*** 5/12(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ3章6-13節「愛と信仰による慰め」
パウロたちは迫害下、困難の中にあるテサロニケの兄姉たちを励まそうとしました。
そのためにテモテを派遣しました。この手紙もまた励ましを主要な目的としていると言っていいでしょう。しかし、そのために書かれた手紙の中で、パウロたち自身も励まされ、慰めを受けていたことが明記されています。
実に、教え導く側だったパウロたち自身、救われて間もないテサロニケ教会の兄姉たちの信仰の姿に励まされ、慰められ、彼らの信仰のおかげで「生きる力」をもらったことがわかります。
パウロたちは派遣されたテモテからの知らせを受けるまで、気が気ではなかったのではないかと想像します。テモテからの知らせを受けるまでは、テサロニケの兄姉たちがどういう状況か分かりませんでした。電話もメールもない時代ですから・・・。
彼らの気持ちは特にわからなかったでしょう。福音を伝えられ信じたものの迫害が起こっていて。しかし、伝えた本人であるパウロたちはいなくなってしまった。否定的な感情が起こってもおかしくない状況です。
だからこそ、パウロもまた兄姉の心が見えず心配だったことでしょう。場合によっては、迫害の困難さに耐えかねて皆信仰から離れてしまったという情報がもたされる心配だってあったことでしょう。
1. 兄姉たちのパウロたちへの愛
Ⅰテサロニケ3章6節
ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。
ここにあるように、テモテによってパウロたちに対する愛があることがわかりました。
彼らがいつも好意をもってパウロたちのことを思い起こしている姿や「会いたい」と思ってくれているということが分かったのです。
以前ある牧師にお電話したときのこと「先生、今日はどうしたのですか?何か御用ですか?」と相手の牧師は言いました。そこで私は「いえいえ、全然用事はないのですけどね・・・どうしているかなと思って」と伝えると、「ああ、そういうの嬉しいですね」と言ってくださいました。
また、昨日、友人牧師から電話がありました。会議中だったので出ることができなかったのですが、メールが入っていまして「久しぶりにお声が聞きたく電話をしました」とありました。ああ、素直に嬉しいなと思いました。
パウロも嬉しかったはずだと確信します(笑)。
それが「いつも好意をもってパウロたちのことを思い起こしている」と聞き、しかも、「会いたい」と思っていると知って、元気をもらわないはずがありません。
テサロニケの兄姉たちとの愛の絆は、実に生み出されたテサロニケの兄姉たちだけでなく、パウロたちにとっても大いに励ましや慰めになったことがよくわかります。
パウロは彼らのこうした愛を喜びましたので、この愛がますます主にあって豊かにされるようにと12節で祈っています。
2. 兄姉たちの神への信仰
7-8節でこのように語られています。
Ⅰテサロニケ3章7-8節
7節 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。
8節 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。
これらのみことばを味わう時、実にパウロたち自身がテサロニケの兄姉たちから大いに慰められたことがわかります。何による慰めでしょうか?
7節最後にこう説明されていますね。「あなたがたの信仰による慰めです」と。そして8節では、彼らが主にあって堅く信仰に立っているなら(そのおかげで)「私たちの心は生き返る」とまでパウロは言っています。ここは直訳的には、「今」ということばが使われていて、「そのおかげで、今!私たちは生きています」というニュアンスでしょうか。この背景には、それまではテサロニケの兄姉の様子がわからず「生きた心地がしなかった」という意図が含まれているのかも知れませんね。そういう意味で「今は、私たちは生きています!生き返りました」と言いたいのでしょう。本当に良くわかる気がします。
10節を味わうと、パウロたちがテサロニケの兄姉たちの信仰の様子を聞いて励まされた理由がさらに明確になります。
Ⅰテサロニケ3章10節
10節 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。
パウロはこの感謝、喜びを9節で爆発させています。
Ⅰテサロニケ3章9節
9節 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。