東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ4章1-8節「聖さにあずかる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/05/27

Ⅰテサロニケ4章1-8節「聖さにあずかる」

*** 5/26(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅰテサロニケ4章1-8節「聖さにあずかる」

 この手紙の中心的著者はパウロですが、皆さんのパウロに対するイメージはどのようなものでしょうか。パウロは一見、情熱的に熱く、また厳しく指導しているように思えることがあります。

 しかしながら、彼の手紙をよくよく観察すると、パウロは相手の状況をよく理解し、十分な配慮と繊細さをもって、指導していることに気づきます。一律にマニュアル的な手紙を書いたのではなく、読者のためによく祈り、相手のことをよくイメージしながら、主の御霊の導きの中で記したのだということが伝わってくるのです。


そこに神様の愛とみこころが示されています。
そのことを心に留めつつ、みことばに聞きましょう。


1. 人を理解する愛

 
Ⅰテサロニケ4章1節
最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。

 今日の文脈では3節にあるように「聖なる者となること」がテーマとなっています。タイトルにもしました。ですからいきなり「聖くありなさい」と命じることもできたしょう。

 ところがこの1節をではどんな言い方で始めているのでしょうか。
「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから」とパウロは言います。「現にそう歩んでいる」と、兄姉たちを認め尊重していることがわかります。テモテからの話を聞いて、パウロはそれをしっかりとまず受け止め、認めて評価しました。

 案外、こういうことが簡単ではないように思います。つい自分の伝えたいことばかりが出てしまうことが多いものです。しかも、パウロは「主イエスにあってお願いし、また勧めます」謙虚に伝えていることが分かります。私たちも自分が取り組んでいることを全否定されれば、素直に教えに聞けないかも知れません。下手をするとやる気も失うでしょう。そう考えるとパウロは実に繊細に、丁寧に、思いやりをもってテサロニケの人々を教え導こうとしているのではないでしょうか。

私たちが人と関わる時、相手の状況、相手の環境、相手の考えや思い、その人の長所・短所、弱さ、それらを祈りのうちによく知り、相手を尊重しながら関わるということを教えられます。パウロがきちんと相手と向き合っていることがわかります。

牧師会でヨブ記から語られました。大切な家族や財産を失い、大病しているヨブに、彼の3人の友人が励ましに来ます。そしてヨブにあれこれ助言するのです。しかし、まさに上から目線。まるで自分たちこそが神の代弁者であるかのようで、神の顔を立てるかのように。

しかし、それは神の顔を立てるどころか、実は神理解についての自分の正しさを主張したいだけなのだということでした「誠実に歩んできたつもりなのになぜ私がこうなるのか?」と率直に嘆くヨブの主張よりも、俺たちの聖書理解、神理解の方がずっと正しいのだと言わんばかりだと。この態度は結局、ヨブをより悲しませ、神の摂理を見えなくしてしまいました。

パウロはテサロニケの兄姉に対して深い関心を持って、彼らのために祈り続けていたので、彼らにふさわしいアドバイスができたと言えるでしょう。



2. 神を理解する愛

 

 同時に、もう一つとても大切な点を覚える必要があります。相手を思いやり理解するだけでは不十分です。もう一つの大切なことは、神様のみこころを理解することです。相手を理解することが隣人への愛とするならば、こちらは神様を愛することです。

パウロは決して個人的な思いを伝えているのではないのです。パウロがここまで繊細に丁寧に気づかいながら「伝えたかったこと」とは何なのでしょうか。

それは主イエス様の命令、神様のみこころです。23節前半です。

Ⅰテサロニケ4章2-3節前半
私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。 

2節では「主イエスによって、どのような命令を与えたか」と、主イエス様からのものであることが語られます。3節ではより明確に、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」とはっきり言っていますね。これはレビ記のテーマとして、まさにみことばが語っていることです。パウロは現に主が語っておられること伝えているのです。

そして、この時に「聖なる者となること」を最初に強調しているのは、まさにテサロニケの兄姉たちの状況をよく理解しているゆえでしょう。彼らの多くは異邦人社会で育った人です。特に当時のギリシャは、性に対する奔放さ・乱れがかなりあったと言われます。

特にパウロたちがこの手紙を書く際に滞在していたコリントはひどい状況でした。教会の中でさえ愛人を囲う者たちがいたと言われます。近親相関のようなものがありました。自分の父親の妻を、自分の妻にする者があったとも言われます。非常に道徳的に荒れ果てた状況でした。 

そして、そうやって傷つけられるのは、いつでも弱い立場の者たちです。6節にこうありますね。6節 また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。

私たちが「聖さ」と聞く時に、しばしば誤解することは「聖さ」を極めて個人的なものとしてのみ理解することです。自分が聖い感じになるというイメージです。

でも、そうではないのです。レビ記191-2節では、「神が聖であるように、あなたがたも聖なる者となりなさい」とレビ記のテーマがまず語られます。その同じ文脈の中で、様々な具体的な歩みについて、語られていきます。父母を敬うことや、安息日を守ることから始まり、落ち穂を残しておくようにとの弱者への配慮、隣人を虐げてはらないという教え、体の不自由な人を軽んじるなとの話などです。「聖」とのことばが「カドーシュ」というヘブル語で、そこには「聖め分けられる」という意味が確かにあります。しかし、これは罪や汚れた習慣からの聖別であって、他の人を汚れた者として見下す、独りよがりの聖さではないのです。

この6節でも、自分の欲のために「兄弟姉妹を踏みつけたり、欺いたり」してはならないと教えられていますね。愛のない聖さなど存在しないのです。

踏みつけられ悲しい思いをするのは、子どもたちであり、やもめであり、逆らえない立場の人です。日本も離婚率がどんどん上がり、「離婚の自由」を主張する人も多くいます。離婚をあまりにも安易に選択することには賛成できません。

確かに背景には色々な事情がありますので、一律に言うことはできません。それでも、弱い立場の人への配慮は失ってはならないと思うのです。
「堅苦しいことなしに本能に自由に生きよう」と言えば聞こえがいいかも知れません。しかし、その背後で、社会的弱者が泣かされているのです。そうした弱者の犠牲の上に成り立つ愛のない自由であることに気づく必要があります。

なぜ不品行が良くないのか。なぜ、聖さからかけ離れた歩みがいけないのか。それは人をデザインされた神様を悲しませること。同時にそれは、弱い立場の人々をひどく傷つけてしまう愛のない行為だからです。

自由が人を傷つけてしまうなら、その自由は素晴らしいものとは言えませんよね。高校時代、私はバスケットボールにハマり、友人たちとよくやっていました。でも、ある時、「バスケのルールとかよくわかんねーし、自由にやろうぜ」と言い出す人がいました。結局そのわがままな自由の主張で、プレーは荒れてしまい面白くなくなりました。相手の体を羽交い絞めにして動きを封じたり、ボールを抱えて何歩でも動いていいなら、バスケの良さは失われ、単なる乱闘になります。

ルールを無視して自由だと叫べば、他の人を悲しませ、良い物を失わせてしまうのです。性の問題も同じです。神様はすばらしい良いものとして人を造り、性を与えられました。性というものも、神様の定めた良いルールの中で用いないならば、結局深く人を傷つけ、良さを失ってしまいます。

どれだけ泣き悲しむ人が多いことでしょうか。パウロはコリントの嘆かわしい状況に胸を痛めながら、テサロニケのクリスチャンたちが同じようになってはいけないと心配していたのでしょう。

それゆえパウロは4節でこう言っています。
Ⅰテサロニケ4章4節
一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち・・・ 

神様からいただいたからだを聖なる、そして「尊い」ものとして保つようにと励ましています。7節でも同様に語られていますね。

Ⅰテサロニケ4章7節
神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。 

ここでは消極的に、汚れないようにという事よりも、神様の聖さにあずかり、聖なる尊い存在として歩んでいくようにと前向きに教えています。主イエス様がご自身のいのちまでも十字架に注いで、私たちを救い出してくださったのは、悪を行わせるためではありません。欲のままに身勝手に歩ませるために罪の赦しを与えたのではありません。

神の聖さにあずかり、この世界に対して証しをするためです。

ところが、私たちは自分の内側を見ても聖さの欠片もありません。内側が汚れているので、ことばでも人を傷つけ、態度でも人を悲しませます。人を造られた神をこうして悲しませています。じゃあ、どうしたら聖くされるのでしょうか?

 7
節にあるように「聖さにあずかる」ということが大切です。自分の内にないのですから、聖さが満ちているところに行き、その聖さの恩恵にあずかることです。

 神様が私たちを救ってくださったのは、私たちを罪の汚れの中から救い出し、聖なる愛の光の中を歩ませるためでした。主の御霊によって内側から聖とされ、みことばによって聖さを教えられ、主とともに歩み続けましょう。



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