本日、イエス様が十字架刑へと歩んで行く場面です。
そこにイエス様の後について行った二組の姿が語られています。一組目はクレネ人シモンという人。二組目はエルサレムの女性たちです。果たしてその時の彼らの動機は何だったのでしょうか。今日はみことばから、どんな形であれ、イエス様と出会ったのならば、その恵みの機会を大切にするということ、そして主と出会うならば必ず主にあって変えられて行くという恵みを教えられて参りましょう。
それでも神様の摂理でしょうか。ルカはこの出来事を指して「この人に十字架を負わせて、イエスの後から運ばせた」と表現しています。十字架を担いでイエス様の後をついて行くその姿は、まるでイエス様の弟子のようにさえ見えます。本人が望んだことではないけれども、イエス様の代わりに十字架の重みに耐えて運んだのです。ここにも神様のご計画があったと言えるでしょう。
実は、このシモンには少なくとも2人の息子がいました。マルコの福音書15:21によれば、アレクサンドロとルフォスという2人の息子の名前があります。特にルフォスについては、後にパウロから非常に信頼されるようになる人物で、ローマ書でそのことが分かります。パウロから「主にあって選ばれた人ルフォス」と評価をされています。さらには、パウロはルフォスの母親とも親しく、なんと自分の母親のように慕っていました。クレネ人シモンは、自分から進んでではありませんでした。それでも、彼の妻とその子が主の熱心な弟子になった事実はなんと励まされることでしょうか。
これらのことを考えると、自分の意志とは無関係に十字架を背負わされたシモンでしたが、後に変えられ主の弟子になった可能性が高いと思われるのです。十字架を担いだ当時は言われるがまま、その意味も分からなかったでしょう。けれども、その奥さんと子どもは少なくともキリスト者になり、しかもパウロの親しい信仰の仲間、熱心なキリスト者になっていたことは疑いがなく、彼らの救いの事実が神のみわざを証しているのです。
キッカケはどうあれ、動機はどうあれ、イエス様と出会い、そこから恵みによって変えられて行った家族ではないでしょうか。 私たちも教えられます。模範的な導かれ方なんてありません。理想形などないと思うのです。どんな形であれ、イエス様と出会い、そこから求めればいいのです。劇的な奇跡体験が必要なわけでもなく、放蕩した時代がなければいけないのでもなく、順調に変えられて行く必要さえありません。
どんなプロセスであれ、それはあなたのために神様が用意された「完全オリジナルな救いのストーリー」です。あなたのためだけに用意されたもので、それだからいいのです。神様の導きは本当に不思議です。何がきっかけになるか分かりません。人のすべての考えにまさって、主の深い豊かなご計画が水面下で進んでいるのです。
クレネ人シモンもアフリカの田舎から出て来て、たまたま兵士に声をかけられ、訳も分からず十字架を背負わされた。でも、それは神の目には「たまたま」ではなかったのです。皆さんの家族や友人が、なかなかキリストを受け入れてくれず、悩むかも知れません。でも、もうみわざは起こっています。なぜなら、もうあなたが教会に来ているからです。どんなキッカケでもいい。もう主イエス様と出会っている。ここからもう始まっているのです!
ペテロが逮捕されそうになったことからも、本当の弟子はイエス様のすぐ側に近づきがたい状況があったと言えます。しかもここで「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」と語り「エルサレムの娘たち」とは明確に区別されていますよね。
そして、何より第三の根拠は28-31節で、イエス様がエルサレムの娘たちに語った厳しい内容です。それは信じている弟子に向かって言う内容ではありません。明らかに信じていない者たちへのことばであると分かります。
28節では「わたしのために泣いてはいけません。むしろ、自分自身と自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われました。
それは、哀悼の意を言い表す相手はわたしではなく、あなたがた自身です!という意味です。イエス様は死から確かによみがえるので、泣く必要がない。けれども、信じていないアナタがたは、神の怒りが啓示されているのだから、自分たちの滅びに向かう現状に真剣に涙せよ!というのです。
29-31節でも、神に敵対することがどれほど恐ろしいことかを語っておられます。
例えば30節では、ホセア書を背景にし「山や丘に向かって崩れて、私をおおいなさい」と人々が言い始めるとあります。その意図は、土砂崩れによって自分たちの罪深さという恥を覆って欲しいと思うほどだということです。「穴があったら入りたい」という心境に似ているかも知れません。
もしかしたら、祭司長たちにお金で雇われた泣き女たち。イエス様への嫌がらせのためだったかも知れません。それでも、彼女たちもまた主イエス様のこのことばを聞いた人々です。彼女たちが過ちに気づき、立ち返ることをイエス様は誰よりも願ったはずです。
今日イエス様の後について行った二組の人々は、どちらも自分の意志で自発的にではありませんでした。十字架の意味も、そこにある主の愛もよく分かっていなかったでしょう。
それでも、この出来事を通して、後になって彼らが救いに導かれたのならば、神様は何も過去を責めることなく、彼らを両手を広げて大歓迎されたはずです。
私たちも時に純粋な愛の動機でイエス様に従えないことがあります。教会にも義務感や習慣や、不純な動機で来ることがあるかも知れません。喜びがない時もあるでしょう。それでも求め続けてください。そこが始まりでいいのです。そういう時期があっていい。仕方なく、なんとなくという時代もある。それでもイエス様はあなたを愛し続けておられることを忘れないでください。その中でイエス様の深い愛にどこかで気づき、自分の罪の深刻さに気づき、そうして心から方向転換してイエス様について行く者になればいいのです。