東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ5章1-11節「光の子として」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/16

Ⅰテサロニケ5章1-11節「光の子として」

*** 6/16(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰテサロニケ5章1-11節「光の子として」

「光の子」として歩むというテーマで教えられてまいります。
みことばの光、キリストの光に照らされつつ歩んでいきましょう。

Ⅰテサロニケ5章1-2節
1節 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
2節 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです

 再臨される詳細な日時、時期は誰にも分かりません。まるで「盗人が夜やって来るよう来る」と言います。そしてその事実については、テサロニケの兄姉たちもよく知っていたようです。パウロはそれを確認するかのように「書き送る必要性がありません」と前置きしています。実際のところ「終わりの日」の明確な日時はわからなくていいものです。むしろ「わからない方がいい」という主のみこころなのです。

このみことばを味わいましょう。


申命記29章29節
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである

 神様は全知全能で完全な方ですからミスはありません。うっかり書きそびれた、忘れたということもありません。書いてないことは、意図的に書かせていないのです。それは知らなくていいことであり、知らない方がいいことであり、沈黙することによって伝えられる何かもあるでしょう。ですから、みことばにないことを好奇心から探ろうとしすぎて、推測に推測を重ねてしまうことにも慎みが必要です。

 あえて沈黙されていることを謙虚に受け止めることも信仰なのです。わからないことを「わかりません」と答える謙虚な信仰も大切ですね。

ここでも、再臨の日がいつなのか具体的に分かってしまうならば、私たちは弱いので、それまでの歩みが自堕落なものになってしまうでしょう。いつか分からない・・・だから、いつでも目を覚まし備えていようとの姿勢が生まれます。人の弱さをよくご存知の主の配慮であると言えます。

 

3にはこうあります。人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき突然世の終わりの破滅が襲うのだと。「破滅が襲う」という表現から、これはキリストを信じている者に起こることではないと分かります。根拠なく「平和だ、安全だ」ということほどある意味怖いことはありません。

これは旧約聖書時代、預言者たちの大好きなことばでした。

預言者エレミヤが「罪を放置してはいけない!悔い改めて主に立ち返なさい」と涙の訴えをしている時に、偽預言者は平然と言います。「悔い改めなどしなくても、ずっと平和が続きますよ!あなたがたは安全ですよ!」と。人々の歓心を買いたくて、ほめられたくて偽預言者はそう言い続けました。人の望むことを言っていれば、喜ばれる。そんな安易な発想です。 

しかし、それゆえに主を信じることを先延ばしにし、悔い改めることをしなくなってしまうならば、偽預言者はなんと罪深いことでしょうか。救われるはずの人が、救われなくなってしまう。こんなに残念なことはありません。

主の日は人のこのようなおごり高ぶりや幻想を打ち砕きます。人の「大丈夫だろう」という見込みがいかにアテにならないものであるかを教えてくれています。

実際、私たちも多くの災害、ウイルス、病気、事故、戦争。それらがひっきりなしに起こっている現実をわかっているはずです。コロナウイルスの問題は、ある意味ゆるい平和ボケの私たちに、一石を投じる世界規模の出来事でした。その評価は難しいです。けれど少なくとも、私たちは「当たり前」と思っていたことが取り上げられる現実を知りました。それを、目を覚ます機会とすべきだと考えてはどうでしょうか。家族をもっと大切にしよう。人との時間や関りを大事に生きよう。

このことを通して、そのように私たちが変えられるならば、この苦しみを無駄にしないで済むのではないでしょうか。

 ですから、4節以降のことばにしっかりと目を留めたいと思います。パウロは世の終わりの確かな現実を話すとともに、安心できる道があることを確認しています。4-5節。

Ⅰテサロニケ5章4-5節
4節 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません5節 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません

 パウロは断言します。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のように襲うことはありません!と。盗人に襲われるのは真っ暗闇の夜の民である。あなたがたはキリストを信じた「光の子」「昼の子」なので大丈夫だと言うのです。主の日は、深夜に襲ってくる盗人のように来る。だからいつも昼間の光の中に目を覚まして生きているならば、何も心配はない。このように励ましています。もちろんそれは、実際に眠ることなく24時間起きていることを指しているわけではありません。安心してください。

それはキリストを信じて、信仰の目を覚まして歩むことを指しています。ですから、まだキリストを信じていない人に、光の道を紹介したいのです。

ある青年が救いの証しをしてくれた時、こういう話をしてくれました。自分はずっと闇の中を歩んできた。でも、闇の中を歩んでいるという自覚すら持つことなしに、闇の中にいることさえわからずに歩んできたと。そして、光を知って初めて「ああ自分は闇の中を歩んでいたのだ」と気づいたと。

 光の子らである私たちとの出会い、交わりを通して初めて、闇の住人は自分たちが闇の中にいたのだと気づくものなのかもしれません。厳密には私たち自身が光なのではなく、私たちの内におられるキリストの光のゆえに、闇から解放されているのですが。

 ただ、キリストを信じていても、みことばの約束を知らないまま自分の思い込みに頼っていると、まるで闇の中を歩んでいる人のように恐れや不安の中に生きてしまうことがあります。ある人が必死にアルバイトをして豪華列車の旅に出ました。しかし、さすがに一等席のチケットは買えず、最も安いチケットでした。それでも部屋は快適で楽しんでいたのですが、皆が豪華な食事をしている中、自分は持ち込んだ非常食で過ごしていました。ところが、実はそのチケットにはフリードリンクや食事をする権利がついていたのです。知らないでいたために、何日もドリンクを楽しめず、食事は自分で用意したもので我慢していたのです。せっかく得たすばらしいチケットも、その価値を学ぶことなしには大変もったいないことになってしまいます。神の子、光の子とされた者には圧倒的な恵み、特別な権利が用意されています。しかし、みことばを学ばなければ、その権利を知ることができず、それどころか間違った使い方さえしてしまうでしょう。

 ですから、パウロはこう言います。6-7

Ⅰテサロニケ5章6-7節
6節 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7節 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです

 ほかの未信者のように、神を知らない者のように、信仰において眠っている状態になってはいけませんと語られます。しっかりと心を開き、目を開いて、主のおことばから真理のみことばを蓄える者になって欲しいと神様は願っています。

Ⅰテサロニケ5章9-10節
9節 神は私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。 10節 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです

 主は怒りをもってさばくことを目的になさっていない。むしろそれらによって気づかされ、悔い改めて救いを得て欲しいと願われる。御子イエス様が神の子としてのいのちをもささげて、死んでくださった。それによる恵みは決して「小さくない」のです。いつでも私たちが主と親しく大きな恵みを味わい歩んで行けるように、こんなにも大きな犠牲をささげてくださいました。光の子らしく歩みましょう。 











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