*** 6/9(水)祈祷会 ***
Ⅰテサロニケ4章13-17節「再臨の主にある望み」
本日のみことばから、再臨される我らの主にあって、本当に大きな望みがあることを覚えます。そしてこの望みをもって互いに励まし合うことを教えられましょう。
1. キリストの再臨 ~そこにある望み~
パウロはここで終わりの時に、主キリストによる再臨があることに触れ、望みを失わないように語っています。おそらくパウロたちが宣教したときには、暴動のせいで3週間ぐらいしか滞在できませんでしたので、テサロニケの兄姉たちに、この点について十分に教える時間がなかったのでしょう。
「世の終わりの話(終末論)」というのは、聖書でも黙示録は最後の書物ですし、信仰12か条でも11-12条です。たいていの場合、終末論は学びの中で後半の方に学ぶことになるでしょう。ですから、伝えきれていなかった部分もあったのではと推測します。
Ⅰテサロニケ4章13-17節
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
「知らずにいて欲しくない」と語る以上、知らない人が少なからずいたということでしょう。「眠っている人」とは死者のことです。しかし、「眠っている」と表現するのは、どうしてでしょうか?それは、目覚めることを前提にしているからです。つまり、キリストを信じて「死」という眠りについた者は、その死から目覚める時が必ず来るということです。
Ⅰテサロニケ4章14節
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
2. 主のことばをもって互いに励まし合おう
続く15節によれば、パウロはここで自分の考えを語っているのではないと分かります。「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます」とある通りです。
多くの人は死生観について、自分なりの考えを持っていることでしょう。死んだら無になる、死んだら仏になるなど。しかし、それらはどれも「その人の考え」に過ぎません。
学生時代に友人と死後の世界について語り合ったことがあります。それぞれ自分なりの考えを話しました。聞いていて一つ分かったことがあります。どの意見も最後に「と思う」と結んでいることです。未経験であり、根拠がないので「こう思う」としか言えないのが人間なのだということです。
私も自分の知恵では、まるで不確かなことしか言えません。正直自分の考えではわからない世界でした。けれども、聖書には根拠があり、明確に語れていることに気づきました。世界のベストセラー、奇跡の書である聖書。神のことばである聖書が世の終わりや死後のことを明示していることは力強い証言です。神のことばがあることはなんと幸いなことでしょう。
パウロは「自分の考え」を伝えているのではなく「主のことばによって」伝えているのです。神のことば、聖書の約束。主イエス様の教えに根ざして伝えているのです。
Ⅰテサロニケ4章16-17節
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
Ⅰテサロニケ4章16-17節
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。