東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マルコの福音書9章30-37節「わたしの名のゆえに」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/07

マルコの福音書9章30-37節「わたしの名のゆえに」

 *** 6/6(日)主日礼拝 ***

マルコの福音書9章30-37節「わたしの名のゆえに」

岡村健研修生
序 論 
 今日のところでイエス様は、あなたがたは小さな存在を愛し続ける者でありなさいと教えてお られます。さらに言うなればそれは、愛し難い人をも愛する者であれとなるでしょう。 


本論

1. 無力で無理解な弟子たち

 

1-1 二度目の受難告知を理解しようとしない弟子たち 

 ペテロの信仰告白が8章27節以降に記されていまして、この信仰告白を境に後半部に入りま す。弟子たちはこのとき、無力で無理解な者たちでした。イエス様はそんな弟子たちを引き連れて エルサレムへと向かわれます。その際、イエス様はご自分の所在を「人に知られたくないと思わ れ」ました。その理由は、弟子たちに大切なことを教えるためでしょう。つまり、群衆に奇跡を 見せ、癒やしを与えることよりも、十二弟子に大切なことを教えて訓練する。そのような段階に あったからです。いま、弟子たちに大切なことが語られていきます。31節。
  
「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」  

 これは二度目の受難告知です。イエス様は、ご自分が救い主であるとはどういうことなのかを 知らせるため、また、ご自分に従う者の道がどれほど険しいものなのかを知らせるために、弟子 たちに改めて受難告知されました。イエス様は無力で無理解な弟子たちを見捨てずに、もう一度 丁寧に語ってくださったんですね。  
 
 弟子たちはイエス様のこのことばを理解する必要がありました。真剣に耳を傾け、受難告知を よく理解しなければなりませんでした。それは、イエス様の弟子として歩むとはどういうことな のか。そのことを知り、弟子としてよく整えられるためです。ところが、9章32節にありますよう に、弟子たちは二度目も理解できませんでした。ギリシャ語原文には「できる」「できない」は付 されていません。能力の欠如というよりも、聞こうとする、知ろうとする信仰の欠如です。した がって、弟子たちはこの受難告知を理解しなかった。理解しようとしなかったと言うことが出来 ます。イエス様は復活の希望も合わせて語られましたが、彼らは理解しようとしませんでした。尋 ねることさえも、しようとしませんでした。四福音書はすべて、イエス様の十字架に向かう旅路に おいて、弟子たちが恐ろしいほどに無理解であったということを何度も示していきます。痛みや悲 しみを抱えながらことばを語られるイエス様と、意地でもそれを聞こうとしない、弟子たちの無 理解が対比されています。 

 ところで、なぜ弟子たちはこんなにも無理解だったのでしょうか。なぜ弟子たちは、理解する ことをしようとしなかったのでしょうか。それは、メシアなるお方が殺されるなんて考えられなかったから。イエス様が死んでしまうなんて考えたくもなかったからです。皆さんご存知のよう に、弟子たちの願っていた「救い」とは、ある意味で現世的なものでした。彼らの願っていた救 いとはすなわち、このイエスというお方がイスラエルをローマ帝国の圧政から解放して、王となる というものでした。そして彼らは、イエス様と一緒に自分たちも上に行くという願望を抱いてい ました。   

1-2 だれが一番偉いか論じ合う弟子たち  

 その証拠に彼らは、カペナウムまでの途上で「だれが一番偉いか論じ合って」いたと、34節に あります。人との対比においてだれが一番偉いか。だれが一番力があるか。だれが一番、人を導 く立場に適しているか。彼らは、イエス様が十字架にかかるために歩んでおられたその背後で、そ んなことを論じ合っていたと言うのです。これはとても悲しいことですよね。イスラエルがローマ 帝国の圧政から解放され、イエス様が王となった暁には、誰が大臣の位に着かせていただけるの か。誰が一番偉くなれるのか。彼らはそんなことを論じ合っていました。34節の「論じ合う」と いうことばは「言い合う」というようなことばです。論理的にというよりも、適当なことをただ 口から言い合っている状態。無理解で、思慮や恐れがなく、ただ軽薄なことばだけが飛び交って いる状況。こんな弟子たちの姿を見たイエス様は、どれほど御旨を痛ませたことでしょうか。も う関わりたくない。話したくない。見放されても良いような、そんな弟子たちです。   



2.弟子たちを導く主イエス


2-1 腰を下ろしてじっくりと語られる主イエス 

 それでもイエス様は、弟子たちが無理解だからと見捨てるのではなく、弟子たちがやがて理解 することになると信じて、語り続けてくださいました。「腰を下ろ」してじっくりと語られるイエ ス様の姿が35節にあります。イエス様と弟子たちが今いるカペナウムという場所は、多くの弟子 たちとっての生まれ故郷でした。イエス様に初めて出会い、みことばをいただいた生まれ故郷。 このお方に従っていこうと網を捨て、最初の一歩を踏み出した原点であると言うことが出来ます。 そのような場所でイエス様は、「腰を下ろ」してじっくりと語り始められました。35節の後半。  「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」  

  イエス様は、だれが一番偉いかと言い合っていた弟子たちに対して、先頭に立つなとは言われ ませんでした。人には導いてくれる存在が必要です。その先に何があるのかを知り、人を正しく導 くことのできる人がどうしても必要です。現に私たちは、そのような人の祈りと励ましによって 救いに与せていただき、また、成長の過程を歩ませていただいています。人を本当に愛して、導く ことのできる人。私たちもまた、その姿を目指したいと願うのです。 

 ところがその際に、「先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」 とイエス様はおっしゃいます。私たちが人の先頭に立つ者として用いられるというのは、弟子たち が考えていたような偉くなるということではありません。横を見て自分を高めることでもありま せん。ヒエラルキー型のその頂点に立つということではなくて、イエス様がおっしゃったことは それと全く逆のことです。神の国の価値観において、先頭に立つというのは、「皆の後になり、 皆に仕える者に」なるということ。頂点ではなく、むしろ底辺に、下へ下へとへりくだって仕え る者であるということです。   

2-2 一人の幼な子を抱きしめる主イエス

 では、私たちはどのようにして「皆の後になり、皆に仕える者」になるのでしょうか。イエス 様は教えの最中で一人の子どもの手を取り、弟子たちの真ん中に立たせました。「子ども」と訳さ れていることばは、小さな幼な子を指すことばです。当時のユダヤ社会において子どもは、無理解 で価値の無いような者と見做される傾向がありました。なぜなら、子どもは律法の教育を受ける ことのできないような、本当に何も知らない存在だからです。また、経済力もなければ権力もな い。たとえこのような一人を受け入れ、仕えたところで、相当な見返りも期待できない。そのよ うな弱く小さな者だったからです。しかしイエス様は、あえてそんな幼な子の手を取り、真ん中に 立たせて、御腕に抱いてくださいました。このような小さき者こそ、神と人とに愛されるべき存在であると抱きしめる。そんなイエス様の姿がここにあります。そしてイエス様は、子どもを抱き しめながら、あなたがたがこのような一人をわたしの名のゆえに受け入れる者であれと教えられ ました。  

2-3 わたしの名のゆえに 

 「わたしの名のゆえに受け入れる」とは、イエス様が小さな人々を愛したのだから、あなたが たも小さな人々を愛しなさいということです。小さな人を受け入れて愛することこそ、イエス様の 愛なのです。イエス様ご自身がその生涯において、無条件に人々への愛を示されました。それは幼 な子のみならず、罪人たちやご自分を引き渡す律法学者たち、弟子のユダ、三度ご自分を知らない と否定したという広い意味でイエス様を裏切ったペテロ、あるいは疑い続けたトマスなど、イエ ス様はみそばに呼び続け、語り続け、極みまで愛し、導こうとしてくださいました。ののしられて も、ののしり返すことをなさらず、殴られても反撃をなさらず、人々の救いと幸いな歩みのため、 十字架の死にまで従い、愛してくださった。最後まで仕えてくださった。このお方の愛ゆえに、私 たちも人々を愛し、仕え続ける者でありたいのです。  



3.御腕に抱かれたのは、この「私」

 
 私たちが人を受け入れることは、時に大変な困難、苦しみを伴うことと思います。いくら何で もあの人のことは愛せないと思うことがあるでしょう。しかし私たちは今日、次のことを覚えた いのです。それは、イエス様の御腕に抱かれ、愛されたあの幼な子は、自分自身であったという こと。私たちは今日このことに、この原点に立ち返りたいと思うのです。私たちは、愛される価 値があったから愛されたわけではありません。よく祈って尋ねたから、ここまで導かれてきたわ けではありません。イエス様が十字架にかかってくださったのにも関わらず、私たちはそれを知ら ず、むしろ敵対していた罪深い私たちでした。けれどもイエス様は、そんな私たちを御腕で抱い て、愛を示してくださった。未来があると信じて、教え導いてくださった。

 小さな人を受け入れることは大変なことですが、しかし人を受け入れるという苦しみや葛藤の 中で、私たちは自分たちがどのようにして受け入れていただいたのかを、本当の意味で知らされて いくようになるのだと思うのですこの「私」に注がれ続けた、イエス様の忍耐、赦し、無条件 の愛を知らされていくようになるのです。  



4.御子を放した御父の愛

 
 そしてそれは、最後の37節後半ですが、単にイエス様の愛を知ることに留まらず御子イエスを 遣わしてくださった御父をも知る営みだと言われています。 
  幼な子を抱きしめるという姿がここにありますが、父なる神は御子を愛しておられました。し かし、父なる神は御腕をほどき、その御子を突き放してくださいました。天の御座から罪にまみ れたこの地に、突き落とすようなことをしてくださいました。御子が十字架で苦しむときに、その 手を伸ばすことはありませんでした。御子が十字架上で叫ばれても、御手を伸ばして助けることは ありませんでした。それは、私たちが自らの罪を知らされて、このお方のいのちによって罪赦され て、新しく生かされるため。父なる神は、私たちが罪を知り、イエス様の十字架によって罪赦さ れて、新しく生きることができるようになるために、大切な御子をその御腕から放し、この地に お与えくださったお方です。 

  「このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる」。私たちはその営みを通し て、イエス様の愛を知り、父なる神の愛を知らされていくことになります。 結論 イエス様は私たちを受け入れ、ののしられ、あざけられ、十字架にかかるほどに愛してく ださったお方。御腕に抱きしめ、守ってくださったお方。このお方のゆえに、私たちは小さき者 を受け入れ、極みまで愛を貫く者でありたいと、そのように思うのです






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