東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ23章13-25節「十字架につけた無名の人々」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/05/17

ルカ23章13-25節「十字架につけた無名の人々」

*** 5/16(日)主日礼拝 説教概略 ***

本日登場している中心人物は名前がありません。
職業や立場も記されていません。

彼らは13節に「民衆」という表現で登場します。
受難劇などでも、ややエキストラのような立ち位置でしょうか。

しかし、最後の決定打をもたらしたのは民衆の「その男を殺せ。十字架につけろ」という叫びでありました。


 ローマ総督ピラトは、イエス様にはお前たちが訴えるような罪はやはり見つけられないのだと相談します。15節のところでもこうあります。

ルカ23章15節
ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない

 ヘロデ・アンティパスも、さばくチャンスを与えたのに「お任せします」とばかりに送り返して来た。死に値する罪がないからであろう。だから、ムチで打って懲らしめてもう釈放しよう。そんな意図で相談を持ち掛けました。ところが、それでは収まりません。

これに猛反対して、民衆は「釈放するのはバラバであって、その男、イエスを殺せ」と声をあげて訴えたのです。その様子が18-19節にあります。

ルカ23章18-19節
しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」
バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった

 ここにありますように、暴動と人殺しの罪で捕らえられていたバラバよりも、罪が見当たらないイエス様を死刑にせよ!と民衆は叫んでいるのです。ピラトは再び彼らを呼んで釈放を試みます。しかし、答えはどうでしょう。21節です。

ルカ23章21節
しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた

「叫び続けた」と訳されているように、文法上も行動の継続が意識されています。「十字架につけろ」という大合唱が続いていたということかも知れません。実にピラトは三度、釈放を申し出ますが、それも叶いませんでした。23-24節にある通りです。

ルカ23章23-24節
けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。
それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた

 民衆の声に押し切られる形で、ピラトは死刑に同意します。

 それにしても、この民衆はなぜ、こうまでして強烈にイエス様を十字架につけて殺す必要があったのでしょうか

 祭司長や律法学者たちが強いねたみに駆られ、イエス様を殺したいほど憎んでいたことは聖書中に記されています。

 しかし、これらの民衆はどうなのでしょう??どんな動機で、どんな理由でイエス様の死刑を求めたのでしょうか。

 その動機は何なのでしょうか?

 実は、記されていません。語られていないのです。

語られていないというのが、まず一つの答えです。

それは記録すべき程の明確な動機がなかったという可能性を示しますよね。なぜなら、律法学者や祭司長、議員、長老たちなどは、ねたみがあり、殺したいほど憎んでいたと聖書は記録しているからです。明確な殺意の動機があるなら、記録されたことでしょう。

それを裏付けるヒントが、他の福音書に記されています。

マタイの福音書では祭司長、長老たちは「群衆を説得した」とあります。

マルコの福音書では「群衆を扇動した」と語られています。

「説得と扇動」です。このことから分かることは何でしょうか。

少なくとも彼らは強制されたり、脅迫されたりしたわけではないということです。同時に、説得や扇動が成功しなければ殺すほどの理由がなかったということではないでしょうか。積極的にイエス様を殺したいという意図はなかったと言えるでしょう。

すると彼らは積極的な意志もないのに、一人の正しい方、神の御子のいのちを奪うことに加担してしまったということになります。ある意味怖いことですが、現実的にあり得ることです。現代でもSNSなどで、匿名のマジョリティみんなである人を叩き、それらがやがて凶器&狂気に変わり、自殺に追い込んでしまうといったことが実際にいくつもあります。

ではなぜ、彼らはこのような罪深い行為に流され利用されてしまったのでしょうか? 


1. 彼らの無関心と無知のゆえ

 彼らが一人の人生といのちに対して無関心で、無知であったからです。
 イエス様に対しても、神のみこころに対しても関心が薄かったのではないでしょうか。

 「いい先生かも知れないけど、私達には関係ない。」そんな関心の薄さです。

 もし、これが自分の家族や親友の命に関わる話だったらどうでしょう?
彼らの態度は全く違ったのではないでしょうか。どこかで自分たちとは関係ないとか、自分にとって有利なのは何か、それぐらいの浅い考えで行動したのではないかと思うのです。

 しばしば「無知や無関心は仕方がないこと」として流されがちですが、マザー・テレサのことばにはっとさせられます。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」とのことばです。実際、イエス様は失われた人を自ら探し出して救うために来られたと、積極的に愛していくことを明言されました。

 私たちは人に対して真理に対して関心を持つ者でありたいと思うのです。それが神様のみこころだからです。それが愛するということだからです。

大学受験をテーマにしたドラマで、主人公の教師が熱弁を振るう場面がありました。少し咀嚼して紹介したいと思います。頑張っている生徒をバカにして勉強しても無駄だと思っている生徒たちへのことばです。「人を見下し、バカにするばかりのお前たちの方が愚かだ」と彼は言います。

「国は、お前たちのように無知なままでいて欲しいのだ。何にも疑問も持たず、何にも知らないまま、調べもしない。ただひたすら政府に従い働き続け、金を払い続ける国民であって欲しい。」それが本音なのだと。まるで、今日のみことばの扇動され利用された群衆の話をしているかのようです。

しかし、生徒も反論しました。「だからなんだよ。国のせいだろ。俺たち関係ねぇし」と。まさにこの「俺たち関係ねぇし」が無関心の典型でしょう。

これに教師は返します。「だからお前らは愚かなのだ。誰かのせい国のせい時代のせい。他人を叩き批判して、文句を言って何が変わるのか?ルールを作ってる者たちは、この状況がおいしいからこういう仕組みにしてるのだ。自分は関係ないと言ってたら、一生騙されて搾取されされ続けるのだぞ。なぜ社会はこうなってるのか、誰がどんな意図でこの仕組みを作ったのか、本質を見抜き、自分なりの答えを出す力を付けなさい。勉強というのはこの国で許された唯一の平等なんだ。」

このセリフを聞きながら「パンとサーカス」という言葉を思い出しました。民衆はパンとサーカスがあれば御しやすい。支配しやすいという意味のことばです。
飢えない程度の食べ物と、サーカス、つまりそこそこの娯楽を与えて置けば、飼いならせるのだという支配者の考え方です。だから、愚かな民衆であってはならないとの教訓です。

まさに、すばらしいイエス様を殺し、悪どい欲の塊の上流階級に都合の良い状況を提供したのは、他でもない民衆だったわけです。

聖書から私たちはそれを学び「人はパンのみで生きるにあらず」と言われる主のおことばに聞いて、関心を持って愛と真実に堅く立った歩みをさせていただきたいと願うのです。心の目を開かせていただきたいのです。

箴言でも、以下のようなみことばがあります。
箴言1章7節
主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む

また、箴言4:7ではこのようにあります。

箴言4章7節
知恵の初めに、知恵を買え。あなたが得たものすべてに換えて、悟りを買え。

イエス様も言われました。「鳩のように素直に、蛇のように賢くありなさい」と。あるいは、ローマ人への手紙12章2節でもこのようにあります。

ローマ12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 何が神のみこころで、何がそうでないのかを見極める目を養うように聖書は教えているのです。
 
2. 無名な群集という罠
 そして、この民衆の行動を後押ししてしまったのは、タイトルのように「人々が無名な大勢としてそこにいた」ということでしょう。

 日本でも「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんてことばが昔ありました。「群集心理」です。逆にピラトはなぜ、3度もやめた方がいいんじゃないか?と訴えたのでしょうか。そんなに彼が正義の人であったとは思えません。

 それは彼には「責任があった」からです。彼には権限があり、責任が問われ、間違った判断をすれば、彼の名前が後世にまで残るわけです。事実、彼は不名誉にも名前がずっと語り継がれています。

 しかしながら、群衆の中に埋もれてしまい、責任は誰にあるのかわからないと、その空気感や流れに乗ってしまう弱さが私たちにあります。みんながしているから大丈夫だろうと。

 特に今の時代はこれが顕著です。一人で対立しようものなら、SNSでネットでたちまち叩かれる世の中ですから、いかに多数派に身を置いて安全に過ごすかばかりを考えている人であふれています。

しかし、そうした空気を読むことには関心を持っているのに、人の心やその痛みに対しては鈍感な世界になっています。

特にコロナ下でバーチャルなやり方はどんどん増えています。同時に何かも失われているような気にもなります。だんだんと人に対する関心が薄れ、相手の心を思いやる想像力も働かなくなるような気もします。

「愛の反対は無関心」

まさに、相手の心を思いやる想像力が、持ちにくい時代になりつつあります。私たちは互いに愛し合うことを、大事にしたいのです。

 イエス様は自分をよく知りもせず、雰囲気に流され、ご自分を殺すことを強く訴えた群衆の一人一人をどう見ておられたのでしょうか。イエス様の十字架上での祈りの中に、このことばがありますね。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」  

イエス様は名もなき群衆という塊で見てられたはずがありません。

 そこにいる血の通った一人一人を知っていました。誰がどんな悩みを持ち、何が好きで何が嫌いで、どんな苦労をしているのか。何を頑張っているのか。一人一人にイエス様は関心を持っておられた。その一人のために十字架にいのちをささげたのです。

 もし、群衆がイエス様の心の中を覗くことができたのなら。この「愛の心」を見ることができていたのならと想像します。

 イエス様がどれほど自分を愛してくれているか。どんな思いで祈ってくれているのか。それを知ることができたら、彼らは決して「イエスを十字架につけろ!」などと言わなかったでしょう。 

 イエス様の愛を知る者となりましょう。この方を知り、神のみこころを知り、隣人に関心を持って歩んで行きましょう。この愛を知った者として、互いに愛し合いながら、進んで世界に対して愛を示してまいりましょう。




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