***6/2(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ4章9-12節「愛と落ち着いた生活」
神の前に聖なる者とは、神の聖なるみこころに生きる者です。
困っている人に手を差し伸べ、何の見返りもなくとも主が造られ愛されているひとりひとりを愛していく者であるのです。
実に、パウロもそれを意識していたのではないでしょうか。先週の学んだ8節までのところで「聖さ」に語られていましたが、今日のこの9節からは「兄弟愛」の話をしていますよね。
1. 主の愛で愛すること
Ⅰテサロニケ4章9-10節
9 兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、10 マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。
パウロは9節の中で「兄弟愛」を「互いに愛し合うこと」と言い換えています。
そして、「あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだ」と説明しています。本当にこれはすばらしいことです。私たちの群れが、この交わりがこんな風に言われる交わりになったら、どんなにか嬉しいことでしょうか。
そして、「互いに愛し合う」というわざの起源、由来が神様にあることがはっきりしています。私たちの内側からこの愛を絞り出すことはできません。人は自分には関心が持てても、なかなか他人には関心を持てないものなのです。他人に関心を持っているようでいてさえ、何かしらの見返りを期待していることがなんと多いことでしょうか。利益があるから関わる、利益があるから好んでいる。そういうことが多いのではないでしょうか。
私たちは自分よがりな愛で愛するようにと教えられているのでしょうか。
いいえ、主イエスが愛されたように、そのように愛せよと教えられていますよね。
ある牧師は、家族のために祈ってあげている。それが愛だと思っていました。しかし、その祈りは自分勝手なもので、妻が家事を頑張れるように、子どもが良い成績を取り、親の言うことをできるようにと、自分の望むことを神に願っていただけだったと反省し、告白しています。自分自身が神様から、まず本物の愛を学ぶ必要があったのだと。
私自身も振り返ると「ひとりよがりな愛」「自己満足的な愛」で家族を愛していることに気づかされたことがあります。それはもはや聖書の愛ではないのですが・・・。ここにあるように、私たちは神様からまことの愛を教えていただく必要がありますね。
Ⅱコリント8章1-2節にはこうあります。
Ⅱコリント8章1-2節
1節 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2節 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。
2. 落ち着いた生活によって
11-12節は、地に足を着けた生活、品位のある落ち着いた生活をせよとの教えです。これも広い意味では聖さに関わるかと思うのです。自堕落な生活ではなく、なすべき仕事をなし、他の人に対しても品位を持って自立した生活をすることです。
21章25-26節
11節 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。12節 外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。
そして、外の人に対しては、愛することはもちろんなのですが、地に足を着けて仕事に学びに忠実に取り組む姿勢も証しとなるのだ、宣教の一助となるのだと教えられます。