東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ホセア書6章6節「神を知る喜び」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/14

ホセア書6章6節「神を知る喜び」

 *** 6/13(日)主日礼拝 説教概略 ***


 昨日、夕方に教会の外に出て祈りながら散歩をしました。そよ風がとても心地良く感じられました。そして、そよ風とともに、風が木々の葉を揺らす音を聞きました。その音もまた心を安らがせてくれました。同時に自分の体にぶつかって来る風の音と、木々の間をすり抜けていく風の音が違うことに心が留まりました。


 冬場の森では「ヒュ~」という物悲しい音、木枯らしのイメージがありますよね。でも、葉が生い茂る森では「ヒュ~」という音をあまり聞かないですよね?その違いは何でしょう。実に、葉が生い茂っているのかどうかです。 

 冬場の風は枯れ木の間を鋭く通りすぎ「ヒュ~」という鋭い不気味な音になるそうです。しかし、葉が沢山生い茂っている季節の場合、多くの葉が風の振動を吸収することで鈍い音・柔らかい音に変化するということです。

 そして、そうした風の音の変化によっても人は季節の違いを感じられるわけです。風の音一つとっても、細部に至るまで神様の緻密な設計があることに気づきます。このような豊かな世界を造られた神様は一体どのようなお方なのでしょうか。

 本日のテーマはズバリ「神様はどういうお方なのか」です。神を知る喜びをご一緒に味わって参りましょう。


1. 神を知る喜び

今朝、朗読していただいたホセア書66節のみことば。ここから神様がどういうお方なのか。ハッキリと一つ知ることができます。

ホセア書6章6節
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。

このみことばにしっかりと耳を傾けるならば、しばしば私たちが神様のことを誤解しているという事に気づくかも知れません。「わたしが喜びとするのは真実の愛」だと語られます。ロマンチックな感じすらしますよね。

「人が差し出すささげ物より、むしろ、神を熱心に求めて神を知ること」これを喜びとされるお方です。ですから、どれだけ献金をささげたか、どれだけ良い成果をあげたか、どれだけ奉仕したか・・・そういう成果や功績ではなく、神様に対するアナタの愛。これこそ神様が最も喜ばれるものなのです。

そして、主は「わたしを知って欲しい」と言われているのです。それは、神様がアナタを愛おしく思っているからです。どんなに罪深くても、どんなに未熟でも、神様に向かって求めていく姿勢を本当に喜んでくださるお方です。

どうでしょう?これを知っただけで、少しほっとしたり、皆さんも嬉しくなったりしませんか?私はこういうお方なのだってわかった時、本当に嬉しかったのです。私たちが神様のことを知るならば、神様ご自身も喜んでくださり、私たちも嬉しいのだということです。

逆に神様を知らなければ、愛についても真理についても、善悪についても「的外れ」になります。その的外れな歩みが私たちを不幸にしてしまうのです。誰もが幸せというゴールを求めて努力します。けれど、そのゴールが間違っていたなら、絵に描いた幸せの裏は泥沼だったら、どんなに努力してもむなしくなります。的外れだからです。実に、聖書で「罪」というものが「的外れ」の意味を持っていることには意味があります。罪とは神様の基準から、大きく外れていることを言うわけです。愛しなさいと語られているのに、人に無関心であること。赦しなさいと言われているのに、赦さないでいること。神の目にアナタは高価で尊いと言われているのに、「自分は最悪だ」と思い込んでいること。

すべては、「神様を知らない」ことから来る「的外れ」な生き方ですよね。

イスラエル人は神を知っているつもりになり、的外れな歩みをしました。罪を重ね神様を悲しませ、自分たちの国を失ってしまった歴史があります。同じホセア61節では「さあ、主に立ち返ろう」と語られています。それは「神を知っているつもりの民」に向かって「さあ、主に立ち返ろう」と呼びかけているのです。「立ち返る」という表現からも、本来あるべきところに戻ろうという招きだとわかりますよね。ですから、私たちもわかったつもりにならず、神様を求め知り続けていきましょう!

 

ここからは、おもに詩篇139をご一緒に開きながら語られて参りたいと思います。

2. 創造主なる神

 神様は全世界の「創造主」でいらっしゃいます。日本では山の神とか海の神とか受験の神、安産の神、ついには台所やトイレの神までありますね。日本には総人口より多くの神々があるとさえ言われます。しかし、まことの神様は海や山といった自然そのものではなく、それらを造り御手に治めておられる方です。朽ちていく有限な被造物ではなく、永遠で無限の神様です。受験の神、安産の神といった部分的な能力しかない方ではなく、すべてにおいて完全な全知全能なるお方です。 

まだ若い青年だった頃、新島譲さんは聖書と出会い、創世記11節に感動しました。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1今まで、日本ではあまり聞いたことのないスケールの大きな、圧倒的な神の存在です。彼は日本のこれからの発展のためには、この聖書の価値観を学ぶ必要があると考え渡米しました。やがて彼はクリスチャンになり、聖書の価値観に根ざして同志社大学を創設しました。造り主なる神様は、この世界だけでなく人間をも造られました。今開いている詩篇13913-16節を読んでみましょう。

詩篇139篇13-16節
13 あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。
14 私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは それをよく知っています。
15 私が隠れた所で造られ 地の深い所で織り上げられたとき 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
16 あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。

 神様が丁寧に人を造られたことを語る描写です。アメーバから突然変異という偶然の連続で進化し続けて今に至るとは聖書は言いません。偶然の産物、たまたまではないのです。

 14節で「あなたは私に奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです」とあります。「奇しい」とは、まさに「奇跡」だということです。人とは、偶然ではなく奇跡で出来ている存在なのです。人の存在こそ神の奇跡のみわざだと言えるでしょう。本当にすばらしい、尊い存在として、神様に丁寧にデザインされているのです。

 神様のご意志で、豊かなデザイン性をもって、すばらしい機能を備えてもらって、今ここにいるのです。だから人には価値があります。神が愛を込めて造られたのですから。

 体内の血管が、あまりにも細かく体の隅々まで行き渡っているので、一人の人の血管を全部まっすぐに伸ばすと、なんと地球を2周半できるほどの長さと言います。私たち一人の血管で地球2周半可能!想像できないほどスケールが大きなものが、この小さな体の中に詰まっています。

 16節からもわかるように、神様はアナタがお腹の中に居る時から、小さな点に過ぎないような時から、生まれる前からアナタを知っており、あなたのために毎日を用意されているのです。

 

3. 全知全能、無限で永遠の神

  神様は全知全能で、すべてを知り尽くし自在に何でもできます。詩篇1391-6を味わいましょう。

詩篇139篇13-16節
主よ あなたは私を探り 知っておられます。
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは 私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。 

 私たちの一部始終をいつでも、完全に把握しておられることがわかります。私たちの悩みの細かい部分も、苦しみの理由も、誰にも理解してもらえない孤独もすべて知ってくださいます。

 3節に「私の道のすべてを知り抜いておられます」とある通りなのです。私たちは何かもご存じの神様の御腕につかまり、安心して導かれればいいのです。また、4節では「ことばが私の舌にのぼる前に」主はすべて知っておられるとあります。心の思いを見抜ぬいておられ、同時に未来を見抜いておられると分かります。

 ですから、私たちは安心して神様に祈れるのです。ことばが上手く出せないことがあります。ことばが足らず、整理できません。こんなことばで祈っていいのだろうかと思えます。でも、大丈夫ですね。ことばが舌にのぼる前に、思いを見抜いておられるのです。

 うまく言い表せない、呻くような祈り。苦しい時そうなります。それでも大丈夫、その祈りを主が読み取ってくださるのです。呻くような祈りでさえ、神様は思いを読み取り聞いてくださるのです
 
 そして、このお方はあなたから離れてどこかに行ったりしません。あなたを見失ったり、届かなくなったりしません。無限のお方ですから物理的な制限など受けません。いつでもどこでも、あなたの側にいてくださるお方です。

詩篇139篇7-10節
7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
8 たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。
9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも
10 そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。

 神様は私たちが地の果てに住まおうとも、私たちを見失うことはありません。主は信じる者を手放すことなど決してありません。そして、主はあらゆる所に同時に存在し得る「偏在性」という無限のご性質をお持ちです。

 今、私たちが日本で礼拝し祈っている。じゃ、この瞬間、神様は他の国にはいないのでしょうか?「神様は今、日本に出張中で欧米にはいません」なんてことがあるのでしょうか?いいえ。神様は同時にあらゆる空間に存在できるご性質があるので、世界中どこに行っても、どの瞬間でもそこにおられるのです。

 安心ですよね。朽ちることのない、年を取ることのない、変わることのない永遠の神様。制限を受けない全知全能、無限の神様。
 
 それでいて、良いお方。愛に満ちているお方。この方を「お父様」と親しく呼べる者は、なんと幸せでしょうか。この方は奥深く、知れば知るほどに感動します。この方を知る喜びをますます味わって参りましょう。





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