東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ5章12-13節「良い聞き手が良い語り手を育てる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/23

Ⅰテサロニケ5章12-13節「良い聞き手が良い語り手を育てる」

 *** 6/23(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰテサロニケ512-13節「良い聞き手が良い導き手を育てる」

 今まで経験したことのないことですが、コロナの影響によって、カメラの前だけでみことばを語る機会がありました。聴衆がいない中でカメラに向かって話す。それはこんなに難しいものかと思わされました。逆に言うと、席に座って真剣に聞いてくださる一人一人の存在によって、支えられ成り立っているのだと意識させられました。説教は一方通行ではなく、そこにいる聞き手があって説教としての意味を持つことを思わされます。


パウロはここで「みことばを指導する者」に対する姿勢について勧めています。

Ⅰテサロニケ5章12-13節
12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい

 主にあってみことばの指導のために労している人を尊びなさいと勧めています。
 12節の最後の「重んじる」という部分は、以前の訳では「認めなさい」でした。確かに原語の持つ意味は「認める」で正しいと思います。でも、その意味は「本当の価値を認める」といった意味に理解すべきでしょう。それは、聖書的な価値観で指導者を理解するということです。

 そしてまた、「認める」という表現だと少し「上から目線」な印象もありますよね。例えば、上司が部下を「認める」、親が子を「認める」とは使いますが、その反対「部下が上司を認める」、「子が親を認める」だと少し違和感がありますよね? そのあたりの日本語訳を吟味した結果「重んじる」と訳したのではないだろうかと思うのです。

そして、13節につながりますが「愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」と勧められています。カトリック教会などでは聖職者については明確な階級による区別を設けています。制度を設けてそれによって尊敬を示すのはある意味分かりやすい方法です。

しかし、私たちはそのような階級や制度によって尊敬を現すのではなく、愛によって現わすべきだと考えるのです。むしろ、制度では実現できないような、自発的で心のこもった愛からの尊敬を、みことばを語る者、霊的指導者に対して持ちたいと考えているのです

 しかしながら、ここは最も難しい部分ですよね。

 制度や決まりで尊敬を表す方が葛藤もなく簡単なのです。

 また、私たちの古い肉の思いにおいては、やはり指導されたくない、自分は正しくやっていると思うものです。私自身を振り返ると、謙虚に指導を受けることは簡単ではなく、内なる戦いを覚えたことがこれまでに幾度もありました。言われていることが当たっている時ほど、案外反発してしまう思いがあったのを思い出します。

では、どうしたら出来るのでしょうか? 一つは「愛をもって」であると学びました。

もう一つのことが13節の最初にあります。大切なヒントです。

「その働きのゆえに」と語られているのです。「その働きのゆえに」この上ない尊敬を払いなさいと。実は、その人の人格(人柄)のゆえにとか、その人の能力のゆえにとはどこにも書かれていないのです。その人のなした成果ゆえにでもないのです。

その働きに携わるゆえにです。

多くの場合、尊敬できる相手で居てくれたら尊敬しますという発想を持ちます。非常に優秀であるならば、尊敬に値するような人柄や成果をあげていたならば、尊敬するという発想が一般的な価値観でしょう。でも、それは「認めて上げる」と似ていて、上から目線の「尊敬らしきもの」に過ぎません。

しかし、聖書はそうは教えません。その人の人柄や能力、成果ゆえではない。その人がしている「働きの性質」ゆえに尊ぶのです。

その働きの性質とは「主のことばに仕えている」ということです。

 研修生をお迎えしてあっという間に3か月が過ぎようとしています。彼はまだ20代と若く、ともすると自分の子どもの世代に近いぐらい。年齢からしたらまだ若い。経験も多くない。じゃあ尊ばないのか? そうではないのです。

 彼が「主によって立てられた霊的指導者、みことばを教える者」だから、私たちは尊ぶべきであります。見た目が立派だから、スーツを着ているからでもなく、語り方が上手いからでもありません。実際そうだとしても! その方が主のみことばを教える使命を受け、それを一生懸命されているなら、そのゆえに十二分に尊敬を払い、指導に従うべきであるとパウロは言うのです。

逆に言うと、これを言わなければいけない状況がテサロニケにはあったのでしょう。パウロは言わなくてもいいことは「書き送る必要はありません」とのことばで済ませていました。しかし、あえて書き送るのは、必要な状況があったからではないでしょうか。

パウロたちの後継の指導者は大変でしょう。

しかも、自分たちの中から立てたリーダーだと、余計にそうかも知れませんね。

でも、その人云々ではなく、その働きのゆえに尊ぶ。

みことばへの敬意のゆえに尊ぶのです。

 13節の最後には「また、お互いに平和を保ちなさい」とあります。
 指導する側、指導される側。この関係は時として難しいものです。指導されること自体をネガティブに捉えることもあり、指導する側も言い方や謙虚さを常に問われます。

 12節にあるように、みことばのために日夜「労苦」する者であるべきでもあります。私もいつも問われます。しかし、そこにお互いが理解を示し、みことばの教えのゆえに尊敬を払い合い「主にある平安」を保つことを求めていく必要があるということです。
 
 研修生をお迎えして、この3か月間過ごさせていただいた時に、私自身も教えられることが多くありました。一つには彼が謙虚に私の声に耳を傾ける姿勢を持ってくださったゆえに、私も非常に教えやすかったということです。

 自分の方が良く分かっていると思っている人を指導することはかなり難しいと思います。

しかし、学ぶ姿勢を謙虚に持ってくださると、教える者はようやく教えることができる。心を込めてお伝えすることができるようにされるのです。つまり、導き教えることは、一方通行では無理だと言うことです。まさに教える者と教わる者との間に「平和」が必要なのです。

主の助けと受け止めてくださる姿勢のゆえに、伝えることができたのだと教えられていました。そして、おそらく研修生も、この教会の兄姉たちが謙虚に、研修生から教わる姿勢を示してくださったことで、多くを学ばせていただいたのではないでしょうか。

教会は牧師や宣教師、教師たちのパーソナリティ一つでどうにかなるものではないのです。聴く者たちの尊い愛の協力、一人一人の祈りがあって初めて力が発揮され、用いられるのです。良い聞き手が、良い指導者を育てるのです。

 イエス様ご自身も、尊ばれない生まれ故郷などでは非常に難しいことをおっしゃっていました。
マタイの福音書13章57-58節
57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」 
58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった

 時に距離が近過ぎて敬意を払うことができないという状況が起こるということでしょう。良き聞き手がおらず、それゆえに預言者は思うような働きができないことがありました。イエス様でさえ自分の郷里では多くの奇跡をなさらずに去りました

繰り返しになりますが、主の働きにおいては、一人の熱い信仰指導者がいれば上手くいくというものではありません。一人一人の良い聞き手によって、祝福が広がり、教える者を育てるのです。みことばへの各人の応答している姿にも慰められ、支えられているのです。そして、そのような素直に敬意をもってみことばを聞く姿勢は、聞く者自身を育て祝福をもたらすのです。 

ヤコブの手紙1章21節
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます

私たちは誰もがまず聞く者であります。牧師もまた、神様ご自身から語られ指導されるべき者。教える者だからこそ、誰よりも教えられやすい器であることが必要です。

同時にまた、私たち誰もが語り伝える者でもあります。後から教会に来られた方に、求道者、未信の方に、誰もが語る機会があるでしょう。
語る者への尊敬を失わず、素直にみことばを受け入れること。
自身が語る時には、労苦を惜しまず、聞き手の存在によって支えらていることへの感謝を忘れないこと。互いに主にある平和(平安)を保ちたい。



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