東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ23章26-31節「十字架への道~イエスの後に~」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/06/21

ルカ23章26-31節「十字架への道~イエスの後に~」

*** 6/20(日)主日礼拝 説教概略 *** 

ルカ2326-31節「十字架への道~イエスの後に~」

皆さんが最初に教会という場に集われた時、どのような理由、動機でいらっしゃったでしょうか。ある人は親に連れられて生活の一部のように集っていたでしょう。またある人は英語が学べる、手芸が学べるといった理由。ある人は友だちが欲しくて。ある人は誘われるがまま。ある人は義理で。ある人はすごく求めて。ある人は悩み苦しんで・・・


理由は様々でしょう
最初から聖書やイエス・キリストだけを求めて教会に集う人は実は多くはないのかも知れません。それどころか、ある人は仕事の営業のため、ある人は教会を見張り批判するため、ある人は教会に綺麗な人がいたから。そんな動機さえ聞いたことがあります。

それを指して「不純な動機だからダメだ」と考えるべきでしょうか? 

もちろん、不純な動機を推奨するつもりはありません。

けれども、そういう人たちでさえ生まれ変わらせる神の救いの力がここにあるのです。私たちは誰もが罪人ですので、誰もが純粋とは言い難い動機を持って来ていたのではないでしょうか。 

信じていても、そうかも知れません。

私も半分は義理で、半分は教会の子どもたちと遊ぶために来ていた時もありました。

しかし、そんな不純な者たちのために十字架にかかられたイエス様の純粋な愛に触れ、私たちは感動し、悔い改め、変えられて来たのです。

本日、イエス様が十字架刑へと歩んで行く場面です。

そこにイエス様の後について行った二組の姿が語られています。一組目はクレネ人シモンという人。二組目はエルサレムの女性たちです。果たしてその時の彼らの動機は何だったのでしょうか。今日はみことばから、どんな形であれ、イエス様と出会ったのならば、その恵みの機会を大切にするということ、そして主と出会うならば必ず主にあって変えられて行くという恵みを教えられて参りましょう。

 
1. クレネ人シモン
 
最初に登場する人物はクレネ人シモンです。
クレネは現代の北アフリカ(リビア)のあたりです。6節を御覧ください。

ルカ23章26節
26節 彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた

十字架刑は自分が磔にされる十字架の横木を担いで行くところから始まっています。しかし、激しくムチで打たれ血を流していたイエス様は既に体力の限界に近づいていました。そこでローマ兵は、イエス様の代わりにクレネ人のシモンに十字架を運ばせたのです。

このクレネ人シモンについては、決して情報が多くありません。それでもいくつかのことが分かります。まず彼は、決して自分から進んでイエス様の代わりに十字架を担いだわけではなかったのです。 

ここにあるように、ローマ兵が「彼を捕まえて負わせた」のです。マタイやマルコの福音書の並行記事では「無理やり負わせた」とさえ語られています。少なくともシモンは「自ら進んで」ではなく「やや強制的にやむを得ず」だったのです。

 それでも神様の摂理でしょうか。ルカはこの出来事を指して「この人に十字架を負わせて、イエスの後から運ばせた」と表現しています。十字架を担いでイエス様の後をついて行くその姿は、まるでイエス様の弟子のようにさえ見えます。本人が望んだことではないけれども、イエス様の代わりに十字架の重みに耐えて運んだのです。ここにも神様のご計画があったと言えるでしょう。

 実は、このシモンには少なくとも2人の息子がいました。マルコの福音書15:21によれば、アレクサンドロルフォスという2人の息子の名前があります。特にルフォスについては、後にパウロから非常に信頼されるようになる人物で、ローマ書でそのことが分かります。パウロから「主にあって選ばれた人ルフォス」と評価をされています。さらには、パウロはルフォスの母親とも親しく、なんと自分の母親のように慕っていました。クレネ人シモンは、自分から進んでではありませんでした。それでも、彼の妻とその子が主の熱心な弟子になった事実はなんと励まされることでしょうか。

これらのことを考えると、自分の意志とは無関係に十字架を背負わされたシモンでしたが、後に変えられ主の弟子になった可能性が高いと思われるのです。十字架を担いだ当時は言われるがまま、その意味も分からなかったでしょう。けれども、その奥さんと子どもは少なくともキリスト者になり、しかもパウロの親しい信仰の仲間、熱心なキリスト者になっていたことは疑いがなく、彼らの救いの事実が神のみわざを証しているのです。

キッカケはどうあれ、動機はどうあれ、イエス様と出会い、そこから恵みによって変えられて行った家族ではないでしょうか。 私たちも教えられます。模範的な導かれ方なんてありません。理想形などないと思うのです。どんな形であれ、イエス様と出会い、そこから求めればいいのです。劇的な奇跡体験が必要なわけでもなく、放蕩した時代がなければいけないのでもなく、順調に変えられて行く必要さえありません。

どんなプロセスであれ、それはあなたのために神様が用意された「完全オリジナルな救いのストーリー」です。あなたのためだけに用意されたもので、それだからいいのです。神様の導きは本当に不思議です。何がきっかけになるか分かりません。人のすべての考えにまさって、主の深い豊かなご計画が水面下で進んでいるのです。

クレネ人シモンもアフリカの田舎から出て来て、たまたま兵士に声をかけられ、訳も分からず十字架を背負わされた。でも、それは神の目には「たまたま」ではなかったのです。皆さんの家族や友人が、なかなかキリストを受け入れてくれず、悩むかも知れません。でも、もうみわざは起こっています。なぜなら、もうあなたが教会に来ているからです。どんなキッカケでもいい。もう主イエス様と出会っている。ここからもう始まっているのです!

 


2. 泣き女たち


 十字架に向かうイエス様の後をついて行った者たちとして、もう一つ別の一団がありました。

ルカ23章27節
27節 民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。

 この女性たちが何者なのか。ここは大変難しいところです。ただ言えることは、彼女たちはイエス様の弟子ではありませんでした。 第一に、当時のイエス様の弟子たちのほとんどはガリラヤから来た者たちでした。

 ところが、イエス様は28節のところで、彼女たちを「エルサレムの娘たち」と呼んでいます。イエス様がエルサレムに来てまだ数日です。エルサレムの住人がどれだけイエス様の十字架の意味を理解していたでしょうか。実際、イエス様と本当に親しかった弟子たちは近づけない状況にありました。同じ23章の49節を御覧ください。

ルカ23章49節
49節「しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」

ペテロが逮捕されそうになったことからも、本当の弟子はイエス様のすぐ側に近づきがたい状況があったと言えます。しかもここで「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」と語り「エルサレムの娘たち」とは明確に区別されていますよね。 

第二に、27節の「嘆き悲しむ女たち」という表現は、直訳すると「胸を叩いて悲しむ」といった言い回しで葬儀の時の表現です。確かに可哀そうにと感情的になったエルサレムの女性たちの可能性も否定はできません。しかし、むしろ「泣き女」と言われる職業の人々であった可能性が高いと思われます。

「泣き女」とは葬儀の時に演出のためにお金をもらって泣いてくれる職業の女性たちでした。ごく簡単に言うと「さくら」です。現代でも中国や台湾では存在するそうです。日本でも古い文献にその記録があります。

ある注解書では、この女性たちは、まだ生きているのに、まるでイエス様が既に殺されたかのように列をつくり、ある種の嫌がらせのようにしているとさえ解釈しています。

 そして、何より第三の根拠は28-31節で、イエス様がエルサレムの娘たちに語った厳しい内容です。それは信じている弟子に向かって言う内容ではありません。明らかに信じていない者たちへのことばであると分かります。

 28節では「わたしのために泣いてはいけません。むしろ、自分自身と自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われました。

 それは、哀悼の意を言い表す相手はわたしではなく、あなたがた自身です!という意味です。イエス様は死から確かによみがえるので、泣く必要がない。けれども、信じていないアナタがたは、神の怒りが啓示されているのだから、自分たちの滅びに向かう現状に真剣に涙せよ!というのです。 

 29-31節でも、神に敵対することがどれほど恐ろしいことかを語っておられます。

 例えば30節では、ホセア書を背景にし「山や丘に向かって崩れて、私をおおいなさい」と人々が言い始めるとあります。その意図は、土砂崩れによって自分たちの罪深さという恥を覆って欲しいと思うほどだということです。「穴があったら入りたい」という心境に似ているかも知れません。

ルカ23章31節
生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか

 これも旧約のエゼキエル書を背景にしています。その文脈から理解すると、「生木」というのは「いのちのある木」でイエス様(と救われている者)のことです彼らでさえ罪の世の影響の中で、様々な苦しみを通る。そうであれば、キリストを信じないでいる「枯れ木」のようなあなたがたはどれほど深刻であろうかと言うのです。

 だから、現実を知り自分と家族のために泣きなさいと言うのです。しかしここに、失われている者への「主の愛」があると言えます。ここにさえ主の愛があるのです。厳しさの中にも、自分たちの置かれている状況を理解し、罪とその滅びに向かう現実のために泣きなさい!そうして、わたしに立ち返り、慰めを得よ!救いを得よと伝えているのです。主は十字架への悲しみの道にありながら、その最後の一歩に至るまで、ご自分のことではなく、罪の縄目の中にある人々に心を向けておられるのです。

 もしかしたら、祭司長たちにお金で雇われた泣き女たち。イエス様への嫌がらせのためだったかも知れません。それでも、彼女たちもまた主イエス様のこのことばを聞いた人々です。彼女たちが過ちに気づき、立ち返ることをイエス様は誰よりも願ったはずです。

 今日イエス様の後について行った二組の人々は、どちらも自分の意志で自発的にではありませんでした。十字架の意味も、そこにある主の愛もよく分かっていなかったでしょう。

 それでも、この出来事を通して、後になって彼らが救いに導かれたのならば、神様は何も過去を責めることなく、彼らを両手を広げて大歓迎されたはずです。

 私たちも時に純粋な愛の動機でイエス様に従えないことがあります。教会にも義務感や習慣や、不純な動機で来ることがあるかも知れません。喜びがない時もあるでしょう。それでも求め続けてください。そこが始まりでいいのです。そういう時期があっていい。仕方なく、なんとなくという時代もある。それでもイエス様はあなたを愛し続けておられることを忘れないでください。その中でイエス様の深い愛にどこかで気づき、自分の罪の深刻さに気づき、そうして心から方向転換してイエス様について行く者になればいいのです。

 あなたがイエス様を忘れても、イエス様はあなたを忘れません。





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