東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 詩篇113篇1-9節「主は、身を低くして」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/05/20

詩篇113篇1-9節「主は、身を低くして」

*** 5/19(水)祈祷会 説教概略 *** 
岡村 建 研修生
 
序論

私たちの主がほめたたえられるべき理由は、どこにあるのでしょうか。

 

本論

1節「ハレルヤ

   主のしもべたちよ ほめたたえよ

   主の御名をほめたたえよ」 

 「ハレル」ということばは「ほめたたえよ」という意味ですが、実はもう一つの意味が

あります。それは「光を放て」という意味です。

 詩人は、「主のしもべたちよ 主の御名をほめたたえよ 光を放て」と叫んでいます。

賛美こそが私たちに命ぜられている大切な務めだと言うことができるでしょう。私たちは

かつて、主以外の何かに仕えて生きていました。偶像の神々だったかもしれません。世の

価値観だったかもしれません。自分の正しさや、また、自分の理想だったかもしれませ

ん。いずれにせよ、主以外の何かに仕えて生きていました。けれども、それらが私たちを

生かすいのちや希望を与えることはありませんでした。

 以前、ある若者が残したこんな遺言を、新聞を通して目にしました。「死ぬ理由はない

けれど、生きる理由もないから死んでみる」。私たちは、主から離れていた時、生きる意

味を見出せず、存在価値もわからず、呻きながら生きていたと思うのです。

 しかし、私たちは主のしもべとさせていただきました。心から主を愛し、このお方のみ

ことばを大切にしながら生きる者とさせていただきました。そのような主のしもべとして

御名を心からほめたたえる。それが、この世に光を放つこととなる。ここでは、そのこと

が大切なこととして命ぜられています。

 もし、私たちが心からの賛美をお献げするならば、2節3節のことが起こるのだと詩人

は言います。


2節「今よりとこしえまで

   主の御名がほめられるように。

3節 日の昇るところから沈むところまで

   主の御名がほめたたえられるように」

 

 2節では主が時代を超えてほめられるようになっていくということが言われており、3

節では国を超えてあらゆる人々が主をほめたたえるようになっていくということが教えら

れています。主に造られたすべての被造物が、全領域において主をほめたたえるように

なっていくということです。

 この場で献げる私たちの賛美によって、世代を超え、さらに次の世代を超え、とこしえ

までも主がほめたたえられるようになるということ。また、神様のことが、この教会を超

えて、萩山町を超えて、市を超え、地域、国を超えて伝えられ、信じられ、ほめたたえら

れるようになっていくということです。

 

 詩人は、続く4節と5節で、主の高さ、偉大さをほめたたえています。

4節「主はすべての国々の上に高くおられ

   その栄光は天の上にある。

5節 だれが 私たちの神 主のようであろうか。

   主は高い御位に座し」

 4節では「」と「栄光」、「国々」と「」がそれぞれ対応し、同じ内容が繰り返され

ています。詩人は、主がすべての国々の上に高くおられると言います。その栄光が天の上

にあると言います。主は、地上の称賛を超えた天の上の本当に大きな誉れ、賛美を受ける

に相応しいお方だということです。異教の神々も、地上のあらゆる支配者も、主のように

はなれません。主だけが高い御位に座しておられるお方です。主は天地万物を造られ、す

べ治めておられるお方。ご自身のみことばによって、全被造物を確かに治めておられるお

方です。

 私たちの生活は今、このような状況下において、高いところに立ち物事を決断する、そ

の為政者の発する言葉によって大きく左右されています。しかし、世には多くの支配者が

あり、また多くの言葉がありますが、高い御位に座しておられるのは私たちの神、主で

す。

 私たちを正しく生かすために、私たちを正しく見て、みことばを語ってくださるのが私

たちの主です。そのことばは私たちをよく知り、愛し、生かすものです。ですので、この

地上のなにものも主のようにはなれません。

 このお方こそが全く聖く、栄光に富んでおり、全被造物より最も高くある。詩人はその

ようにして、2節3節では主の広さ、4節と5節では主の高さを歌い、このご性質ゆえに

主がほめたたえられるべきお方であると読者に教えてきました。

 ところが、驚くべきことに、詩人は主がほめたたえられるべき理由がむしろその高さに

ではなく、低さにあるのではないかと私たちに問いかけています。

6節「主は身を低くして 

   天と地をご覧になる」

 「身を低くして」ということばは、途中まで腰をかがめてということではなく、一番下

まで落ち切るような、そんな落ち方を表すことばです。主は、天の高いところから私たち

を見下しておられるのではなくて、私たちが一番低いところで、一番苦しんでいる時に、

そこまで降りてきてくださる。そんなお方だと、聖書は言うのです。

 高い御位に座しておられるお方が、降りてきてくださる。天にあるものも、地にあるも

のの、この地で私たちが経験するあらゆるものも、私たちの心の中にある、呻きや嘆きや

苦しみさえも、主が一番低いところまで降りてきてくださって、見ていてくださる。聞い

ていてくださる。

 さらに主は、ご覧になるだけではなく、その人々を抱き起こすことができるお方。新し

い力を与えて、起こすことができるお方であると詩人は言います。

7節「主は弱い者をちりから起こし

   貧しい人をあくたから引き上げ」


 「ちり」や「あくた」は何の価値もないものです。主は、ちり・あくたの中で這いずり

回りながら自分には何の力もない、何の望みもないと思っている弱い人を起こし、引き上

げてくださるお方だと言います。

 そして、主のしもべである私たちは、主がそのようにして私たちを救ってくださったこ

とを知っています。

 ここまでくれば救ってやろうということではなく、私たちが本当に無価値で弱く、貧し

く、自分では自分をどうすることもできなかったそのところに、主が来てくださった。高

い御位に座しておられる神の御子が、神としての天にも勝るその栄光を脱ぎ捨て、罪にま

みれた私たちのところに来てくださった。これ以上はないという高きところから、これ以

下はなしというこのところに来てくださいました。

 私たちの罪を代わりに負って、十字架にかかってくださり、「あなたの罪は赦された」

と宣言してくださり、「あなたは神に愛されている」と教えてくださり、そして、釘の跡

がある、その御手を持って、私たちを抱き起してくださった。引き上げてくださった。

 私たちは、そのようにして主に起こされ、引き上げていただいたことを知っています。

それゆえに、私たちは、主をほめたたえるのです。このような主の低さを、低さに現され

たこのみわざを、ほめたたえるのです。


 さらに、私たちの主は、私たちを起こすだけでなく、新しい望み、新しい使命、生きる

真の目的を与えてくださるお方です。

8節「彼らを 高貴な人々とともに

   御民の高貴な人々とともに 座に着かせられる」

 「高貴な人々」と訳されていることばは、「自ら進んで、何々をする」ということばで

す。モーセ五書では「進んでささげる献げ物」ということばで使われています。

 かつて、ちり・あくたの中で、自分には何の価値もない、生きている意味もないと思っ

ていた私たちが主を知らされて、主に救われて、新しいいのちを得させていただきまし

た。それだけでなく、8節で語られていることは新しい使命が与えられていくということ

です。


 今もなお、ちり・あくたの中で呻き叫んでいる人たちのために、自ら進んで何かをした

いと思うようになる。イエス・キリストを知ってほしいと心から願うようになる。また、

救われてもなお、苦しみにおり、主の恵みを見い出せない人のために、自ら進んでとりな

すことで、苦しみをともに担い、苦しみの中にある恵みを知らせ、やがて主への賛美にお

連れする。主は、まだ救いを知らない人のため、また神の家族のために仕える使命を、私

たちに与えてくださるお方です。

 私たちは、十字架の愛を知れば知るほど、罪の赦しを知れば知るほど、進んで何かをし

たいと思うようになります。義務感から無理矢理させられる務めではなくて、やめろと言

われてもやめることができないほど、自ら進んで、喜んで。主は、私たちをそのような者

としてくださいました。

 最後の9節に、主の恵みがもう一度言い表されています。

 「主は 子のいない女を

  子を持って喜ぶ母とし

  家に住まわせてくださる」

 子のいない女性は、古代のイスラエルにおいては大変苦しい、悲しい思いをしていまし

た。この先生きていて、良いことなどあるのだろうか。自分はこの家族の中に、居場所が

あるのだろうか。社会の中で自分は喜ばれているのだろうか。そのように悩みながら、苦

しみながら、生きていた人たちです。

 しかし、そんな人たちに、子を持って喜ぶ母のような喜びが与えられ、その家に住ま

う、平安や喜びが必ず与えられるのだと聖書は言います。実際に子を産むということもあ

り得るでしょうが、しかしここではむしろ、神の家族とされて、神の家である教会の中に

居場所が必ず与えられる。次の世代のために、また新しく救われた人々のために、その人

たちに喜んで仕えるその使命感が与えられ、賛美に満ちて感謝に満ちて歩んでいくことが

できる。大切な家族として迎えられ、大切な家族のために愛を持って生きることができる

ようにさせていただける。

「ハレルヤ」


 そのようにしてくださる主を、いや、そのようにしてくださった主を、ほめたたえよと

言われています。


結論

 私たちは、身を低くしてこれらのみわざを成してくださったこのお方に、一体何を持っ

て感謝を表すことができるでしょうか。暗闇にあってもなお、ひたすらに、このお方の御

名をほめたたえ、苦しみにある神の家族のため、またちりあくたにある地域の方々のた

め、とりなし、主のみもとに導く。そのことに尽きると思うのです。

 今から祈るひとときも、低さにおいて明らかにされた主のみわざをほめたたえ、隣人の

ためにとりなす幸いな交わりとさせていただきましょう。




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