東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ4章9-12節「愛と落ち着いた生活」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/02

Ⅰテサロニケ4章9-12節「愛と落ち着いた生活」

***6/2(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰテサロニケ4章9-12節「愛と落ち着いた生活」

先週は神の聖さにあずかり、聖なる者として歩むということを教えられました。そして、その中で「聖さ」とは内的・個人的なことで終始するものではなく、人々との関りの中で捉えるべき面があることを教えられました。愛のない聖さなど存在しないということでした。

神の前に聖なる者とは、神の聖なるみこころに生きる者です。
困っている人に手を差し伸べ、何の見返りもなくとも主が造られ愛されているひとりひとりを愛していく者であるのです。


実に、パウロもそれを意識していたのではないでしょうか。先週の学んだ8節までのところで「聖さ」に語られていましたが、今日のこの9節からは「兄弟愛」の話をしていますよね。


1. 主の愛で愛すること
 

Ⅰテサロニケ4章9-10節
9 兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、1マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。

ただし、パウロによれば「兄弟愛」については「書き送る必要がありません」と言われるほどに、テサロニケの兄姉が実践していたということがわかります。パウロからここまで評価されるのはすばらしいですね。厳しい迫害や困難があったからこそ、互いに愛し合い支え合うことなしには厳しかったのかも知れませんね。

とある宣教師家族は、伝道が困難な国で宣教をされました。それこそ迫害を受けました。家に石を投げられるようなこともあったそうです。しかし、その分家族の絆が深まったとも言われました。厳しい困難な状況だからこそ、互いに支え合い愛し合う群として成長することもあるのです。

そういう意味では、必ずしも迫害を初めとする試練、困難はマイナスではないのだということにも気づかされます。私たちもコロナの問題で必ずしもネガティブにとらえることばかりではないでしょう。このような時だからこそ、互いのためにますます祈り合い、励まし合い、協力して絆を深める機会とすることもできるのではないでしょうか。

 パウロは9節の中で「兄弟愛」を「互いに愛し合うこと」と言い換えています。
 
 そして、「あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだ」と説明しています。本当にこれはすばらしいことです。私たちの群れが、この交わりがこんな風に言われる交わりになったら、どんなにか嬉しいことでしょうか。

 そして、「互いに愛し合う」というわざの起源、由来が神様にあることがはっきりしています。私たちの内側からこの愛を絞り出すことはできません。人は自分には関心が持てても、なかなか他人には関心を持てないものなのです。他人に関心を持っているようでいてさえ、何かしらの見返りを期待していることがなんと多いことでしょうか。利益があるから関わる、利益があるから好んでいる。そういうことが多いのではないでしょうか。

 私たちは自分よがりな愛で愛するようにと教えられているのでしょうか。
 いいえ、主イエスが愛されたように、そのように愛せよと教えられていますよね。

 ある牧師は、家族のために祈ってあげている。それが愛だと思っていました。しかし、その祈りは自分勝手なもので、妻が家事を頑張れるように、子どもが良い成績を取り、親の言うことをできるようにと、自分の望むことを神に願っていただけだったと反省し、告白しています。自分自身が神様から、まず本物の愛を学ぶ必要があったのだと。

 私自身も振り返ると「ひとりよがりな愛」「自己満足的な愛」で家族を愛していることに気づかされたことがあります。それはもはや聖書の愛ではないのですが・・・。ここにあるように、私たちは神様からまことの愛を教えていただく必要がありますね。

 10節では、具体的にマケドニア地域全体の教会、兄姉に対してテサロニケの兄姉が愛を実践したことが語られています。そして、ますますそうなるようにと勧められています。テサロニケの兄姉が自分の教会の中だけでなく、他の教会の兄姉に対しても愛をもって関わっていたことがわかります。

Ⅱコリント81-2節にはこうあります。

Ⅱコリント8章1-2節
1節 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2節 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました

マケドニアの諸教会の中にテサロニケの教会も含まれています。むしろテサロニケはその中でも模範的でした。テサロニケの教会が「与える教会。愛の教会」だとわかります。極度の貧しさという状況は、自分たちのことで必死になるはずの状況です。他の人々のことに関心を持つ余裕などなくなってしまうでしょう。

しかし、それにも関わらず、あふれ出て、惜しみなく施す富となったというのです。そこに愛があるのです。これこそイエス様のような犠牲的な愛です。

 私たちの群は最近でこそだいぶ増えて参りましたが、少し前までは小さな群でした。来月の家賃の心配をしていた時期もあります。多くの方々に私たちも支えられて来ています。しかし、その小さな群でも宣教のために献金をささげてきた時に、それが証ともなりました。自分たちの教会が大変な時でも宣教献金や被災地への献金をしている。そういう状況を知った方々から、その事実で励まされたと言われたことがあります。

会堂建設が大変な時に、外部にそんな風に応援しているなんて・・・と。

小さな群であっても、自分たちのことに必死になり過ぎず、他の兄弟姉妹たちのことを思いやり、祈り、ささげる姿勢。協力する姿勢。実にこれらが励ましとなる、証となるのだなと教えられました。

 

2. 落ち着いた生活によって
 
 11-12節は、地に足を着けた生活、品位のある落ち着いた生活をせよとの教えです。これも広い意味では聖さに関わるかと思うのです。自堕落な生活ではなく、なすべき仕事をなし、他の人に対しても品位を持って自立した生活をすることです。

 21章25-26節
11節 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。12節 外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。

 特に背景にあったこととして、主の再臨について、すぐにでも来るという理解が極端になり過ぎて、もう今何かをやっても「どうせすぐ世の終わりが来るんでしょう!」と投げやりになる人々もいたようです。投げやりになって、フワフワした生活ではなく、落ち着いた生活をするようにと教えられています。

 仕事においても学びにおいても、いい加減にならず、しっかりやるべきですね。

 そして、それらは人々に対する証のためでもあると言っています。自分の手できちんと働くということが、外の人に対しても証しになるものですよね。

 12節では「外の人々に対して品位を持って歩み、誰の世話にもならずに生活するためです」と語られています。品位を持ってという言葉は「適切に、礼儀正しく」とも訳せることばです。外の人々とは、まだ神を知らない人々でしょう。未信者の人々、キリスト信仰を持たない人に対して、礼儀正しく、ふさわしい態度で歩むことも大切ですよね。しっかりと自分の手で自立した生活をするようにと教えています。

 「誰の世話にもならず」とあるように、人に依存的に歩むのではなく、自立して歩みなさいということです。もちろん、誰かの助けを借りることは決して悪いことではありません。むしろ、助けをしっかり求め、一人で背負い過ぎないことも大切です。真に自立した人こそ、適切に人の助けを借りることができ、また依存し過ぎないバランス良い歩みができるものだからです。

  キリスト者同士の内なる交わりにおいては、互いに愛し合い、与え合う交わりを築くこと。これ自体が、世界に対してイエス・キリストの愛を証しする歩みになりますよね。

 そして、外の人に対しては、愛することはもちろんなのですが、地に足を着けて仕事に学びに忠実に取り組む姿勢も証しとなるのだ、宣教の一助となるのだと教えられます。 




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