東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ3章6-13節「愛と信仰による慰め」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/05/12

Ⅰテサロニケ3章6-13節「愛と信仰による慰め」

*** 5/12(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰテサロニケ36-13節「愛と信仰による慰め」

 パウロたちは迫害下、困難の中にあるテサロニケの兄姉たちを励まそうとしました

 そのためにテモテを派遣しました。この手紙もまた励ましを主要な目的としていると言っていいでしょう。しかし、そのために書かれた手紙の中で、パウロたち自身も励まされ、慰めを受けていたことが明記されています。


 実に、教え導く側だったパウロたち自身、救われて間もないテサロニケ教会の兄姉たちの信仰の姿に励まされ、慰められ、彼らの信仰のおかげで「生きる力」をもらったことがわかります。
 パウロたちは派遣されたテモテからの知らせを受けるまで、気が気ではなかったのではないかと想像します。テモテからの知らせを受けるまでは、テサロニケの兄姉たちがどういう状況か分かりませんでした。電話もメールもない時代ですから・・・。
 
 彼らの気持ちは特にわからなかったでしょう。福音を伝えられ信じたものの迫害が起こっていて。しかし、伝えた本人であるパウロたちはいなくなってしまった。否定的な感情が起こってもおかしくない状況です。

 だからこそ、パウロもまた兄姉の心が見えず心配だったことでしょう。場合によっては、迫害の困難さに耐えかねて皆信仰から離れてしまったという情報がもたされる心配だってあったことでしょう。

しかし、テモテからの直接的な報告を受けて、パウロたち自身がどれほど励まされたことでしょうか。テモテによってどのような報告がもたされたのでしょうか?

 

1. 兄姉たちのパウロたちへの愛

 
Ⅰテサロニケ3章6節
ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。

ここにあるように、テモテによってパウロたちに対する愛があることがわかりました。
彼らがいつも好意をもってパウロたちのことを思い起こしている姿や「会いたい」と思ってくれているということが分かったのです。
 以前ある牧師にお電話したときのこと「先生、今日はどうしたのですか?何か御用ですか?」と相手の牧師は言いました。そこで私は「いえいえ、全然用事はないのですけどね・・・どうしているかなと思って」と伝えると、「ああ、そういうの嬉しいですね」と言ってくださいました。

 また、昨日、友人牧師から電話がありました。会議中だったので出ることができなかったのですが、メールが入っていまして「久しぶりにお声が聞きたく電話をしました」とありました。ああ、素直に嬉しいなと思いました。

パウロも嬉しかったはずだと確信します(笑)。
それが「いつも好意をもってパウロたちのことを思い起こしている」と聞き、しかも、「会いたい」と思っていると知って、元気をもらわないはずがありません。

テサロニケの兄姉たちとの愛の絆は、実に生み出されたテサロニケの兄姉たちだけでなく、パウロたちにとっても大いに励ましや慰めになったことがよくわかります。

パウロは彼らのこうした愛を喜びましたので、この愛がますます主にあって豊かにされるようにと12節で祈っています。

しかしながら、パウロたちが非常に慰められたのは、この愛だけではありませんでした。彼らがしっかりと信仰を持って歩んでいたという喜びの知らせがあったからなのです。

 

2. 兄姉たちの神への信仰

 
 7-8節でこのように語られています。

Ⅰテサロニケ3章7-8節
7節 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。
8節 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。

 これらのみことばを味わう時、実にパウロたち自身がテサロニケの兄姉たちから大いに慰められたことがわかります。何による慰めでしょうか?

7節最後にこう説明されていますね。「あなたがたの信仰による慰めです」と。そして8節では、彼らが主にあって堅く信仰に立っているなら(そのおかげで)「私たちの心は生き返る」とまでパウロは言っています。ここは直訳的には、「今」ということばが使われていて、「そのおかげで、今!私たちは生きています」というニュアンスでしょうか。この背景には、それまではテサロニケの兄姉の様子がわからず「生きた心地がしなかった」という意図が含まれているのかも知れませんね。そういう意味で「今は、私たちは生きています!生き返りました」と言いたいのでしょう。本当に良くわかる気がします。

 私もこれまで、色々な方との交わりの中で、どれだけ色々な兄姉の信仰のことを心配したことかわかりません。心配したところで良くなるわけではないけれども、誰もが信仰の荒波の中で、非常に落ち込む時期がありますね。大丈夫かなと祈りながら思い出す。そういう中で元気な様子を聞くと、特に信仰面で元気な様子を聞いた時に、どんなにか嬉しく励まされることでしょうか

パウロたちも多くの困難を通りながら、ある意味いのちがけの日々の中にありましたから、自分たちの労苦が実を結び、まして信仰歴の若いクリスチャンたちが負けずに励んでいる姿は、どんなにか慰めとなったことでしょうか

10節を味わうと、パウロたちがテサロニケの兄姉たちの信仰の様子を聞いて励まされた理由がさらに明確になります。

Ⅰテサロニケ3章10節
10節 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。

ここにあるように、パウロがテサロニケの兄姉たちのことを昼も夜も覚えて熱心に祈っていたということです。強い関心を持って、彼らの信仰の足りない部分を祈りでカバーしたいとさえ願って祈っていたのです。逆に言うと、関心のないところには、犠牲のないところに感動も喜びもないのです。ですので、私たちはますます互いに関心を持ち、祈り合いたい。そこには豊かな慰めや励ましが生まれるからです。

そして、今日のみことばから気づかされるのは、「他の人々の信仰によって慰められ、自分の心も生き返る」という真理です。神様との交わりはもちろん中心。でもそれだけではなく、他の兄姉の信仰の証しを聞くときに、心燃やされ、勇気をもらい、あるいは慰められるのです。このような機会を失うと、どんなに一人で聖書を読み続けていても、それだけで満たされていくことはないでしょう。なぜなら、聖書自身が、兄姉との交わりやその信仰、愛によって励まされることを教えているのですから。

パウロの手紙にはそういった要素が散りばめられていますよね。同時に、「自分の信仰の歩みや証しが他の方にいのちをもたらす」という恵みを、私たちももっと大切にしたいものです。教会に集う時、もちろん「自分が恵まれる」と思います。でも、一方的に恵まれるだけの歩みにならず、自分も恵みをもたらす側になりたいとの意識を持つ人が増えるなら、この交わりはさらに豊かになるでしょう。

そして、嬉しくないでしょうか?自分の信仰が人にいのちをもたらす、慰めをもたらすとしたら、こんなに嬉しいことはないでしょう。

 パウロはこの感謝、喜びを9節で爆発させています。
Ⅰテサロニケ3章9節
9節 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに

互いのために関心を持って熱心に祈り、お互いの信仰を気遣あって歩む時、主がそこになしてくださるみわざを一緒に知ります。課題を分かち合い祈り合うなら、それに対する主の恵みを共有できるのです。そこに大きな喜びがあふれますね。自分の事よりも、愛する兄姉のゆえに、もっと私たちは喜ぶことができるのです。






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