛の宣教の働き」をなさってきたご夫妻。その娘さんが40代の頃だったかと思いますが、ふと「お母さんから愛されているとは感じて来なかった」という話をなさったそうです。お母さんとしては、伝えてきたつもりでした。「まさか?」という思いです。

でも、本人からすると伝わっていなかったと言うのです。愛してないということはなかったであろうと思います。一生懸命愛してきたのだと思います。それでも伝わらないことがあります。

確かにことばだけの問題ではないかも知れません。しかし、なんと私たちは愛を伝えることにおいて、未熟なことだろうかと改めて考えさせられます。

私たちが優先すべきは、精神論や美徳ではなく、主の御声です。主が「愛せよ」「愛を示せ」と語られる以上、パウロにならって私たちも愛を実践し、愛を示す必要があるでしょう。主イエス様に従い、みことばから「愛し方を学ぶ必要がある」と改めて自戒します。

そして、この5節の「誘惑する者」とは、別のか所ではサタンを指して使われています。マタイ4章では悪魔を指して「試みる者」と訳されていることばです。パウロは今日の場面では、意図的にサタンの存在を背後に示しているように思います。

キリスト信仰に熱く燃える時、成長するとき、サタンが妨げて来るのは必然と言えるでしょう。4節で「前もって苦難にあうようになると言っておいた」と彼が確認しているそのためです。
 私たちも悪魔の誘惑に流され、疑心暗鬼になったり、さばきあったりしてはいけません。パウロがしたように、お互いの存在を喜び、それを伝えることを恥ずかしがらず、ますます愛の絆で守られるようにしたいのです。「互いの存在を誇りに思う」群になりませんか。
 




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