*** 5/9(日)主日礼拝 説教概略 ***
詩篇127篇1-2節 エペソ4章11-16「神がお建てになる教会」
新会堂の竣工、そして献堂式から2年が経ちました。あっという間です。以前の会堂においても主が導いてくださったもので、本当にすばらしく、人通りの多い地域にあり、十分に用いられたことを感謝しています。特に、会堂移転前の2年ぐらいはクリスマスには「立ち見が出る」ほど、多くの方が来られていました。
そして、コロナウイルスの問題も考えると、神様が最善の時に新しい会堂に導いてくださったことを改めて感謝しています。すべてにおいて真実な神様の導きが確かにあったことを感謝しつつ、皆さんとともに恵みを味わいたいと願っています。
新会堂での最初の礼拝の時に説教で皆さんに申し上げたことがあります。あえて「ちょっと過激な言い方」をさせていただきました。覚えておられるでしょうか?
本日もみことばを通して教えられることは、建物の立派さやこの建物の機能性の話ではありません。この世の建物の建設記念会ならば建物の立派さや設計のすごさに話が行くでしょう。しかし、教会では違います。これをふさわしい時に、豊かにお建てくださった主役は神様です。この神様に目を向けさせていただき「この方がお建てになるから教会はすばらしいのだ」ということを教えられたいのです。
1. 主がお建てになった
1節にこうありますね。
詩篇127章1節
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
この「むなしい」との意味は、からっぽで無意味・価値がないということです。「偽り」とも訳されることばです。言わば、神様のみこころに従ってこの会堂を用いていくのでなければ、この建物はむなしい中身のないものになるということです。
続く2節のみことばにこうあります。
詩篇127章2節
あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。
私たちが寝る間を惜しんで、睡眠を削って労したとしても、できることなどほんのわずかだということです。いや、主の助けなしには徹夜で何日頑張ろうと良い実を結ぶことなどできないのです。だから、神様にゆだねて、神様が働かれることを信じてゆだねて、安心して眠りなさい!ということです。
新改訳2017年では脚注に「別訳」がついていまして、眠っている間に、このように備えてくださるとあります。「主は、愛する者のために眠っている間に備えてくださる」というのです。神様はなぜ、人を眠る存在とされたのでしょうか。なぜ、寝ないでも生活できるようにデザインしなかったのでしょうか。
2. 待たされた恵み
振り返ると、新会堂建設の計画は大幅に遅れました。それは、振り返って初めて気づくのですが、神様が意図的に遅れさせてくださったものでした。私たちは何でも早く欲しいと思いますが、待たされることを通して神の主権を学ばされ、私たちが寝ている間にさえ24時間営業で働いておられる主でいらっしゃることを教えてくださいました。実に、待たされたのは「主の愛」でした。幾つかお分かちします。
3つ目は、土地を購入してから建設までも待たされたということです。その間、まさに寝ている間に雑草がどんどん生えました。雑草って気が付いた時には生えている。そのため教会のみんなで3度ほど雑草抜き大会をしました。子どもから年配の方まで。これもまた良い思い出、良いチームワークの構築、良い交わりになりました。あの雑草を抜いたから、今ここに会堂が建っているのです。他にもグランドピアノの搬入、搬出のことでも、主が私たちの知らない間に手をまわしておいてくださり、とても助けられました。引越についても、主は寝ている間に様々な面から備えておられました。
「主は、愛する者のために眠っている間に備えてくださる」まさに私たちが知らない間に、針の穴を通すようなピンポイントのタイミングで、取り去る時にはふさわしく取り去り、与える時にふさわしく与えてくださいました。私たちには何もできない、手の届かないところまで、見えないところまで、主はすべて知って手を伸ばし助けてくださったのです。それと同じように皆さんにしてくださる神様であることを、知っていただきたいのです。
3. この会堂を主のご用のために
そして、今、与えられているこの会堂をどのように主の栄光のためにささげ、用いていくのか。そこが問われています。献堂式の時に「会堂の魅力で教会に来た人は、会堂に飽きると去って行く」とのおことばをいただきました。本当にそうだなと思わされます。ここからは中身です。
ゆえに、今日、もう一か所エペソの4章のみことばを確認したいのです。
エペソ人への手紙4章11-12節
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
11-12節の全体の主語は11節最初の「キリストご自身が」です。そして主動詞が11節の「お立てになりました」です。これは「与える」ということばで「使役動詞」でもあります。キリストご自身が使徒、預言者、伝道者、牧師・教師らを教会に与えて置いてくださった。キリストによって立てられた彼らを通して、聖徒らを整えて奉仕に導き、キリストのからだを建て上げるのです。あくまで「キリストが人を立て、キリストが教会を建てるのだ」ということです。
タイトル通り、建物だけでなく中身も主がお建てになるのだということです。キリストへの信仰において私たちは一致し、キリストのご命令に皆で従うのです。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい」との主のおことば、そして「出て行ってあらゆる国の人々を弟子とせよ」との大宣教命令。新会堂の上にあぐらをかくことなく、与えられたからこそ、この宮を豊かに用いさせていただき、ますます主のおことばに立って、愛し合い、福音を伝え続けて行きたいのです。
14節にあるように、世のアテにならない噂話、偽りの情報にもてあそばれることなく、愛と真理に堅く立ってキリストという成熟した姿へと、みんなで成長したいのです。
昨日、開放日がありました。これも新会堂になってからできるようになった働きと言えます。日曜日に集っていない子では、小学生が1人来てくれました。でも「1人しか」とは私は思いません。「主が愛している一人の大切な子が来てくれた」。これが真実です。
そして、この子のために、中高大学生、青年、CSJYスタッフ等大勢の皆さんが一緒に遊び、愛を注ぎ、みことばを分かち合ってくださった。その子が帰った後、「あの子すごく変わって来たよね。お話もとてもよく聴けるようになったね。」と感想。
この一人の子がイエス様を知ることができるとするならば・・・ここに主が教会堂をお建てになった意義は十分あると思うのです。
このような小さな者のひとりになした愛のわざ、それは主イエス様になした事です。
新しい会堂を与えられて2年。 子どもたちから年配の皆さんに至るまで。古参も新参もなく、国籍や性別に囚われることなく、主にある「神の家族」として、ネットで参加されている皆さんも含め、イエス・キリストによって、ともに成長させていただきましょう。